海外文学読書録

書評と感想

エドウィン・L・マリン『拳銃の町』(1944/米)

★★★

西部の小さな町にロックリン(ジョン・ウェイン)という流れ者のカウボーイがやってくるも、彼を雇おうと呼び寄せた牧場主は何者かに殺されていた。その牧場は現在、クララ(オードリー・ロング)と彼女の伯母(エリザベス・リスドン)が経営することになっている。そんなあるとき、ロックリンはポーカーのトラブルでじゃじゃ馬娘アーリー(エラ・レインズ)の怒りを買うことに。

これは西部劇を舞台にハードボイルドをやった怪作というべき映画で、正直ジョン・ウェインはミスキャストだと思う。どちらかというと、彼は西部劇俳優の中でも王道のポジションなので。一応、ジョン・ウェイン演じるロックリンは女嫌いのマチズモだし、好例の殴り合いも見せ場としてある。しかし、目立ったガン・アクションはないし、基本的には巻き込まれ型探偵の役回りなので、見終わった後はいささか消化不良だった。

本作で描かれているマチズモは面白い。まず冒頭、「女は甘やかさない主義かい?」と訊かれたロックリンは、「女はもうたくさん」と答えている。さらに、彼は雇用主が死んで就職がふいになったのだけど、それでも女にだけは雇われたくないと拘りを見せている。こういう時代錯誤なマチズモが、現代人の僕にはとても眩しく映るのだった。その後、中盤ではじゃじゃ馬娘の癇癪をキスで抑え込んでいて、その度し難い男根主義にはくらくらした。クラシック映画が面白いのは、現代とは明らかに価値観が違うからで、観ていて異文化交流的な楽しみがある。この辺は古典文学を読む醍醐味と似ているかもしれない。

ヒロインがじゃじゃ馬娘なのはかなり捻くれている。劇中でロックリンは、淑女のクララとじゃじゃ馬娘のアーリーに好かれる。どちらも掛け値なしの美人だ。どちらかというと、前者がヒロインになったほうが座りがいいだろう。たいていの物語では、お姫様タイプがヒロインになるのだから。しかし、本作はそこを敢えて拒否しているわけで、この筋を考えた人は目のつけどころがいいと言える。

銃を携帯していてもなるべく発砲せず、威嚇や暴力でカタをつけるところが、西部劇のポリシーとしてあるような気がする。銃はあくまで最終手段なのだ。「弱い犬ほどよく吠える」ということわざがあるけれど、すぐに発砲するのはこれに当てはまる。真の男はぎりぎりまで銃を抜かない。そういう美学を本作から感じ取った。

藪下泰司、大工原章『少年猿飛佐助』(1959/日)

★★★

信濃の山里。少年佐助(宮崎照男)は姉のおゆう(桜町弘子)と二人暮らしをしており、いつもは動物たちと遊んで暮らしていた。あるとき、鹿が湖に落ちた子鹿を救おうとして山椒魚の犠牲になる。その山椒魚の正体は夜叉姫(赤木春恵)だった。佐助は夜叉姫と戦うも敗北。捲土重来のため、忍術を修行しようと旅に出る。

『わんぱく王子の大蛇退治』が『ONE PIECE』型の物語だとすれば、修行して敵を倒す本作は『ドラゴンボール』型の物語だと言えるだろう。実際、桶運びの修行は亀仙人の修行を彷彿とさせるし、また、棒切れを使った模擬戦はかりん様の修行のようである。修行して強くなって悪者を倒す。そのシンプルな筋書きは、後の子供向けアニメの定番になるのだった。

前述の事情もあって、物語そのものはこちらの想像を超えるものではない。しかし、序盤の水中戦だったり、中盤の夜叉姫の踊りだったり、終盤の忍術バトルだったり、部分的に見所があるのも確かだ。結局のところ、アニメとは「動き」を見せてなんぼなので、物語はさほど凝らなくてもいいのが強みだろう。何より、クマやサルといった動物たちが愛らしく、彼らを見ているだけでも癒やされる。日本アニメに他の追随を許さない長所があるとしたら、それは動物を可愛くデフォルメするところだと思う。

物語の途中で、佐助の姉おゆうが山賊に誘拐される。彼女は上田城真田幸村中村嘉葎雄)に見初められるほど器量が良く、信濃の山里にはもったいないくらいの美女だ。そんないい女が荒くれ者たちに拉致監禁されるのだから、普通だったらただでは済まないだろう。貞操の危機を迎えることは想像に難くない。しかし、本作は子供向けなのでそこはマイルドになっている。ボスの夜叉姫から鞭を一発食らうだけで済んでいる。こういう配慮に大人の事情が垣間見えて、その苦労が忍ばれるのだった。

配慮と言えば、真田幸村が山賊たちと斬り合いをするシーンにもそれが見られる。幸村は真剣で山賊たちをバッサリ斬り伏せていくのだけど、血飛沫ひとつあがらないし、相手が傷を負った様子もない。刀で斬る際のSEもなく、山賊たちはただ無音で倒れている。ここは実写の時代劇と大きく異なる点で、子供に向けた配慮が窺えるのだった。

それにしても、佐助たちは何が悲しくてこんな人里離れた山奥に住んでいるのだろう? 彼らの住まいは今話題の限界集落どころではない。周囲に岩肌しかないポツンと一軒家である。農業や牧畜をする場所もなく、まるで仙人が住むような土地だ。姉弟とも今はまだ若いから生活できているけれど、老人になって足腰が立たなくなったら餓死するのではないか。見ていて先行きが心配になった。

ジョン・フォード『コレヒドール戦記』(1945/米)

★★★

日本軍による真珠湾攻撃によって戦争の幕が開けた。フィリピンに駐留する第3哨戒魚雷艇隊はブルックリー大尉(ロバート・モンゴメリー)が率いており、副官にはライアン中尉(ジョン・ウェイン)がついていた。そこへ日本の爆撃機が襲来、ライアン中尉が負傷してまう。彼は意に反して病院送りになり、看護兵のサンディ(ドナ・リード)と恋に落ちる。やがて戦局は悪化し……。

原作はウィリアム・L・ホワイトの『They Were Expendable』【Amazon】。

負け戦を題材にしているせいか、この時期の戦争映画にしては珍しく景気が悪かった。本作は結局、主人公たちが陥落寸前のフィリピンから去り、「We Shall Return.」で締められるのだ。まさに「俺たちの戦いはこれからだ」エンドである。戦勝の浮かれ騒ぎを題材にしなかったのは意外で、ジョン・フォードの奥深さを垣間見たような気がする。

戦後間もない映画なので、男のヒロイズムが主題になっていることは間違いない。戦争の英雄たちを格好良く描こうという態度が見て取れる。といっても、戦場でドンパチするシーンは予想以上に少ない。前線からやや離れた場所における、室内劇と野外劇が中心である。この辺は予算の都合だったり時間の都合だったりがあるのだろう。『ザ・パシフィック』みたいな骨太の戦争映画を期待すると肩透かしを食う。

戦闘シーンは少ないながらも頑張っていて、砲弾が空中で爆発したり、爆撃で激しく水しぶきが上がったり、昔の映画のわりには力が入っていた。特に日本軍の巡洋艦が炎上する絵面には迫力がある。魚雷艇は小さいから敵の砲弾が命中しづらいし、小回りが効くから的を絞らせることもない。大きい船と戦うのに向いているのだ。この事実は軍事に無知な僕からしたら目から鱗で、戦争映画もなかなか勉強になるものだと感心した。映像によってひと目で分からせるところがいい。

本作は男のヒロイズムに焦点を当てている。しかし、そこへ男女のロマンスをぶち込んでくるあたり、さすがハリウッド映画という感じだった。たとえば、戦場で女性看護兵を交えて食事会をするなんて、日本軍では絶対にあり得ないだろう。ただ、惜しむらくはこのロマンスが消化不良なところで、結局はヒロイズムの添え物にしかなってないのだからずっこける。そこは古き良きハリウッドの文法からずれていて収まりが悪かった。

マーヴィン・ルロイ『心の旅路』(1942/米)

★★★★

1918年。イギリス中部にあるメイブリッジの精神病院に、記憶喪失の兵士スミス(ロナルド・コールマン)が入院していた。休戦の日、彼は病院を抜け出して外に出る。そして、踊り子ポーラ(グリア・ガースン)と出会い、彼女に親切にしてもらうのだった。やがて2人は結婚、田舎の一軒家で一児をもうける。ある日、スミスが仕事でリヴァプールに出ると、道で交通事故に遭って頭を打つ。スミスの記憶はそれで戻るが、今度はポーラとの思い出を忘れてしまった。

原作はジェームズ・ヒルトンの同名小説【Amazon】。

これは面白かった。記憶喪失とラブロマンスの組み合わせなんて今では手垢がつきまくってるのに、それでも本作を見たら「いい話だなあ」と感動している。激しく心を揺さぶるような感動ではなく、物事が収まるべきところに収まったときに生じるしみじみとした感動。この映画を特別にしているのは、ひとえに俳優の力だろう。廃人から英国紳士へと変貌するロナルド・コールマン。そして、軽薄な踊り子からから毅然とした秘書に変貌するグリア・ガースン。思い出を失った前者に対し、後者が側にいながらも節度のある態度を保っていて、その距離感が絶妙だった。こういう物語は、相手に分からせようと強く迫ったら駄目なのだろう。悲しみに暮れながらもひたすら成り行きを見守る。その忍耐が本作を素晴らしいものにしている。

とはいえ、ストーリーはとんでもないご都合主義なので、好き嫌いは相当分かれるような気がする。個人的な話をすると、僕が映画に求めているのはエモーションであり、それを生み出すためならストーリーの整合性はどうでもいいと思っている。ストーリーとはあくまで場面を次に展開する動力にすぎない。だから本作のご都合主義もそんなに気にならなかったけれど、しかし、皆が皆こう割り切って観れるものでもないから難しいところだ。そういうわけで、本作は人を選ぶ映画だと言える。

本作は「鍵」がキーアイテムになっていて、それの使い方が素晴らしかった。ラストでは、スミスが家の扉を開けることで過去を取り戻す。それは閉ざされた心の扉を開けることの象徴なのだった。ただ鍵のかかった扉を開けるだけなのに、これだけのカタルシスが得られるのだから、象徴の力とは強いものだと思う。物事が収まるべきところに収まって感動的だった。

それにしても、ジェームズ・ヒルトンってこういう小説も書いていたのだな。

高畑勲『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968/日)

★★★★

父(横森久)と2人で暮らしていた少年ホルス(大方斐紗子)が、巨人モーグ(横内正)の肩から錆びた剣を引き抜く。モーグによると、それは太陽の剣で、鍛え直せば「太陽の王子」と呼ばれることになるという。やがて父が死去。ホルスは遺言により、他の人間を探す旅に出る。道中、悪魔グルンワルド(平幹二朗)に捕まり、彼の弟になるよう迫られるのだった。その後、窮地を脱したホルスは村を見つけ、孤独な少女ヒルダ(市原悦子)と出会う。

後のジブリアニメを彷彿とさせる作家性の強いアニメだった。宮崎駿も原画と場面設計で関わっている。基本的にアニメは子供が見るものだが、この辺から大人の鑑賞に耐えうる作品が出てきたように思える。

今まで見てきた東映のアニメ映画に比べると、映像としてのスケールが大きくてびっくりする。たとえば、冒頭でホルスが狼の群れと戦うのだが、これがもう『未来少年コナン』【Amazon】に近いレベルの爽快なアクションで見応えがある。縄のついた斧で戦うこの切れ味ときたらもう! かと思えば、その後に巨人モーグがどでかい体をぐぐっと起こし、今度は迫力のある絵面を見せてくれる。このように本作は冒頭からしてただものではなく、アニメ表現に新風を吹き込んだような衝撃があった。

ホルスが大カマスを倒した後、村を流れる川に大量の魚が上ってくる。それを村人たちが歓喜の表情で迎える。この祝祭的な雰囲気は特筆すべきだろう。絵も合唱もめでたさで溢れていて、こういう表現もアニメを見る醍醐味だと思った。彼らの喜びは筆舌に尽くしがたい。

一方、狼の大群が村を襲撃したシーンでは止め絵が多く、現代のアニメに通じる省エネ志向が見られる。おそらく万策尽きたのだろうが、ここだけ明らかに絵が動いてなかったので不自然だった。この頃からアニメ制作はやりくりが大変だったようで、見ていてお察しという気分になる。商業アニメの苦労を思い知った。

本作は村人たちの群集心理をリアルに描いている反面、敵のグルンワルドについては悪事を為す目的がいまいち分からなくて困惑した。どうやら人類を滅ぼしたいらしい。でも、そんなことをしていったい何になるのだろう? 彼の配下と言ったら少数の動物くらいで、人類を滅ぼした後で何をするかというヴィジョンが見えない。だから物語を動かす空虚なコマとしか思えず、「悪魔は目的もなく悪事を為すから悪魔なのだ」と自らを納得させるしかなかった。この辺はもう少し奥行きを持たせてほしかったところだ。

ともあれ、アニメおたくなら見ないといけない映画であることには間違いない。巨匠・高畑勲も宮崎駿に比べるとパッとしない印象だが、本作はそれを覆すくらいの映画だった。