海外文学読書録

書評と感想

エイモス・チュツオーラ『文無し男と絶叫女と罵り男の物語』(1987)

★★★

二千年前のナイジェリア西部に存在したラケツ・タウン。そこの王は予言によって宮殿から息子を追い出し、息子は文無し男と渾名される。さらに、副王は予言によって家から娘を追い出し、娘は絶叫女と渾名される。また、王の片腕は予言によって家から息子を追い出し、息子は罵り男と渾名される。文無し男と絶叫女と罵り男は、程なくして町から追放され、それぞれの運命に従って生きていく。

「ぼくは自分が創造主から引きあてたのが貧乏と悲惨という運命だとはちっとも思わない。することなすこと何もかもうまくゆかないのだったら、前よりもっと一生懸命に努力して働くべきなんだ」。

文無し男は、運命があるかもしれないとふと疑いながらも、このように自分に言い聞かせるのだった。(p.194)

例によって昔話風のプリミティブな物語だけど、デビュー作の『やし酒飲み』に比べてかなり洗練されている*1。既存の文学に近づいて親しみやすくなった反面、初めて読んだときのような衝撃がなくなっていてちょっと寂しかった。 小説って単に上手ければいいというわけでもないみたい。難しいね。

運命というのが小説全体を貫いている。文無し男は創造主から貧乏と悲惨という運命を背負わされ、さらに絶叫女は絶叫を、罵り男は邪な心根を、それぞれ創造主から背負わされている。文無し男は当初、運命があるのを信じていなかったものの、話が進むにつれて揺らいでいき、最終的にはその存在を認めることになる。一方、罵り男は最初から自分に課せられた運命――すわなち邪な心根――を受け入れており、その性格に沿った性悪な行動によってたびたび問題を起こしている。言い換えれば、自分に割り当てられた性格を自覚的に演じているわけだ。罵り男のキャラクターはどこかメタフィクションの匂いがするけれど、たぶん著者はそんなことをまったく意識してなくて、おそらく天然でやっているのだろう。文無し男と罵り男の関係もなかなか愉快で、文無し男は罵り男から何度も酷い目に遭わされているのに、再会したときはまたしれっと友達になってしまう。かと思えば、文無し男が罵り男に強烈な仕返しをしたりしていて、2人の関係は訳が分からない。天然のメタフィクションといい、2人の理解し難い関係といい、こういう大雑把なところが独特の味わいになっている。

独特と言えば、「ぐらぐらするのは踊りのときだけ」とか、「賢い男は雄牛から用心深く逃げる」とか、アフリカの諺が随所に盛り込まれているところも特徴的だ。それと、文無し男たちがラケツ・タウンから追放される際、王の呪いによってなぜか不死の者にされるところもアフリカっぽい。罪人に罰を与えるのに何で不死の者にしてしまうのだろう? 現し世は地獄という価値観なのだろうか? いずれにせよ、先進国の尺度では測れない、我が道を行っているところがこの著者の魅力だと言える。

*1:とは言うものの、町に入っては追い出され、町に入っては追い出されの繰り返しにはいくぶん辟易させられた。