海外文学読書録

書評と感想

フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドファーザー PART Ⅱ』(1974/米)

★★★★★

(1) 父ヴィトーの跡を継いだマイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)は、ネバダ州に拠点を移してカジノ利権で稼いでいた。ところが、彼はニューヨークの縄張り争いに巻き込まれ、何者かの襲撃を受ける。(2) シチリア島でマフィアに家族を殺されたヴィトー(ロバート・デ・ニーロ)はアメリカに移民し、仲間たちとカタギの生活を送っていた。ところが、地元のギャングを殺したことで人生が一変する。

『ゴッドファーザー』の続編。

前作も傑作だったが、続編の本作はそれ以上の出来だった。若い頃に観たときはここまでいいと思わなかったので、たくさんの芸術作品に触れて鑑賞能力を鍛えた成果は大きい。人間は成長するものである。

マイケルとヴィトーを対比した構成が素晴らしい。2代目のマイケルは父の遺産をどのように保守し、また拡張していくかというのが課題だけど、公私ともに複雑な状況下に置かれて思い通りにいかない。仕事では相変わらず命を狙われるし、プライベートでは信頼していた家族の離反が待っている。先代が築き上げたファミリーに崩壊の兆しが見えていた。一方、若き日のヴィトーは上り調子で、順調に家族と仲間を増やし、新しい事業も興している。彼には明るい未来が待っていた。創業者は失うものが何もないから勢いがあるのに対し、2代目は守るべきものがあるからどうしても停滞してしまう。おそらくマイケルとヴィトーでは能力そのものに差はないのだろう。となると、2人の大きな違いは環境ではなかろうか。王座に挑む側と守る側の違い。そう考えるとヴィトーはつくづく幸運だったし、マイケルは不運で難しい舵取りを強いられている。

本作の主題はマイケルの孤独で、ヴィトーと対比させたのもそれを浮き彫りにするためだ。ヴィトーによって作られた家族が、マイケルの代になって失われていく。ここで考えてしまうのは、もしヴィトーがマイケルの立場だったらどうなっていたかということだ。ヴィトーだったら身内を粛清しただろうか? 裏切り者を始末するのはマフィアの掟だから、マイケルのやったことは別に間違っていない。とはいえ、前作で地域共同体の長みたいな顔を見せていたヴィトーだったら、例外的に温情を示した可能性もある。そこは何とも言えない。いずれにせよ、マイケルは王であるがゆえの孤独を背負っている。

終盤に回想として兄弟の団欒を配置したところが良かった。ここではソニージェームズ・カーン)もフレド(ジョン・カザール)も生き生きとしており、マイケルは慎ましい三男坊として自身の出征を告げている。ところが、いつしか兄弟たちは食卓を離れ、マイケルだけが取り残されるのだった。この短い回想によって、マイケルの孤独が強烈に印象づけられている。本作における最大のハイライトだった。

フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドファーザー』(1972/米)

★★★★★

1945年。ヴィトー・コルレオーネ(マーロン・ブランド)はイタリア系マフィアのボスで、ニューヨーク五大ファミリーの一角を成していた。邸宅では娘(タリア・シャイア)の結婚式が盛大に行われている。式には三男のマイケル(アル・パチーノ)も出席。マイケルはカタギであるものの、戦争の英雄として一族の誇りになっていた。やがて麻薬取引を巡ってトラブルが起こり、長男のソニージェームズ・カーン)が暗殺される。

原作はマリオ・プーゾの同名小説【Amazon】。

『ザ・ソプラノズ』を観た後だと物足りなく感じるけれど、やはりマフィア映画の原点として評価せざるを得ない。何といっても、イタリア系の俳優が雁首揃えてるだけでも迫力がある。本作は抗争の部分が大味とはいえ、麻薬取引の是非を中心とした時代の変遷を意識させつつ、マイケルがいかにして偉大な父を乗り越えるのか、そういう興味を持たせる話作りが良かった。

ヴィトーが徹底して麻薬取引をタブー視しているところが眩しくて、マフィアのくせにいい人に見えてしまうのだから罪深い。彼は娘の結婚式の裏で復讐の代行を引き受けており、この部分からして義理人情に厚い人物ということが分かる。地域共同体の長として、法で裁けない悪を懲らしめようというのだ。のっけから必要悪としてのマフィア像が提示されているところが興味深い。こういったマフィア像は『ジョジョの奇妙な冒険』にも継承されていて、第5部【Amazon】では正義感の強いマフィアたちが悪辣なボスに対して謀反を起こしていた。裏社会を描きつつも、こちら側にある程度の正当性を持たせているところがポイントだろう。だから血生臭い暴力が描かれても大枠では感情移入して見ることができる。本作はマフィアを必要悪として捉えたところが成功の一因だと思う。

久しぶりに観たので、ソニージェームズ・カーン)とアポロニア(シモネッタ・ステファネッリ)があんな風に死ぬとは予想外だった。すっかり忘れていた。敵の魔の手が知らないうちに伸びて突然殺されるので、率直に言ってかなり衝撃的だった。劇中ではたくさんの人が死んでいくけれど、インパクトという意味ではこの2人が双璧を成している。特にアポロニアは死ぬようなポジジョンではなかったので尚更である。

「権力のある者には責任がある」と自ら言ってる通り、マイケルはボスの座を引き継いでからはその責任を果たしていく。洗礼式の裏で殺戮を進めていくところは出来すぎだけど、そこから仕事と家庭の線引きが示されるラストが秀逸だ。女たちはドアの向こうに締め出されるのである。マフィアの世界は男の世界なのだ。そういう世界では家父長制こそがもっとも合理的で、だからこそカタギの僕はマフィアに文化遺産的な価値を見出してしまう。

中島哲也『下妻物語』(2004/日)

茨城県下妻市ロリータ・ファッションをこよなく愛する桃子(深田恭子)は、電車で3時間かけて代官山の洋服屋に買い物に行くのを楽しみにしていた。そんな彼女がふとしたきっかけでレディースのイチコ(土屋アンナ)と出会う。桃子は孤高な女だったが、積極的なイチコに押されて親交を深めていくのだった。やがて事件が起こり……。

原作は嶽本野ばらの同名小説【Amazon】。

これはしんどかった。いかにも日本映画って感じの安っぽい語り口を貫徹している。内容がポップであるぶん、テレビ資本的な悪癖が目立っていた。一部の洋画ファンが頑なに邦画を避けているのは、こういう生ぬるい映画が主流だからだろう。感触としては『映画 ビリギャル』に近くて見るに堪えない。

映像に変なフィルターがかかってるせいで、ロリータ服が全然映えてなかった。たぶん本来だったらもっとヴィヴィッドで可愛いのだろう。それが本作だと普通の洋服と大差ないし、田舎の風景も代官山のお店も、何もかもが死んだ魚みたいで魅力がない。主人公はロココの精神を大事にしているのに、映像がそれに追いついていないのだ。思うにこの変なフィルター、リアルな映像を自力で作れないから小手先で誤魔化そうとしているのではないか。制作上の都合が透けて見えてかなりきつい。

編集もあまり良くなくて、記号的なエピソードをただ並べているだけだった。エピソードが記号的だから、登場人物の反応も記号的で、2人の存在に血肉が通っているように見えない。物語がクリシェの寄せ集めであることをまったく隠さないところはある意味感心するけれど、せめてもう少し工夫が欲しかった。これじゃあ、安っぽいエンタメ小説を読んでるのと変わらない。

とはいえ一箇所だけ良かったところがあって、それは終盤で2人がレディースと対決するシーンだ。桃子のロリータ服に血飛沫がかかったうえ、水たまりに放り出されてびしょ濡れになる。そして、立ち上がって見せたその汚れた姿はすごくインパクトがあった。優雅とか高貴とか、そういうのを超越した独特の美が出現している。ここだけは本当に良かった。

ロリータの桃子とレディースのイチコは、一見すると対極的な存在である。けれども、実はこの2人には交換可能性があると思う。両親がヤクザと水商売の桃子はヤンキーに転がる可能性があったし、厳格な家庭で育ったうえに陰キャのイチコはロリータ・ファッションに耽溺する可能性があった。2人は遠いようでコインの裏表のように近い。親密になるのもむべなるかなである。

ハワード・ホークス『ヒズ・ガール・フライデー』(1940/米)

★★★★

モーニングポスト紙の編集長ウォルター(ケーリー・グラント)のところに、前妻にして元記者のヒルディ(ロザリンド・ラッセル)がやってくる。彼女は保険屋のブルース(ラルフ・ベラミー)との再婚を報告してきた。ところが、ウォルターは策を弄してヒルディに記事を書かせようとする。それは警官殺しの被疑者ウィリアムス(ジョン・カーレン)へのインタビュー記事で……。

個人的にスクリューボール・コメディとはいまいち相性が悪いのだけど、本作は例外的に好みと合致した。同じ監督だったら、『赤ちゃん教育』よりこちらのほうが断然好きかもしれない。

ウォルターとヒルディがマシンガントークを繰り広げるところが圧倒的で、特に序盤は観客を引き込むのに十分な導入部だった。この2人が揃うシーンはだいたい騒がしくて、話の筋を見失わないようこちらも必死に画面を見ている。僕は洋画に関しては字幕派だけど、この映画に関しては吹き替えで観たほうが確実に楽だった。どのシーンもだいたい似たような部屋を舞台にしていて、とにかく会話で見せるんだという意気込みを感じる。マシンガントークを主体としながらも、人物を入れ替えていくことで話を進展させていく手並みが鮮やかだった。

新聞社はスクープのためだったら殺人以外何でもする。一方、市長は選挙のためだったら殺人も含めて何でもする。両者が対極的な存在になることで、新聞社が相対的に正義の側に収まるところが面白い。結局のところ、第四の権力とは私益の追求がしばしば公益の追求と重なるわけで、たとえマスコミの良心が信じられなくても、物事が上手く動けば正義を遂行することが可能なのだ。最近観た『スポットライト 世紀のスクープ』も私益と公益の幸福な結婚で、スクープを追い求めることで教会の悪事を暴いていた。はっきり言って僕はマスコミが嫌いだけど、しかしたまに歯車が噛み合って善行を成すこともあるので、なかなかどうして油断ならない。「必要悪」という言葉がしっくり来る。

本作が制作された当時はヨーロッパで戦争をしていた。アメリカはまだ参戦していない。劇中ではウォルターが「ヒトラーはコメディ欄だ」と言い放っている。今観ると、こういった時代認識が興味深い。彼らにとっては海の向こうの戦争よりも、地元で横行している政治の腐敗のほうが重要なのだ。翌年からアメリカも戦争当事者になってプロパガンダ映画が作られていくのだけど、この時のアメリカ人はそんなこと想像していなかっただろう。本作は幸福な時代の幸福な映画だと思う。

川島雄三『幕末太陽傳』(1957/日)

★★★★★

文久2年。品川宿遊郭・相模屋で佐平次(フランキー堺)と仲間たちがどんちゃん騒ぎをする。ところが、佐平次は無一文だった。佐平次は相模屋に居残って働くことに。一方、相模屋には攘夷の志士・高杉晋作石原裕次郎)が逗留しており、異人館の焼き討ちを計画している。そんなことは余所に、佐平次は機転を利かせて数々のトラブルを解決していく。

勢いのある時代劇で面白かった。落語が元ネタだけあってみんな気風がよく、特にフランキー堺の口跡はまるで落語家だった。この生き生きとした語り口は『男はつらいよ』渥美清を彷彿とさせる。

現代の時代劇はゆるいコスプレ劇にしか見えないけれど、昔のはそうでもなくてきっちりとしたリアリティがある。これは映像が古びているからというのもあるし、役者の所作が古臭いセットに馴染んでいるからというのもある。結局のところ、昔の人は言葉遣いも佇まいも現代人とは違っていて、そのギャップが時代性を感じさせるのだ。そして、その時代性が劇をもっともらしく見せている。本作はコメディ作品なので、当時の観客がリアリティを感じていたのかは疑問である。けれども、現代を生きる僕にはあまり違和感がなかった。

本作は役者の演技や細かい時代考証も去ることながら、物語の構成が素晴らしい。戦後のこの時点でグランドホテル形式をものにしていたのは特筆に値する。物語は複数のプロットが並行しているのだけど、それらを佐平次が八面六臂の活躍で解決する。佐平次がただの遊び人ではなく、したたかな町人であるところがポイントで、不穏な時代をたくましく生きているところが魅力である。その一方、彼は胸の病を患っており、劇中では最初から最後まで咳をしている。このように「死」を予感させながらも強烈なバイタリティを発揮しているところが彼の特徴で、他ではあまり見かけない影のあるヒーロー像を作り上げている。

遊郭の内部はドタバタしていて、いかにも平和を享受しているという体だ。その一方、表通りでは足軽やら何やらが行列を作っていて不穏である。極めつけは、高杉晋作とその仲間たちが異人館の焼き討ちを計画しているところだろう。外側の不穏な空気が遊郭の中にも流れ込んでいて、この世界が永遠に続かないことを予感させる。しかし、そんな激動の時代でも町人たちはたくましく生きていかなければならない。たとえ支配体制が変わっても人生は続くのだ。そのことを踏まえると、生き馬の目を抜く佐平次が頼もしく見えるし、遊女たちが求婚するのも無理はないと思える。