海外文学読書録

書評と感想

サム・ライミ『スパイダーマン』(2002/米)

★★★

高校3年生のピーター・パーカー(トビー・マグワイア)は、両親を早くに亡くして伯父夫婦の元で暮らしていた。彼は幼馴染の同級生メリー・ジェーン・ワトソン(キルスティン・ダンスト)に思いを寄せている。また、ピーターはいじめを受けていたが、友人のハリー・オズボーン(ジェームズ・フランコ)だけは庇ってくれていた。ある日、ピーターはコロンビア大学の研究室を訪れた際、特殊な蜘蛛に噛まれてスーパーパワーを身に着ける。後に彼はスパイダーマンとして自警団ヒーローになることに。一方、とある軍需企業では、ハリーの父ノーマン(ウィレム・デフォー)が薬を飲んでグリーン・ゴブリンと化していた。

この時代にしては映像面でだいぶ頑張っているものの、今見ると映像がチープでわざわざ鑑賞する必要がないような気がした。撮影技術の確認としては参考になる。

オズボーン親子がめちゃくちゃ不憫だった。父親ノーマンは成り行きでヴィランになってしまうし、息子ハリーは恋人と破局したうえに父親を亡くしてしまう。ノーマンは凶悪なグリーン・ゴブリンと化すも、中途半端に人間性を残しているところが悲劇である。そもそもノーマンは仕事が上手くいってないのが闇落ちの原因で、これはちょっと他人事ではない。誰もがヴィランになり得るという恐ろしさがある。そして、息子ハリーも御曹司ではあるが、父親に引き摺られるようにして不幸のどん底に落ちてしまう。本当の「悪」は、薬の副作用によって生まれた副人格だった。ノーマンは本質的に悪人ではないし、ハリーだって父親の因業を受け継ぐ謂れはない。本作は特定の一般人が悲劇性を帯びているところが印象に残る。

「大いなる力は大いなる責任が伴う」という精神はヒーローものの伝統だろう。これはもちろん超大国アメリカのメタファーである。そして、ナードだったピーターがひょんなことからスーパーパワーを手に入れるのも、一種のアメリカン・ドリームだ。蜘蛛に噛まれたピーターは視力が回復し、肉体はマッチョになり、驚異的な身体能力を駆使してあちこち飛び回る。しかし、これらは努力して手に入れたものではない。宝くじに当たったようなものだ。ハリーのメリトクラシーと対比されるのがピーターのラックであり、社会資本とは努力ではどうにもならないことが窺える。

三角関係から囚われのヒロインを救う展開になるところは上手かった。メリー・ジェーンにとってピーターはあくまで幼馴染であって恋愛の対象ではない。ピーターも積極的にアプローチしておらず、そのせいでメリー・ジェーンはハリーと付き合っている。それがスパイダーマンを巡る騒動のおかげで崩れたわけで、平和的に好意を勝ち取る筋書きが面白い。事件が解決してもメリー・ジェーンと結ばれないのは続編への布石だろう。これとハリーの命運は長期的な構想が感じられてなかなか良かった。

スパイダーマンのコスチュームが自作であるところが不可解で、あれは素人が作れるものじゃないだろう、とツッコんだ。完全にプロの仕事である。

小津安二郎『晩春』(1949/日)

★★★★★

鎌倉。大学教授の曾宮周吉(笠智衆)は妻を亡くし、現在は娘の紀子(原節子)と二人で暮らしている。紀子はもう27歳になるが、父の世話をするために未だ独身だった。周吉はそのことを心配している。紀子はそんな心配をよそに、周吉の助手・服部(宇佐美淳)や学生時代からの友人・北川アヤ(月丘夢路)と交際していた。やがて紀子の元に見合い話が舞い込んでくる。

原作は広津和郎『父と娘』【Amazon】。

娘の自立を描いている。共依存的な親子関係を断ち切る様子は現代のひきこもり問題に通じるかもしれない。とにかく紀子のファザコンぶりが半端なく、また、父親もそれを利用して手元に置いてきた感があり、嘘をついてまで結婚を促す様子は悲壮感が漂っていた。終盤、紀子は父親が再婚すると聞いて泣き崩れる。見ているほうとしては、なぜそんなに父親が好きなのか分からなかった。

現代人からすると結婚への圧が強すぎると思う。今は生涯未婚の女性も珍しくないから、独身は不幸であると言わんばかりに結婚を勧めてくるのはどうにももどかしい。紀子の問題は、手に職をつけていない子供部屋おばさんなところではないか。実家の太さは人生の太さであるとはいえ、いずれ父親は死ぬし財産も尽きる。そういうときのために経済的な保障は欲しいところである。まあ、当時はそれが結婚だったのだろう。女性の経済的自立は、1985年の男女雇用機会均等法まで待たなければならなかった。そういう意味では旧世代の価値観が垣間見えてなかなか興味深い。

本作はカメラワークが素晴らしく、冒頭の駅から和室に続くカット割りからしてただものじゃないと思わせる。また、時々中距離から覗き見するショットが差し込まれ、それが意外性を生みつついいアクセントになっている。そして一番印象に残っているのが、京都でのロングショットだ。ここでは3人の動きを遠くから点描しつつ、今度は別の角度からまたロングショットで切り返している(手前を女学生の集団が通り過ぎるところがまたいい)。この合わせ技は予想外だった。

その他、面白かったところ。妊娠のことをラージポンポンと呼んでいるところ。北川アヤの食べてるケーキが明らかにでかく、女一人で食べ切れる分量じゃないところ。叔母さん(杉村春子)が落とし物のガマ口を拾って現場から立ち去った後、警官が登場して付近を警らしているところ。また、和室で和食を食っているだけでも絵になっていて、こういう風景はもはや異文化になってしまったのだと痛感する。

終盤で周吉が「幸せは自分たちで作り出すもの」と紀子に説教する。これは戦後の復興精神を代弁しているような気がした。つまり、旧世代によって台無しにされた日本は新世代が何とかするしかない。紀子の自立は、当時GHQの占領下にあった日本の自立に通じるものがある。

フリッツ・ラング『飾窓の女』(1944/米)

飾窓の女(字幕版)

飾窓の女(字幕版)

  • E・G・ロビンソン
Amazon

★★★

犯罪心理学の准教授リチャード・ウォンリー(エドワード・G・ロビンソン)が、飾り窓に陳列されている女の肖像画を見る。すると、すぐ側に絵のモデルをしたアリス・リード(ジョーン・ベネット)が立っていた。ウォンリーは誘われるがままリードのアパートに行く。2人で飲んでいると、突然フランク(アーサー・ロフト)という大男が乱入してきた。ウォンリーは正当防衛でフランクを殺害する。やがてリードの元にハイト(ダン・デュリエ)というゆすり屋がやってきて……。

よくできたサスペンスだった。でも、最後のオチはいかがなものかと思う。悪夢のような状況を実際に悪夢として提示する。これって直球すぎるのではないか。とはいえ、一般男性が体重90kgの人間をあんな風に運搬することは不可能なので、そこは整合性が取れている。そもそもあのオチならもっとぶっ飛んだ内容でも良かったわけで、やはり取ってつけた感は否めない。カタギの人間がつまらない冒険心を起こすとどうなるのか。物語の枠組みに用いられた悪夢が、可能世界としての悪夢に留まっているところに物足りなさをおぼえた。

とはいえ、サスペンスとしては一級品である。特にウォンリーが現場に証拠を残しまくったうえ、犯人にしか分からない事実をポロポロ喋っているところが素晴らしい。ウォンリーは死体を捨てる際、有刺鉄線で腕を切って現場に繊維と血液を残した。また、現場に特徴的な足跡とタイヤの跡まで残した。そのうえ、料金所では職員に強い印象を与えているし、信号待ちのときは白バイに姿を目撃されている。警察ならウォンリーまで容易にたどり着くだろう。致命的なミスが積み重なったうえで捜査が進行しているわけで、蛇の生殺し的な宙吊り状態が最高にスリリングである。

さらにサスペンスを加速させているのがゆすり屋ハイトの存在だ。彼はリードが事件に一枚噛んでいることを知っている。金を出さなければ通報するぞ、と脅しにきている。ウォンリーとリードがハイトを排除しようとするのは当然の理屈であるが、しかし、殺しが次の殺しを誘発しているのでこれでは泥沼である。おまけにハイトは用心深くてこちらの思うようにいかなかった。警察とゆすり屋によって、2人は崖っぷちまで追い詰められている。

ウォンリーにとってリードはファム・ファタールであると同時に幻の女でもある。リードがウォンリーを裏切らず、2人が一蓮托生の関係になるところが面白い。リードは悪夢の中に差し込んだ一筋の希望であり、ウォンリーにとっては理想の女である。そして、それゆえに彼女は飾窓にしかいない幻の女なのだった。理想の女が幻の女となって消えてゆく。このラストはどこか風情がある。

ヘレン・マクロイ『あなたは誰?』(1942)

★★★

ニューヨークでナイトクラブの歌手をしているフリーダは、精神科医の卵アーチーと婚約していた。フリーダはアーチーの実家に滞在する予定だったが、その前に何者かから脅迫の電話を受ける。脅迫を無視して実家に行くも、何者かに部屋を荒らされるのだった。その後、隣りの上院議員のパーティーに参加。そこで殺人事件が起きる。精神科医ベイジル・ウィリングが謎を解く。

「どうしてアーチーはあんな人を連れてきたのかしら?」ジュリアは声を上げた。「なんでこう、そっとしておけないのかしらね?」

科学的精神とはそういうものだよ、ジュリア。人間は他の動物より高等な生物だが、それは人間が猿の好奇心を拡張し、磨きをかけてきたからさ。犬は好奇心みたいな下品なものは歯牙にもかけない高貴な生き物だが、だからこそ犬はあくまで犬であって、なにかを生み出したりはしないんだよ」(pp.302-303)

僕はフロイトが嫌いなので心理学や精神分析を取り込んだミステリも嫌いである。でも、本作くらいなら牧歌的でまあいいかなと思う。たとえば、日本の新本格に比べたら蘊蓄も鼻につかない。何より本作は多重人格をテーマにした最初のミステリらしいので(ヘレン・ユースティス『水平線の男』【Amazon】が1946年)、このジャンルを体系的に読んでいる人は必読だと言える。

本作によると、副人格が人を殺しても心神喪失にはならないらしい。要は法律が現代の心理学に追いついていないのである。この点におけるウィリングとジュリアの議論はなかなか興味深い。僕はこれを読んで、エラリー・クイーン『シャム双子の秘密』【Amazon】を思い出した。同作にはシャム双生児の犯罪について言及がある。すなわち、双子の片割れが犯罪を犯した場合、どのように罰するべきかという問題だ。シャム双生児は一心同体だから、必然的に無実の片割れも罰を受けることになる。しかし、両方に罰を与えるのは正義に叶わないだろう。これも法律の穴であり、思考実験の材料として興味を引く。

アーチーの母イヴはロマンス小説作家であり、作者のオルターエゴみたいなキャラになっている。元々イヴは風刺短編の書き手だったが、それでは食っていけないのでロマンス小説を書き始めた。結果、売上は好調だったものの、書評家からはバカにされることになる。面白いのは、イヴ本人も自作の価値をよく分かっていることだ。自分が書いているのはあくまで金儲け目的の小説であって、中身は下等だと冷静に判断している。だから自作を褒めちぎってくる人間は信用しない。このようなねじれた自意識こそジャンル作家であり、我々はイヴを通してヘレン・マクロイの素顔を垣間見ている。

ウィリングがFBIでプロパガンダの分析をしているところに時代を感じる。当時は第二次世界大戦の真っ只中だったのだ。合衆国政府はナチスの"心理戦"に備え、精神科医や心理学者を招いていたようである。この戦時中というのがいいスパイスになっていて、たとえば、上院議員が政治を語る部分に大きな影響を与えている。戦時中でもわりと普通に生活できていたところがアメリカの強いところだろう。こういう国にはまず勝てない。

陽気に見えたある人物が実はゆすり屋だったり、ある人物とある人物が愛人関係にあったり、登場人物が意外な相貌を見せるところが面白い。このようなサプライズこそミステリの醍醐味である。

ジョルジュ・シムノン『ちびの聖者』(1965)

★★★★

パリのムフタール通り。貧しい家に生まれたルイ・キュシャは、母と兄と姉と双子の5人と暮らしていた。母は市場で野菜を売っている。また、よく家に男を連れ込んでいた。幼いルイは体が小さいうえに無口で何を考えているのか分からないところがある。学校に上がってからはいじめを受け、「ちびの聖者」とあだ名をつけられた。

ルイは現実を――椅子を、街を、女を、路面電車を、模写しようとはしなかった。練習のため、ときどきそうすることがあったが、とてもうまく模写できた。しかし、それはあくまでも現実の忠実な再現である。彼が描き出したいと望んでいるのは、現実そのものなのだ。彼が見たような、というより、無意識的に、彼の心のなかで構成された現実なのである。(p.184)

20世紀初頭のパリを活写した風俗小説として面白いし、大家族に焦点を当てた家族小説としても面白いし、印象派の画家を題材にした芸術家小説としても面白い。一粒で三度おいしい小説だった。なるほど、本作がバルザックに比せられるのもよく分かる。

「花の都パリ」といってもルイの住んでいるあたりは前近代的で、各家庭には水道もなければガスも通ってない。一部の富裕層だけが水道を引いていた時代である。だからルイの一家がおまるの中身を窓から歩道にぶちまけていたのは衝撃的だった。住まいにはトイレがなく、みんなおまるで用を足していたのである。どうやら当時のパリの住宅には十分な設備のトイレが普及していなかったようだ。100年前のパリが汚物まみれで臭かったのは仄聞していたけれど、それを実際に描写していたのは感動的である。「花の都パリ」の真実を見た気分だった。

主人公のルイは自閉症である。しかも、小学生で2桁の掛け算を暗算でこなす高知能であり、絵画の才能もあるギフテッドだった。彼は保育園に預けられたときはすぐに脱走し、6歳で学校に入ったときは周囲と馴染めずにいじめられている。典型的な社会不適合者である。少年時代のルイは自我らしい自我もなく、ただ眺めて観察するだけの虚ろな存在だった。おまけに共感能力も低く、姉が妊娠を告白してきたときはあり得ないくらい冷淡な言葉を返している。こういった問題児が後に偉大な画家に成長するところが本作の面白いところだろう。執筆当時は自閉症という概念もギフテッドという概念もなかった。にもかかわらず、それらが芸術家の類型であることを見事に言い当てている。人類が蓄積してきた知見は大きいものだと感心した。

ルイは一生懸命に絵を描いた。いつでも絵を描いていた。ずっと以前から彼のなかに感じていたものを描き出すには、まだ数年かかるだろう。

「あなたの目標は本当のところ何なのですか?」

「さあ、知りません」

この言葉はルイの人生でしょっちゅう口にされ、くり返されつづけた。(p.256)

本物の芸術家は決して満足することはない。ある日、ルイは画商から「きみも満足する絵ができたら、ぜひ見せてもらいたいな」と声をかけられる。それに対し、ルイは「ぼくは満足することはないでしょう。ぼくが正真正銘の画家でないことは、あなたがよくご承知でしょう」と応えている。ルイが自分のことを「正真正銘の画家でない」と規定しているところが興味深い。貨幣経済に組み込まれたプロの画家とは違うということなのだ。自分の感じていた現実を描き出すためにひたすら描く。ルイの絵が画商によってマネタイズできているのは奇跡であり、ルイがパンの心配もなく求道的な生活が送れたのも幸福なことである。

というわけで、20世紀のバルザックを堪能した。