海外文学読書録

書評と感想

N・リチャード・ナッシュ『クライ・マッチョ』(1975)

★★★

テキサス。38歳のマイク・マイロはロデオスターとして数々の賞を獲得してきた。彼はハワードが経営するチームで活動していたが、落馬事故がきっかけでクビにされてしまう。失業して先の見通しの立たないマイク。そんななか、ハワードからメキシコに行って彼の息子ラフォを誘拐するよう依頼される。謝礼は5万ドルだった。

少しのあいだ、マイクは教会に残ってラフォを追おうとしなかった。とてもじゃないが少年の顔を見られない。あまりにも感傷的すぎる――友だち云々というくだりは、うんざりするほど甘ったるい。酒を何杯か飲んでいなければ、これほど深く感動したりはしなかっただろう。まったく、なんということだ。もっとしらふでいたかった。さもなければ、もっと酔っていたかった。(p.427)

喪失とどう向き合うか、という話である。

マイクはチームをクビになることでロデオスターの地位を失う。彼はロデオに人生を賭けていた。また、マイクには別れた元妻がいるのだが、離婚の原因は7歳の娘を亡くしたことだった。そのせいで元妻は病んでしまい、マイクは今でも娘のことを恨んでいる。ところが、その元妻も別の男と再婚することになった。このように物語の序盤からマイクには居場所がない。メキシコへの旅を後押しする状況になっている。

アメリカ人にとってメキシコは「闇の奥」である。非文明的な地域で言葉も通じず、行って帰ってくるだけでも一苦労だ。本作ではマイクという「落ちぶれた英雄」が、メキシコでのイニシエーションを経て生まれ変わりを果たす。マイクは失うことへの恐れから何かを得ることに消極的だった。そんな彼がラフォとの様々な経験を通じて喪失との向き合い方を学ぶ。最初は敵対的だったラフォと友情を育み、擬似的な親子関係になるところはこの手の物語の定番だろう。本作はロデオや闘鶏といったギミックが珍しく、それらがマッチョというテーマと絡み合って独特の味わいを醸し出している。

日本においてマッチョは「有害な男らしさ」として忌避される傾向にあるが、アメリカやメキシコではそうでもないようだ。それどころか、マッチョであることが重んじられている。なぜ、彼らはマッチョを目指すのか? それは臆病者であることを恐れるからだ。そもそも北米大陸ピルグリム・ファーザーズ以来、フロンティア精神によって拡大してきた土地だった。そこでは勇気を持って西へ向かうことが求められる。未知なる土地を探検し、時に原住民と戦いつつ新たな土地をものにする。そういった歴史の中でマッチョであることが重んじられてきた。臆病者では未開の地で生き延びることができない。このようなマッチョ志向が70年代まで受け継がれているのは不気味だ。しかし、テキサスやメキシコは現代でもまだ「闇の奥」なわけで、生存競争に不可欠な価値観だと言える。

本作で特筆すべきは冒頭にクライマックスの場面を置いているところだ。これが最後まで読む誘引になっている。どういう経路を辿ってこの場面に行き着くのか? という興味で読ませるのだ。仮にこの冒頭がなかったら退屈すぎて途中で読むのをやめていただろう。そういう意味で著者は客観的に自作を読む力がある。僕はそこに感心したのだった。

なお、本作はクリント・イーストウッド監督・主演で映画化されている。

川島雄三『洲崎パラダイス 赤信号』(1956/日)

★★★★★

蔦枝(新珠三千代)と義治(三橋達也)のカップルが金に困って赤線地帯「洲崎パラダイス」の入口に流れてくる。蔦枝はその昔、洲崎パラダイスで娼婦をしていたのだった。蔦枝は居酒屋で、義治は蕎麦屋で働くことに。蔦枝は新しい生活に順応するものの、義治は持ち前の甲斐性なしが祟ってどうにもならない。2人の仲はギクシャクするのだった。

原作は芝木好子『洲崎パラダイス』【Amazon】。

離れようとしても離れられない、磁石のような男女関係が半端なかった。甲斐性なしの義治なんて捨てられて当然だと思うのだけど、女心とはそう簡単には割り切れないようだ。しかも、蔦枝が戻ってくるタイミングが滅茶苦茶悪く、義治が更生して真面目に生きようとしたまさにその時なのだからたまらない。2人がよりを戻したのは果たして良かったのか……。ともあれ、こうやって流れに流れていくところはいかにも昭和の男女である。

一度色街に染まった女は生涯その気質が抜けないようだ。居酒屋で働き出した蔦枝はとんでもなく接客が上手い。男性客に愛想を振りまき、親しげにボディタッチをし、まるでベテラン店員のような客あしらいである。その熟れた接客はおそらく色街で培ったのだろう。蕎麦屋の出前すら満足にできない義治と較べて何と立派なことか。当然、そんな蔦枝がいつまでも場末に燻ってるわけもなく、成金の強者男性に気に入られて囲われることになる。未練たらたらで探し回る義治。思えば、2人の関係がここで終わっていればなんぼか良かった。それぞれカタギの生活が送れたのだから。特に義治はあのまま蕎麦屋で働いて玉子(芦川いづみ)と一緒になったほうが幸せに暮らせただろう。ところが、蔦枝が帰ってきたことでそれも果たせず。またデラシネ生活に戻ることになる。

全体として義治は蔦枝に振り回されっぱなしである。離れたときも戻ってきたときも、義治は蔦枝の気分に付き合わされている。蔦枝が巻き起こす風になびいているだけという印象だ。しかし、本作にはこういった男女関係がいくつか出てきて、2人を重層的に取り巻いている。逐電した夫が帰ってくるも悲しい別れをする女将。娼婦を身請けしようとするもまんまと逃げられる客。男も女も相手に振り回されるばかりでその関係は片務的だ。対等とは程遠い。これはつまり、男女関係とは振り回す個体と振り回される個体、双方の合体によってできているのだろう。「惚れた弱み」とはよく言ったもので、好きである限りは相手についていくしかないのである。

洲崎パラダイスはカタギの世界と断絶した「向こう側」の象徴だ。蔦枝も義治も決して足を踏み入れない(カメラも中を映さない)。しかし、蔦枝は元々そこで働いていたわけで、言ってみれば「向こう側」の住人である。一度色街に染まった女は生涯その気質が抜けない。色街には戻れず、かと言ってカタギにもなれず、辺獄でどっちつかずの人生を送る。少なくとも蔦枝はそう運命づけられているわけで、2人の今後が気になる。

ルキノ・ヴィスコンティ『家族の肖像』(1974/伊=仏)

★★★★

ローマ。教授(バート・ランカスター)がアパルトマンで絵画に囲まれながら隠居生活を送っていた。そこへ侯爵夫人のビアンカシルヴァーナ・マンガーノ)がやっきて上階を間借りしたいと申し出る。彼女は愛人のコンラッドヘルムート・バーガー)、娘のリエッタ(クラウディア・マルサーニ)、リエッタの恋人ステファノ(ステファノ・パトリッツィ)と共に入居するつもりだった。静かに暮らしたい老教授はそれに難色を示すが……。

人生の黄昏に訪れた束の間の騒擾といった趣だった。今回は屋内劇に終始している。相変わらず、画面がブルジョワ趣味に溢れていて美しい。70年代にもまだこういう世界があったのかと驚いた。

見ていて教授が他人に思えなくて困った。というのも、教授は孤独を好む老人で、人と関わるのを面倒がっている。楽しみといったら一人で絵画を愛でること。家族はおらず、使用人や管理人といった最小限の人間関係の中で静かに暮らしている。

これは我々の理想である。本作を観るような層は、社交するより一人で読書や映画鑑賞をするほうを好むだろう。しかし、実際は渡世の義理があってそれも果たせない。おまけに現代はスマホによって四六時中誰かと繋がっている。孤独を好んでも世間が孤独にしてくれないのだった。

もちろん、完全に孤独だったら発狂してしまう。しかし、好きな時に好きなことができるくらいの孤独なら歓迎だ。現代人はとにかく人と繋がり過ぎている。我々のような内向的人間にとって趣味とは一人でやるものだから、それにじっくり打ち込む時間が欲しい。社交はあくまでライフワークの邪魔にならない程度。老後はそんな風に静かに過ごしたいと願っているのであり、教授の生活には憧憬の念を抱く。

本作において重要な人物はコンラッドだ。彼は今時の軽薄な若者かと思いきや、ヨーロッパの芸術に造詣が深かったのである。会話の端々からこぼれ出る教養と感性。ワイルドな見た目とは裏腹に、教授の歓心を買うような高い素養を備えている。

コンラッドは教授の息子になり得たかもしれない人物だ。子供のいない教授は、コンラッドのような若者に自分の知識を伝えたいと願っていた。しかし、その一方で静かな生活への未練は断ち切れない。教授は怪我をしたコンラッドの看病を通してある程度の友情を育むも、完全に心を開くまでには至らなかった。「君を助けるのは私の務めだ」と言いつつまだ孤独を欲している。

と、そんな教授が意を決して間借り人たちと食卓を囲んだとき、悲劇の幕が上がるのだからたまらない。良かれと思ってやったことが人生の致命傷になる。ほんの一瞬だけ家族のような時を過ごせただけに、このラストは最悪である。

そして、困ったことに最悪だからこそ映画としては面白いのだ。それまでに築き上げたものがあっさりと壊れる。掴みかけた幸福に手が届かずに死んでいく。人生とはままならないからこそ尊いのであり、悲劇こそが人生の本質を浮き彫りにする。 

今際の際の教授に、「悲しみなんていつまでも残らないわ」と言い放つビアンカ。これは確かに真理である。人間の脳には「忘れる」という便利な機能がついているのだから。しかし、教授は忘れる前に死ぬことで悲しみを永遠化した。これこそままならない人生への最後の抵抗だろう。

片山慎三『さがす』(2022/日)

★★★★

日雇いの原田智(佐藤二朗)と中学生の娘・楓(伊東蒼)は大阪の下町で二人暮らし。ある日、智は300万の懸賞金の掛かった連続殺人犯を見かけたと楓に言う。その翌朝、智は忽然と姿を消すのだった。楓が日雇いの現場に行くと、父の名前で連続殺人犯に似た男(清水尋也)が働いており……。

構成が素晴らしかった。最初は失踪人探しというプロットで観客を引き込み、行き着くところまで行ったら今度は失踪した側の事情を掘り下げる。そして、同じ場面を違った視点から見せていくことで、パズルのピースがぴたっとはまるような感覚を出している。私立探偵小説がそうであるように、失踪人探しとは往々にして対象の秘密を暴露するものだ。人はそう簡単には失踪しない。失踪するからには重大な理由がある。探偵役の楓がすべてを知ったうえで父と邂逅するラストは、ハードボイルド的な叙情があった。

本作は安楽死を題材にしている。しかし、あまり哲学的な領域には踏み込まず、プロットに奉仕する要素として、つまりはサスペンスの枠組みに収まるように使われている。智にとってALSの妻を殺すことは解放である。妻はその難病ゆえに苦しんでいた。妻を楽にするには殺すしかなかったのである。一方、連続殺人犯の山内にとって殺人は快楽だ。SNSで死にたい人間を探し、自身の欲求を満たすために殺害している。「死にたい」と「殺したい」のマッチング。智と山内は当初、同じ罪でも精神の有り様に違いがあった。解放か快楽かの対極的な関係にあった。ところが、それも共犯となってからは曖昧になる。智は金に目が眩んで餓鬼道に落ちてしまった。本作はそういった人間の業に焦点を当てているところも見所で、人間とは流されやすい生き物であることを示している。

山内の殺人衝動が完全にフロイトをなぞっているところが興味深い。つまり、エロスとタナトスである。彼は性欲を満たすために暴力を振るっているのだ。また、山内は「人間はいらない」とも言っている。医療従事者だった彼は、現場で苦しむ患者をたくさん見てきた。その経験が反出生主義のような倒錯した思想に陥らせている。殺人さえも正当化する強烈なニヒリズム。この辺は、相模原障害者施設殺傷事件の植松聖を連想させる。彼も介護職として障害者と直に接することでああなってしまった。命の現場は時として人の倫理を狂わせるようである。

探偵役の楓が女子中学生とは思えないほどタフなところも注目すべきだろう。失踪人探しを通して人間の業と向き合う彼女は、フィリップ・マーロウでありリュウ・アーチャーなのだ。父親をめぐる精神的な試練もそのタフさで乗り越える。本作は私立探偵小説を換骨奪胎した映画で面白かった。

ジュゼッペ・デ・サンティス『にがい米』(1949/伊)

★★★★

泥棒のワルター(ヴィットリオ・ガスマン)と情婦のフランチェスカ(ドリス・ダウリング)は首飾りを盗んで警察に追われていた。2人は一旦離ればなれになる。フランチェスカは水田地帯に出稼ぎに行く女性たちに紛れ込むのだった。そこで彼女は若くてグラマーなシルヴァーナ(シルヴァーナ・マンガーノ)、さらに兵士のマルコ(ラフ・ヴァローネ)と知り合う。田植えは一筋縄では行かず……。

北イタリアの田植えを背景に男女の愛憎劇を展開していて面白かった。女2人が悪党のワルターに翻弄され、取り返しのつかない結末を迎える。ラストで労働者たちが遺体に米をかけて弔うシーンに言い知れぬ崇高さを感じた。

ワルターがとんでもない悪党で、序盤で情婦のフランチェスカから「女を利用することしか考えない男」と評されている。フランチェスカワルターに人生を滅茶苦茶にされたものの、それでも彼に依存するしかなかった。一方、ワルターは若くてグラマーなシルヴァーナに目をつけ、まんまと口説き落として懇ろになる。やがて彼女を自身の泥棒稼業に加担させるのだった。フランチェスカもシルヴァーナもワルターのいいように利用されている。悪党による愛情の搾取が痛々しかった。

ワルターは愛情だけではなく、労働者から成果物まで搾取しようとしている。田植えの報酬は米による現物支給で、ワルターはそれを盗もうというのだ。後からやってきて労働者の上前をはねる。彼がやろうとしていることは貧乏人から盗むことであり、それを知ったフランチェスカワルターに反旗を翻すことになる。フランチェスカは実際に田植えをしたからこそこのような境地に達したわけで、他者の痛みを知ることで盲目的な依存から脱することができた。つまり、労苦が彼女の認識を変えたのである。ワルターによる愛情の搾取と労働力の搾取。これらは極めて悪質で、泥棒とは究極の搾取者であることを思い知らされる。

北イタリアではアジア式の田植えをしているのだけど、その風景がまたいい感じの絵になっていた。序盤では異なる2つの集団が歌合戦から乱闘に及んでいて迫力がある。また、中盤では土砂降りの雨のなか自発的に田植えに従事し、一人の女が具合を悪くしてのたうち回っている。そんなことお構いなしに合唱する女たち。その歌声をBGMにして、付近の女たちが具合の悪い女を介抱している。熱狂的な合唱と土砂降りの雨。その有様はまさに地獄だった。このような末端の労働者から搾取しようとするワルターは、やはり「悪」以外の何物でもないだろう。彼の性根は本当に卑しい。

特筆すべきはシルヴァーナのグラマー・ガールぶりだ。およそイタリア女とは思えないはち切れんばかりの肉体をしている。特に太ももの太さ、お尻のでかさが桁違いだった。劇中では彼女が堂々と脇毛を見せつけていて、その野性味には心惹かれるものがある。素晴らしい、実に素晴らしい。シルヴァーナ役のシルヴァーナ・マンガーノは日本で「原爆女優」と呼ばれていたそうで、当時の日本人も魅了されたようだ。現代人の僕も魅了されているわけで、セクシーは時代を超えるものだと感心する。