海外文学読書録

書評と感想

ピーター・ファレリー『グリーンブック』(2018/米)

★★★★

1962年のニューヨーク。イタリア系白人のトニー・ヴァレロンガ(ヴィゴ・モーテンセン)は、ナイトクラブで用心棒の仕事をしていた。ところが、彼の職場が改装工事のために閉鎖されてしまう。仕事を探していたトニーは、色々あって黒人ピアニストのドン・シャーリー(マハーシャラ・アリ)の運転手をすることに。グリーンブックを携帯し、ディープサウスを巡るコンサートツアーに旅立つ。

水と油の2人が信頼関係で結ばれていくところが良くて、ロードムービーとして素直に楽しめた。本作は一応、人種差別が柱になっているけれど、それは2人が立場の違いを乗り越えるための装置に過ぎず、ここを軸にして観るのは間違っているような気がする。主眼となっているのはトニーとドンの友情であり、異人種間のバティものとして受け取るべきではないか。だいたい「白人の救世主」で何が悪いのだろう?

白人と黒人の立場を逆転させているところが本作の面白ポイントだ。白人のトニーはブロンクス育ちで粗暴な性格をしており、育ちの悪さを全開にしている。彼の言動は下品だった。一方、黒人のドンはクラシック音楽という白人文化の担い手をしており、その言動は貴族のように上品である。被差別階級のほうが強大な文化資本を所持しているうえ、コンサートツアーでは主人と使用人という立場も入れ替わっていた。本来だったら白人が主人で黒人が使用人なのに、トニーとドンではその立場が逆転している。

と、個人間ではそういったちぐはぐさが成り立っている反面、世間では黒人差別が横行している。特にディープサウスではその傾向が強く、ドンは上品な恰好をしているにもかかわらず、高級レストランからは締め出され、ホテルも黒人専用のボロ宿に追いやられている。また、官憲も当たり前のように差別的な対応をしていた。そういった土地のしきたりは容赦がなく、内と外で甚大なギャップが生まれている。

トニーがホワイトトラッシュのステロタイプなのに対し、ドンは黒人のステロタイプとは正反対である。この時代にドンが高い文化資本を所持しているのは、ひとえに教育の賜物だった。これで思い出したのがミシェル・オバマの自伝【Amazon】で、彼女は黒人の労働者階級であるにもかかわらず、プリンストン大学に進学して弁護士になっている。ミシェルは幼い頃からフォーマルな英語を叩き込まれていた。そうすることで上昇するチャンスが生まれるから、という両親のはからいである。結局のところ、階級差をひっくり返すには教育が何よりも大切で、そのことに気づいた家庭が最終的に勝利するのだ。持たざるものはとにかく学ぶしかない。このことは肝に銘じておきたいと思う。

ドンが黒人専用のレストランで演奏するシーンが本作のハイライトで、音楽で感動させるような構成になっているところが良かった。それまでスタインウェイのピアノでしか演奏しなかったドンが、場末のボロピアノで演奏する。また、それまで白人の前でしか演奏しなかったドンが、黒人の前で楽しそうに演奏する。音楽とはお高くとまったものではなく、奏者も聴衆も一体となって楽しむものである。白人文化の体現者だったドンの下への歩み寄りが心地よかった。

トニーの拳銃をめぐるサプライズ。また、ニューヨークへの帰り道で警官に呼び止められてからの意外な展開。そういった細かい仕掛けも効いている。

豊島圭介『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』(2020/日)

★★★

1969年5月13日。東京大学駒場キャンパス900番教室で、三島由紀夫と東大全共闘の討論会が行われた。教室には1000人を超える学生たちが集まっている。当時、その様子をTBSが取材していた。三島は壇上で芥正彦らと討論する。

三島由紀夫については陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地での事件が脳裏にあったので、あんな感じの物騒な雰囲気なのかと思いきや、意外にも討論会は和やかだった。彼はユーモアを交えたスピーチで聴衆を笑わせている。一方、全共闘側もきちんとディベートのルールを守っていて、両者は対立関係にありながらも概ね紳士的にコミュニケートしていた。

全共闘も三島も、日本人にとっての永遠のテーマを追求している。つまり、どうすれば社会を変えられるのか、という問題だ。賢い人だったら、「選挙に出て政治家になれ」と諭すだろう。しかし、それは現実的ではない。たとえ政治家になっても地位を駆け上がるのに時間がかかる。できることなら手っ取り早く社会を変えたい。そんなわけで、全共闘は組織的な運動に賭けた。そして一方の三島も、楯の会を結成して反対側からアプローチしている。左翼と右翼、どちらも非合法によるショートカットを目指したのだ。面白いのは両者に共闘の可能性があったことで、三島は天皇さえ神輿にかつげば手を組むのもやぶさかではなかったという。全共闘の本質は反米愛国運動であり、左右の思想は問題ではなかった。これが三島の本音かどうかは分からないけれど、この期に及んで共闘を持ち出すあたり、なかなか食えないと思う。

当初はエロチシズムに耽溺していた三島が他者を求め、積極的に政治活動をしていく。これって偉大な作家にありがちなパターンかもしれない。たとえば、村上春樹も当初は自閉的だったけれど、いつしか表に出て政治的な発言をするようになった。デタッチメントからコミットメントへ。成熟とは自己の檻から飛び出し、他者と関わっていくことなのだろう。他者は思い通りにならない。それどころか、自己と対立する。だからこそ他者の集積である社会に身を投げ出し、自己と他者の融和を図る。昨今のタコツボ化したネット民とは大違いである。

平野啓一郎によると、三島は認識と行動の二元対立を重視していたという。ところが、三島も全共闘も行動したがゆえに敗北していった。結果的には、認識していただけのノンポリが無傷で生き残った。しかし、これは行動そのものが問題なのではない。行動の方法が間違っていたのだ。おそらくは両者とももっと上手くやれるルートがあったのだろう。最近のフィクションではループものが流行っているけれど、これは数ある行動から正解を模索する思考実験的SFで、「人間は最良の選択をすれば勝利できるのだ」という信念がある。こういうフィクションが生まれるのも最良の選択をすることが現実に難しいからで、行動を放棄せずにハッピーエンドを迎えることの大変さを物語っている。ただ、残念なことに我々の世界にはループなんて存在しない。自分が起こした行動はやり直しがきかず、だからこそ多くの人々は無残に敗北していく。三島と全共闘の末路に人生の本質が垣間見える。

アニエス・ヴァルダ、JR『顔たち、ところどころ』(2017/仏)

★★★★

87歳の映画監督アニエス・ヴァルダと33歳のフォトアーティストJR。2人がコンビを組んで映画を作る。アニエスとJRはスタジオ付きのトラックでフランスの田舎を巡り、地元民を被写体にした巨大ポートレートを壁に貼っていく。

アニエス・ヴァルダとJRが人間的にも芸術的にも相性が良くて、見ていて心が温まるような映画に仕上がっていた。本作にはロードムービー的な面白さと芸術ドキュメンタリー的な面白さが同居しており、一粒で二度美味しい映画になっている。2人が徹底して人間にスポットを当てているところが良かった。

壁に貼られた巨大ポートレートがどれも絵になっていて、芸術家のやることは一味違うなと感心する。無機質な壁にでかでかと貼り付けられた人間の顔。しかも、これは刹那的な芸術なのだ。壁に糊を塗って写真が印刷された紙を貼ってるだけだから、雨が降ったり風が吹いたりしたらあっさり消えてしまう。しかし、そういった一過性の表現を映像に収めて永久化し、その場にいない人間に届けるところが映画のマジックなのだ。映画にとってもっとも重要なのは映像だけど、ストリートアーティストと組むことでそれが無限に供給されていく。一方、ストリートアートにとっても永久化は悪い話ではなく、映像に収められることで世界中の人々に見てもらえる。そんなわけで、本作では2つの芸術様式がWin-Winの関係になっている。

目というのが本作の縦軸になっていて、アニエスは被写体が眼鏡をかけていた場合、それを外してもらっている。そのほうが目が綺麗だから、と。こうした価値観の原点はアニエスが若かった頃にあって、それはいつもサングラスをかけていたゴダールが彼女の前でとってくれたことにあった。目については周到に脚本が練られていて、アニエスが目の病気で治療している映像が挿入される。彼女の視界は下のほうだけぼやけていた。一方、JRは常にサングラスをかけており、アニエスにも観客にも目を見せない。いずれサングラスをとって目を見せてくれるだろう、という期待が醸成されている。実際、彼はラストでサングラスをとるのだけど、そのときの手法が双方の意を汲むような形になっていて巧妙だった。アニエスの視界がぼやけていることが伏線になっている。

本作はモノクロとカラーが幸福な結婚を果たしていて、この2つが強烈なコントラストをなしている。でかでかと貼られた写真はモノクロで、それ以外はカラー。しかも、カラーの部分は被写体の服装を中心に色鮮やかだ。さらに構図もいい。たとえば終盤、写真を貼ったコンテナをうず高く積み上げ、3人の被写体が3つのコンテナからそれぞれ姿を見せている。このシーンは壮観だった。

アニエスとJRが想像力を重視しているところもポイントで、本作はそれの実践になっている。想像力は人間と関わるもの、というのが2人の持論なのだ。映画監督とフォトアーティスト、一流の芸術家の共通認識が知れて参考になった。

長谷部安春『みな殺しの拳銃』(1967/日)

★★★

赤沢興業の幹部・黒田竜一(宍戸錠)が、会長(神田隆)の命令で彼の愛人を殺害する。竜一にはクラブを経営する弟・英次(藤竜也)とボクサーをしてる弟・三郎(岡崎二朗)がおり、2人は会長のやり口に反発するのだった。その後、三郎が会長の手下によってボコボコにされ、英次の店も派手に荒らされる。

ジャズがよく似合うハードボイルド映画。最近観た『拳銃は俺のパスポート』に比べるとワンランク落ちるものの、相変わらず宍戸錠が格好良かった。

カット割りが劇画(写実的な漫画)みたいで驚いたのだけど、これは順序が逆で、劇画が映画を参考にしたのだろう。ダイナミックな視点による大胆なカット割り。特に印象的だったのが、男と女が連れ立って歩いているところをロングショットで捉えたシーン。ここは『ルパン三世』【Amazon】のエンディングを彷彿とさせる。ともあれ、劇画と映画、双方が密接な影響関係にあることを確認した。

宍戸錠って見た目は普通のおじさんなのに妙に格好良くて、なぜそう見えるのかといったら声が渋いからだろう。今どきのイケボ(ホストみたいななよなよした声)とは対極にある低音ボイス。個人的に聞いていて気持ちいいのがこういう声で、イケボを聞くとぶん殴りたくなる。そして、彼は終始眉間に皺を寄せている。いつ見ても苦み走った表情をしており、喜怒哀楽をまったく示さない。声と表情によって独特のダンディズムを表現している。

終盤のアクションはよく考えられていて、多勢に無勢を武器の優位で覆している。竜一はライフル銃で遠距離から敵を狙撃、それに対して敵は拳銃しか持ってないから有効な反撃ができない。威力も射程も精度も竜一が勝っている。とはいえ、敵も数の力で竜一を追い詰めていき、最終的には竜一と旧友(二谷英明)の一騎打ちに及ぶ。一連の流れはちゃんと見せ場になっていて感心した。

英次の死に方が『灰とダイヤモンド』からあからさまに借用しているのには面食らった。思わぬサプライズである。また、本作だと女は完全に添え物で、フェミニストが観たら眉をひそめそう。現代だとこういう男臭い映画は作りづらいのではなかろうか。ともあれ、娯楽映画は時代を反映しているから面白い。

難点は俳優たちが小声で喋っているためセリフが聞き取りづらいところ。セリフに合わせてボリュームを上げると今度は音楽がうるさくなる。当時の観客がちゃんと聞き取れていたのか疑問だ。

フランシス・フォード・コッポラ『ゴッドファーザー PART III』(1990/米)

★★★★★

1979年。ニューヨークに拠点を戻して財団の運営しているマイケル・コルレオーネ(アル・パチーノ)は、多額の寄付をしたことでバチカンから叙勲されることになった。そこで大司教からある取引を持ちかけられ、投資会社の巨額買収に乗り出す。一方、マイケルの甥っ子ヴィンセント(アンディ・ガルシア)はファミリーで違法なビジネスを担当していたが、ある日、マイケルの娘メアリー(ソフィア・コッポラ)と相思相愛になる。

『ゴッドファーザー PART II』の続編。

このシリーズはすべてに星5をつけてるけれど、飛び抜けて良かったのが2作目で、1作目と本作はだいたい同じくらいだった。もちろん、2作目に劣るとは言っても一流の映画であることには間違いなく、見終わった後の満足度は高い。シリーズの掉尾を飾る作品としてふさわしい出来だった。

今回はマイケルの晩年を描いているのだけど、彼が手に入れた地位と名声の裏にはぬぐい難い罪悪感があって、その年老いた姿と相俟って何とも言えない哀愁が漂っていた。彼は人を殺し、殺させたことを悔いている。特に実の兄弟であるフレドのことが忘れられず、ふとしたことから枢機卿に告解する。非情な世界で生きるマフィアにも、我々と同じ人間性が隠れていたのだ。こうした弱さは後の『ザ・ソプラノズ』に受け継がれていて、マフィアのボスが精神科医のセラピーを受けるまでに至る。殺人のプロでも暴力には耐えられない。これは戦場に赴く兵士にたとえると分かりやすいだろう。『戦争における「人殺し」の心理学』【Amazon】によると、第二次世界大戦中、米兵のライフル銃手のうち、実際に敵に向かって発砲したのは全体の20パーセントに過ぎなかった。残りの80パーセントはろくに銃口を向けなかったという。また、ベトナム戦争イラク戦争では、少なくない数の帰還兵がPTSDになっている。訓練された人間でも暴力には耐えられない。殺人とは精神に強烈な負荷をかける行為なのである。

人間は各々我欲を持っていて、それが複雑に絡み合うことで揉め事になる。特にマフィアは我欲の塊だから争いになりやすい。しかも、命のやりとりも辞さないのだから狂っている。本作ではそういった我欲のぶつかり合いが終盤のオペラに集約されていて、この部分のカタストロフはシリーズ随一だった。華々しいオペラの舞台裏で、複数の殺人劇が進行していくのである。一連のシークエンスは舞台設定とプロットが絶妙に噛み合っていてスリリングだった。

人を殺すものは人によって大切なものを奪われる。たとえ聖職者から赦しを得ても、その因果からは逃れられない。このシリーズ、終わってみれば実に無情な物語だ。