海外文学読書録

書評と感想

中川信夫『地獄』(1960/日)

★★★

大学生の清水四郎(天知茂)は教授の娘・幸子(三ツ矢歌子)と婚約していた。そんな四郎に同じ大学の学生・田村(沼田曜一)が付きまとってくる。四郎は田村を煙たがっていた。ある日、四郎が田村の運転する車に乗っていると、酔っぱらいが前に飛び出してくる。田村はそのまま轢き逃げするのだった。その後、事故で幸子を失った四郎は実家に戻り、幸子とそっくりサチ子(三ツ矢歌子)と出会う。

寺山修司を彷彿とさせるアングラ映画だった。脚本はどうにも安っぽいものの、舞台が地獄に移ってからのシュールな映像が目を引く。

四郎に付きまとう田村は悪魔的人物であり、物語に刺激を与えるトリックスターである。彼は四郎を悪徳の道へ引きずり込もうとしている。のみならず、養老院に集った人たちの罪を暴き出して場を撹乱させている。この田村は象徴的には四郎の半身だろう。『ドラゴンボール』【Amazon】でたとえると、四郎が神様で田村はピッコロ大魔王である。つまり、四郎から分離した悪の部分、それが田村なのだ。四郎が様々な死と出くわすことで罪悪感をおぼえるのに対し、田村はどこ吹く風といった感じで四郎を唆している。四郎は罪悪感から逃れたいという願望を抱いており、それを投影した姿が田村なのだ。だから田村は四郎に付きまとって奔放な姿を見せ続ける。理想的な存在として。

幸子とサチ子の関係も興味深い。この2人は瓜二つで同じ女優が演じている。前者は婚約者で、後者は実家で出会った女だ。幸子を失った四郎はサチ子に恋をすることになる。ここで面白いのはサチ子の正体だろう。実は四郎の妹だったのだ。妹と瓜二つの幸子と婚約していた四郎は、象徴的には近親愛をしていたことになる。しかも、四郎は幸子を妊娠させていたのだった。地獄では水子となった赤ん坊が蓮の上に乗せられて川を漂っている。この赤ん坊は近親相姦の象徴と言えるだろう。四郎は田村という半身と向き合いながら、血の繋がった半身(幸子という回路を通じたサチ子)と禁断の関係を結んでいる。この二重構造は注目に値する。

地獄の映像は特撮を駆使したり小道具を使っていたり工夫が見られる。印象に残っているのは皮剥ぎの刑だった。皮を剥がれた人間がまた珍妙で、リアルな人体模型といった感じのグロさがある。この場面、よく見ると心臓が動いていて可笑しい。どこか『エレファント・マン』【Amazon】を彷彿とさせる映像で、美術の頑張りが透けて見える。当時は最先端の技術だったのではなかろうか。

照明の使い方も特徴的だ。人物にせよ物体にせよ、とにかく周囲を暗くして見せたい部分にだけ光を当てている。全体としては古き良き表現主義のような格式があって、一周回った新鮮さに溢れていた。現世にせよ地獄にせよ、本作はリソースのほとんどを映像に振っており、カルト的な人気が出そうな映画に仕上がっている。

養老院の人たちが毒入りの酒を飲んで大量死するのもツボだった。展開はめちゃくちゃだし、絵的にもめちゃくちゃだし、何もかも規格外である。映画としてはあまり好みではないものの、得難い魅力があることは認めざるを得ない。

ロバート・R・マキャモン『スワン・ソング』(1987)

★★★

核戦争が勃発。アメリカはソ連の核ミサイルによって不毛の地となった。不思議な力を持ったスワンは、仲間たちと町で農作物を作る。また、魔法のアイテムを持ったシスターは、啓示に導かれるままスワンの元へ。コンピューターおたくのローランドは大佐の側近として軍隊に所属し、非道の限りを尽くす。そんななか、真紅の目の男が彼らに介入し……。

彼は黙想する偶像のように沈黙したままだった。やがて目を閉じたままこういった。「その昔……世界はとしても美しかった。わたしは知っている。わたしはそれを広大なる暗黒の宇宙から眺めたのだ。そして世界は正しかった。その昔、地球がそんなであったか、わたしは知っている。そしていまどんなであるかも。悪は最期の時に消滅するのだよ、いいかね。全世界が天国のタロンによって再び清められるのだ」(下 p.576)

上下巻。

終末もの。『ザ・スタンド』のオマージュらしい。とはいえ、日本での翻訳出版は本作のほうが早いため、その系譜が人口に膾炙するのは少し後になる(本作が1994年、『ザ・スタンド』が2000年)。最近読んだ本だと『疫神記』もこの系譜だった。

『マッドマックス2』のような荒廃した世界を舞台としながらも、作中にはキリスト教の価値観が横溢し、また、最新のテクノロジーも重要な役割を果たしている。言うまでもなくアメリカは世界最大の先進国だ。と同時に巨大な田舎の集合体でもあり、合理的なテクノロジーと非合理的な信仰が悪魔合体した土地である。その特徴は文学や映画によく表れていて、アメリカ人が大掛かりなエンタメを創作すると、だいたいはキリスト教の寓話になる。だから本作にも神や悪魔や救世主が出てくるし、聖杯伝説や大洪水の逸話がギミックとして使われている。グローバリズムとはすなわちアメリカニズムのことだから、日本人が読んでもさほど違和感をおぼえない。むしろ、我々は宗主国アメリカを身近に感じることだろう。アメリカは最新のテクノロジーを備えた巨大な田舎であり、世界はそんな田舎者に支配されている。

アメリカ人はとにかく世界を救いたがる。自分がナンバーワンであることを自覚しているし、度し難い自国中心主義でもある。しかし、そうなるのも無理はない。アメリカは世界を滅ぼす暴力装置を所持しているから、その反動として救世主になりたがるのだ。破滅の裏返しとしての救済。世界を救うのは常に偉大なアメリカ人である。その自意識には辟易するが、同時に羨ましくもある。日本人には世界を救う力がないから。我々にできることと言ったら、身近なヒロインを救うことだけ。ヒロインを救うことで世界も救うセカイ系を夢想している。セカイ系の小ささに比べて、アメリカ人の自意識の何て大きいことか。フィクションを生み出す土台として国力は重要なファクターであり、アメリカが世界最強である限りアメリカ人は世界を救い続ける。

宗教臭さにはさほど違和感をおぼえなかったものの、パトリオティズムの強さは異質に感じた。本作の後半、小さな町に軍隊がやってくる。相手は武器も人数も圧倒的だ。普通だったら逃げるだろう。しかし、住民は逃げない。死ぬことが分かっていながら、愛する土地を守るために戦うことを決意する。逃げたら負け犬という意識はちょっと理解できない。一般人なら命あっての物種と考えないだろうか。この辺、南北戦争以来のパトリオティズムが息づいているように見える。

ところで、スワンは生命を与える能力を持っている。これって『ジョジョ』第5部【Amazon】に出てくるゴールド・エクスペリエンスの元ネタではないか? 第5部の連載は1995年からなのでぴったり符合する。

石井輝男『黒線地帯』(1960/日)

★★

トップ屋の町田広二(天知茂)は秘密売春組織を追っていた。ところが、女易者とポン引きにはめられて眠らされてしまう。目が覚めると隣に女の死体が横たわっていた。殺人の濡れ衣を着せられた町田は警察から逃れつつ、犯罪組織を追う。組織は女を使って麻薬を運ばせているようだった。やがて町田は麻耶(三原葉子)という水商売の女と知り合い……。

和製フィルム・ノワールである。モノクロ映画の本作は通常よりも画面の陰影が深くてノワールっぽい雰囲気があった。夜のシーンがだいぶ多いし、昼のシーンも夜に見えるほど暗い。全体としてはB級テイストなのだけど、バーやキャバレーなど当時の風俗を垣間見れたのは収穫だった。唖の売春婦(オシパン)が働いていたり、オカマが自分のことを文化女性と名乗っていたり、夜の世界に疎い者にとってはどれも新鮮である。

軍国趣味のキャバレーが印象深い。屋内には日本国旗と日章旗が交互にぶら下がり、軍服を着たボーイは特攻隊と呼ばれている。そして、女の子は海軍仕様のセーラー服を着ていた。このキャバレーはほんの少ししか出番がなかったけれど、その倒錯した絵面はインパクトが大きかった。現代で言えば、コンカフェみたいなものだろう。日本人の性癖は今も昔も変わらないみたいだ。

夜の世界がメインのせいか、肌の露出が多い女の子がたくさん出てくる。しかし、モノクロなのでありがたみが薄い。ここは無理をしてでもカラーで撮るべきだったのではないか。ただ、そうするとノワールっぽい雰囲気が薄れてしまうので一長一短ではある。ノワールっぽい雰囲気を取るか、セクシーな絵面を取るか。あちらを立てればこちらが立たずという選択肢にやきもきした。

殺人の濡れ衣を着せられた町田は警察に追われつつ犯罪組織を追う。随所に警官が出てきてスリルを煽っているところは面白いのだけど、犯罪組織が何もしてこないのは物足りなかった。そもそもこの組織は脇が甘く、町田を殺人現場に放置してからは彼の動向を追っていないのが引っ掛かる。素人だからすぐに逮捕されるだろう、と高を括っていたのだろうか。組織のボスも一人で女に囲まれているところを襲撃されていて、率直に言って間抜けすぎる。

B級テイストのわりに終盤のアクションは力が入っている。走行する機関車の上での決闘から川に飛び込むシークエンスはそれなりに見応えがあった。特に川に飛び込む瞬間はスタントマンを用意する必要があるわけで、この程度の映画にそこまで手間をかけているのが意外だった。

序盤から中盤にかけて町田のモノローグが挿入されている。試み自体には何らかの可能性が感じられるものの、特に一貫したポリシーもなく、ただの出オチで終わっているのが残念だった。公開当時は「セミドキュメンタリー」という触れ込みだったらしい。モノローグはともかく、ロケ撮りについては陰影の深さも相俟ってそれなりに雰囲気がある。

赤城博昭『劇場版 からかい上手の高木さん』(2022/日)

★★★

中学3年生になった西片(梶裕貴)と高木さん(高橋李依)だったが、2人は相変わらずからかい・からかわれの関係を保っていた。高校への進学が視野に入り、終わらない日常が終わろうとしている。そんな矢先、2人は神社で子猫を見つけた。折しも明日から夏休み。2人は里親が見つかるまで面倒を見る。

原作は山本崇一朗の同名漫画【Amazon】。

テレビシリーズの最終話で西片が事実上の告白をしていた。だからあれで終わりかと思いきや、正式な告白でないため終わらない日常が続いていた。恋人同士のようでいて恋人同士ではない。実質的には恋人同士なのにはっきりと認めていない。両思いでありながら友達以上恋人未満を続けている。本作でその宙吊り状態に終止符を打つことになった。

全体としてはロマンティック・ラブ・イデオロギーの映画になっていて、恋愛して結婚して子供を産み育てる、というプロセスを二重にやっているところが目を引いた。

これはつまり、子猫の世話が子育てのメタファーになっているということだ。2人で子猫に名前をつける。2人で子猫と遊ぶ。そして、雨が降ったときは夜中なのに急いでかけつけて保護をする。西片はパパのようであり、高木さんはママのようである。特筆すべきは、子猫の世話が長く続かないところだろう。ある日、偶然子猫を拾った家族が勝手に引き取っていく。この子猫はメスであり、西片と高木さんからしたら娘も同然だ。しかし、娘もいつかは結婚して親から離れていく。子猫のことは黙って見送るしかなかった。このように人生のプロセスをメタファーとして疑似体験しているところが面白い。

そして、そういった疑似体験を経たからこそ、西片から告白の言葉が飛び出してくる。メタファーとして行ったことを今度は現実で繰り返していくのだ。実際、エピローグでは大人になった2人が娘を連れて虫送りに参加している。どうやら島で育った2人は同じ島で子育てしているようだ。生活の再生産こそロマンティック・ラブ・イデオロギーの要諦なわけで、本作は徹頭徹尾理想化された男女関係を描いている。

西片と高木さんは授業中に教室の片隅でイチャイチャしている。下校時にはグリコじゃんけんしながら帰っている。2人だけの親密な世界。田舎を舞台にしたこの光景は、典型的な青春ノスタルジーである。しかし、我々の現実には高木さんなんていなかった。我々は本作を見ることによって、欲しくても手に入らない極上の青春を夢見ている。過ぎ去った青春、現実ではあり得ない理想の青春もフィクションでなら追体験できる。僕はアニメ好きで本当に良かったと思う。

元々は終わらない日常をテレビシリーズでやっていたので、それを一息に終わらせようとする劇場版の形式とは相性が悪い。本作もそれなりに楽しんだものの、3期(『からかい上手の高木さん3』【Amazon】)の終わり方で十分だった気がする。

pulp-literature.hatenablog.com

中川信夫『東海道四谷怪談』(1959/日)

★★★

備前岡山藩。浪人・民谷伊右衛門(天知茂)はお岩(若杉嘉津子)との婚儀を彼女の父親に取り消され、さらには往来で侮辱までされる。怒った伊右衛門は彼を斬殺、その場にいた直助(江見俊太郎)と共謀して事件を隠蔽し、お岩と結婚することになる。江戸に出た伊右衛門とお岩は貧乏暮らしで夫婦仲も良くない。そんななか、伊右衛門に出世のチャンスが訪れる。

原作は鶴屋南北の歌舞伎【Amazon】。

歌舞伎らしい部分と映画らしい部分が同居していて味があった。ただ、個人的にホラー映画の面白さが分からないので評価が低い。お岩の特殊メイクはグロテスクだし、死体も本物みたいで迫力があったものの、「どうせ作り物だろ」という意識があって怖がることができない。むしろ、ホラー部分はギミックに過ぎず、本筋は勧善懲悪のストーリーだろう。昔の人はこういう演目を観て溜飲を下げていたのだ。何かと揶揄されがちな「スカッとジャパン」(フジテレビのバラエティ番組)もバカにできたものではない。大衆はとにかく気晴らしがしたいのである。

歌舞伎らしい部分はお岩が死ぬシーンにあって、毒を盛られたお岩は恨み言を述べながら死んでいく。その際、思いっきり見得を切っているのだからすごい。こういう演出は昔の日本映画だとまあまあ見かけるので、映画というメディアが歌舞伎の影響を受けているのだろう。戦前は歌舞伎役者がよく映画に出ていた。そういう意味で日本映画はガラパゴスだったのかもしれない。

序盤に按摩が部屋から部屋へ移動するシーンがある。ここはそこそこ長い尺をワンカットで撮っているのだが、按摩の移動を横から壁越しに映していて、これぞセット撮りの醍醐味だった。実際の家屋を使っていたらこういうアングルでは撮れない。まさに映画のマジックである。

伊右衛門は自分の欲望のためなら無辜の民も殺せる悪人である。しかし、彼にも同情すべき点はあって、それは当時、浪人には階級上昇の機会が極めて少なかった。戦争がないから武勲を立てることができず、従って出世することもできない。浪人を抜け出す唯一の手段は上昇婚しかなかった。この辺はフランスの王政復古時代を舞台にした『赤と黒』【Amazon】と変わらない。すなわち、女を利用してガラスの地下室を突破する。伊右衛門もジュリアンも行動理念は同じであり、固定された階級社会は不幸しか生まないことが分かる。

死者となったお岩と按摩は、幻覚を見せて伊右衛門を乱心させるだけで、特に実効的な手段は取らなかった。実際に仇討ちしたのは生きた人間である。てっきりお岩が呪い殺すものだと思っていたので拍子抜けだった。これなら現代のホラー映画のほうがドラスティックである。

ラストでお岩が成仏できたのは、仇討ちを果たせたことよりも、伊右衛門から謝罪の言葉を引き出せたことのほうが大きいのではないか。本作は悪人に裁きの鉄槌を下しつつ改悛させているからこそ溜飲が下がる。