★★★
どこか分からない部屋に一人軟禁されている記憶喪失の老人。語り手は彼をミスター・ブランクと名付ける。ミスター・ブランクの元には様々な男女がやってきて、彼はひょんなことから誰かが書いた物語を読むことになる。
他人の精神が作った虚構でしかない私たちは、私たちが作った精神がいなくなっても生きつづける。ひとたび世界に放り出されると、私たちは永遠に存在しつづけ、私たちの物語は私たちが死んだあともなお語られるつづけるのだ。(p.162)
印象としては、不条理演劇風の小説だった。物語はずっと屋内で進行し、老人のプロフィールがはっきりしないまま続いていく。といっても、まったく謎のわけではない。どうやら老人は元権力者で、過去に様々な人たちを使役し、ある人物からは殺したいほど憎まれていた。そんな老人が物語を読まされ、医師の診察でその続きを考えるよう促される。老人はいったい何の目的で部屋に軟禁されているのか? 物語と老人はいったい何の関係があるのか? この謎めいた状況が本作の牽引力になっている。
オチはポストモダン風で、「なるほど、そうきたか」という感じ。この部分は確かにある種の快感があったけれども、今更これかよという思いも捨てきれず、ちょっと評価に困る感じがする。ここでいったん初期の作風に回帰したということだろうか。
ところで、Twitterで以下のようなツイートを見つけた。
10/14の読売新聞に藤井光さんのインタビュー掲載。アンソニー・ドーア『すべての見えない光』、セス・フリード『大いなる不満』を取り上げ、小山田浩子『工場』にも言及しながら、アメリカ文学は「無国籍風」になり「どこの国でも読まれることが前提の時代」になっていると話しています。
— 新潮クレスト・ブックス+海外文学編集部 (@crestbooks) 2016年10月24日
この傾向は、80年代にポール・オースターが登場してきたことが大きいように思う。ご多分にもれず、本作も無国籍な小説だった。