海外文学読書録

書評と感想

ジョージ・ミラー『マッドマックス』(1979/豪)

★★★

数年後の未来。警官マックス(メル・ギブソン)がバイクで逃げる暴走族ナイトライダー(ヴィンス・ギル)をパトカーで追跡し、ナイトライダーを事故死させてしまう。そのことによってマックスは暴走族から恨まれることになった。その後、暴走族のリーダー・トーカッター(ヒュー・キース・バーン)が部下のジョニー(ティム・バーンズ)に警官グース(スティーヴ・ビズレー)を襲わせる。グースは焼死するのだった。マックスはグースの遺体を見てショックを受ける。

カーチェイスがすごかった。横転する車、激突するバイク。CGで誤魔化せない時代だからこそ余計にすごみを感じる。本作はカメラワークに特徴があって、車やバイクが疾走しているところをローアングルで撮っている。これが実に素晴らしい。また、車載カメラによる主観視点も迫力があった。道路中央の白色破線が流れていく様にドライビングの快感が表れている。カーチェイスにおいてスピード感は重要だと思った。

物語はよくある復讐劇で、警官と暴走族が復讐の応酬を繰り広げている。と言っても、そもそもナイトライダーが警官を殺したのが発端なので、暴走族に同情の余地はない。ナイトライダーが死んだのも事故だし、暴走族側は徹頭徹尾逆恨みである。だから復讐の不毛さを匂わせつつも、全体としては勧善懲悪の物語に収まっている。

復讐とはやり切ることが大事で、対象から反撃能力を奪うことで終焉を迎える。中途半端に痛めつけるだけでは駄目なのだ。特に相手が反社の場合、命ある限りこちらをつけ狙ってくる。本作ではマックスが暴走族を壊滅させているので、今後は敵の襲撃に怯えることはない。失われた命は戻ってこないものの、仇討ちを果たし、安全を確保することができた。復讐とは殺るか殺られるの生存競争である。そのことをはっきりさせた筋立てが良かった。

警官と暴走族が鏡像関係になっているところが興味深い。マックスは上司に辞意を告げる際、「これ以上走り続けたら暴走族と同じになる」と呟いている。実際、マックス以外の警官は走りに快感を見出しているタイプで、冒頭のシークエンスでは暴走族と同じくらいヒャッハーしていた。また、同僚のグースもあちら側に足を踏み入れかけており、ジョニーが不起訴になった際は警官にあるまじき暴力性を発揮している。本作で描かれた鏡像関係は、たとえば、日本におけるマル暴と暴力団の関係と同じである。敵と長く対峙しているうちに似たもの同士になったのだ。マックスがその泥沼から抜け出ようとし、結局は同類になってしまうところがせつない。

暴走族のみなさんはアッパー系のドラッグをやってそうなテンションなのに、薬物摂取の描写が一切なかったのが不思議だった。これがアメリカだったら絶対に注射するシーンが入っている。また、本作のMVPはナイトライダーで、その躁病的なはしゃぎぶりは尋常ではなかった。早々に死んだのが惜しい逸材である。

ジョエル・シュマッカー『バットマン フォーエヴァー』(1995/米)

★★

ゴッサム・シティ。怪人トゥー・フェイス(トミー・リー・ジョーンズ)が銀行を襲ったので、バットマンヴァル・キルマー)が出動する。バットマンの表の顔は企業家ブルース・ウェインであり、彼は価値観の相違から研究員ニグマ(ジム・キャリー)に恨まれる。後にニグマは怪人リドラーとなってトゥー・フェイスとコンビを組むのだった。バットマンブルース・ウェイン精神科医のDr.チェイスニコール・キッドマン)と懇ろになる。また、紆余曲折があってロビン(クリス・オドネル)とコンビを組むことになる。

『バットマン リターンズ』の続編。

開始5分で駄作と確信したが、最後まで観てもやはり駄作だったので第一印象は重要だと思った。特に映像がチープ過ぎるのが引っ掛かる(最近、『ゲーム・オブ・スローンズ』を観ているので尚更だった)。90年代ってこんなものだっけ? もう少しマシだったような? 洗練された映像を見せてくれたという意味でダークナイトトリロジーは偉大だった。

過去作と比べて色彩設計が独特だったかもしれない。B級映画のようなキッチュな色合い。トゥー・フェイスのけばけばしい外見はハロウィンのコスプレみたいだし、リドラーの原色コスチュームは見る者を釘付けにするような派手さがある。また、夜のネオンやアジトの禍々しさも特筆すべきだろう。そこには仮想空間としてのゴッサム・シティが立ち上がっている。バットマンの本質はフリークショーなので、こういった色合いは理に適っているのだった。

トゥー・フェイスの二面性が左右の二面性なのに対し、バットマンの二面性は表裏の二面性である。だから2人の関係を掘り下げていくのかと思ったら、トゥー・フェイスとぶつかったのがロビンだったので拍子抜けした。結局、バットマンの闇を一身に受けたのはリドラーである。二対二という構図はフリークショーとしては申し分ないが、その反面、テーマの深みがまったくなくて物足りない。囚われのヒロインを救うという筋立てが象徴する通り、全体としては昔ながらのエンターテイメントに収まっている。

ヒロインのチェイスは当初バットマンに惚れていた。彼のヒーロー性に恋い焦がれていたのである。その態度はまるでグルーピーだった。ところが、ブルースと会ってからは事情が変わる。彼女はブルースと仲を深め、遂にはバットマンよりブルースのほうを好きになる。

ブルースにしてみれば、バットマンという裏の顔よりもブルースという表の顔を認められたほうが遥かに嬉しい。それが証拠に、バットマンに扮していた彼は、チェイスからブルースのほうが好きだと告白されたときに笑みを浮かべている。ブルースが光の世界で生きているのに対し、バットマンは闇の世界で生きている。彼にとってはヒーローとしての偽りの顔よりも、市民としての、あるいは生活者としての顔のほうが本物なのである。ブルース/バットマンという表裏の二面性において、表の顔のほうが重要というのが興味深い。

バットマンと言えば不殺のヒーローの代表格だったのに、トゥー・フェイスのことを未必の故意みたいな形で殺したのには驚いた。

押切蓮介『ミスミソウ』(2007-2009)

★★★

中学3年生の野咲春花は半年前、東京から雪国の中学校に転校してきた。彼女はクラスメイトからいじめを受けている。卒業まで残り2ヶ月ということもあり、教師もなあなあに済ませていた。やがていじめがエスカレート。春花の家が放火されて全焼する。妹は一命をとりとめるも、両親は死亡してしまうのだった。春花は放火犯たちに復讐する。

全6巻。

中学生の凄惨かつグロテスクな暴力を描いたところは『バトル・ロワイヤル』【Amazon】みたいだった。現実的な世界を舞台としながらも、現実から逸脱した狂気だったり、可能世界としての物語だったりを描くのはフィクションの特権だろう。これが実際に起きたら相当やばいわけで。それに人間の汚い部分はフィクションで摂取したほうがダメージが少ない。我々は安全地帯にいながら人間の獣性を目の当たりにできる。

いじめの誘引としてはまず田舎の閉塞感があって、舞台となる雪国にはとにかく何もない。カラオケもゲームセンターもレンタルビデオ店も存在せず、生徒たちは満たされない思いでいる。おまけに、彼らは家庭環境に問題があった。ある生徒の家庭では父親が母親を殴っているし、別の生徒の家庭では強権的な父親によって都会の高校への進学を断念させられている。彼らはまだ中学生なので逃げ場がない。日常的に不満が鬱積しており、ガス抜きとしていじめを行っている。

本作のいいところはグロテスクな暴力描写だ。一度腹を決めたら容赦なく命を奪いに行くところが爽快だった。大人しそうな春花でさえ、放火犯たちへの憎悪を剥き出しにして殺人に及んでいる。とりわけ秀逸なのが暴力シーンにおける各自の表情で、あの切羽詰まった表情は漫画でしか出せない味わいだろう。暴力に飢えたギラついた目、そして、思わぬ反撃を食らってうろたえる目。「目は口ほどに物を言う」とはよく言ったもので、本作は目の描き方に注力している。

春花の理解者に思えた相葉が一番歪んでいるところに意外性があった。こういう漫画って読んでいるうちに「誰がラスボスか?」という興味が湧いてくるのだけど、そこはちゃんと捻ってきている。いじめの主犯格である小黒とは話し合いで和解できており、春花は小黒を殺すことはなかった。ここは本作で唯一の救いである。一方、まったく救いがないのが佐山の境遇で、彼女は小黒にいじめられた反動で春花の家に放火し、春花から復讐の対象にされている。春花が転校してくる前は佐山がいじめの標的にされていたのだ。いじめから抜け出すには他人をいじめるしかない。しかしやりすぎた結果、今度はそのいじめた相手からの復讐に怯えることになる。こういう弱肉強食の構造こそが教室の力学で、佐山は最初から悲劇的な結末を運命づけられている。

というわけで、本作は田舎の閉塞感をよく表した漫画だった。こういうのを読むと、人間は田舎に住むべきではないと痛感する。

ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q―キジ殺し―』(2008)

★★★

コペンハーゲン警察。カール・マーク警部補のデスクの上に解決済みと思われたある事件の書類が置かれていた。それは20年前に起きたラアヴィー殺人事件のもので、犯人は自首して現在服役している。カールとアサドが捜査をすると、寄宿学校出身のエリートたちが被疑者として浮上してきた。彼らはデンマーク経済の中枢にいる。一方、ホームレスの女性キミ―はそのエリートたちをつけ狙っており……。

追い出されるようにして家をあとにすると、キミーは邸宅街で文字通り路上に立っていた。赤ん坊を小脇に抱え、血がしみこんだナプキンを股にはさんで、たったひとつ悟ったことがあった。自分に性的暴行と屈辱を与えた者はひとり残らず、その償いをする日が来るだろう。(Kindleの位置No.6068-6070)

『特捜部Q―檻の中の女―』の続編。

長大なわりに最後まで読ませるのは、捜査する側だけでなく、犯罪グループの動きも平行して書いているからだろう。この犯罪グループは寄宿学校出身のボーイズクラブで、学生時代から密かに暴力事件を起こしていた。彼らは『時計じかけのオレンジ』【Amazon】のような不良グループに憧れている。メンバーたちは暴力を振るうことに快感をおぼえているのだった。

ここに有閑階級の本質が見て取れる。資本主義社会において、有閑階級は略奪的文化の担い手である。彼らは弱者から搾取することで富を築いてきた。その略奪的文化の中核には抑え難い暴力性があり、鵜の目鷹の目で犠牲者を探している。彼らは血に飢えた獣のように「狩り」を行っていた。経営者にサイコパスが多いとはよく言われることだけど、本作のボーイズクラブはその典型例だろう。彼らは人を傷つけることに躊躇いがない。それどころか、殺人にまで手を染めている。本作は有閑階級と暴力性を結びつけたという意味で『アメリカン・サイコ』に通じるものがある。

このボーイズクラブと密接な関係にあるのがホームレスのキミーだ。彼女も彼らと同じ寄宿学校出身で、因縁浅からぬ仲だった。そのキミーが警察とは正反対のベクトルからメンバーに迫っていく。結果的には警察とキミーが犯罪グループを挟み撃ちにしていて、一連のプロットは本作最大の読みどころと言えよう。キミーの狂気と執念は並々ならぬものがあり、クライマックスでは英雄と見紛うほどの存在感で屹立している。復讐が動機になっているところは前作と同じだけど、今回は復讐する側に正当性があるところが特徴である。

本作では特捜部Qに新メンバーのローセが加わり、寝たきりのハーディにも転機が訪れる。また、アサドの謎も深まる一方だった。カールのプライベートを構成するヴィガ、イェスパ、モーデンもまだまだ余白になっていて、シリーズものとして先が気になるような作りになっている。

ダグラス・スチュアート『シャギー・ベイン』(2020)

★★★

1980年代のグラスゴー。少年シャギーにはアグネスという美人の母親がおり、姉・兄・祖父母とともに貧困生活を送っていた。アグネスは美人であるものの薄幸で、ろくでもない男に捨てられてからは酒浸りになる。一方、シャギーは小さい頃からゲイの傾向があり、マチズモを重んじる同年代の少年たちから迫害されていた。

シャギーはうなずいた。「そう」鎖に指をからめて、看護師の親切そうな顔を見あげた。「いいんです。別にぼくのお母さんを好きになってくれなくても。ときどき台所の流しの下に置いてあるお酒を飲むんです。そういうときは誰もお母さんが好きじゃないです。お父さんも、お姉ちゃんも、お兄ちゃんも。でもいいんです。リークは誰もほんとは好きじゃないし、びみょうじんかく者だって、お母さんは言ってます」(p.251)

ブッカー賞受賞作。

家族の物語は英米の主流文学がもっとも好むテーマである。本作で焦点を当てているのは母親アグネスだ。男に依存するアグネスは子供3人を抱えて貧困に喘いでいる。ここから抜け出す目はない。おまけに、男に浮気されてからはアルコール依存症になった。貧困と酒浸りの中、上の子供たちにも見捨てられ、アグネスは自殺未遂に及ぶ。一時は立ち直りかけたものの、ふとしたことでまた元の道に戻ってしまったのだ。貧困生活、アルコール依存症、家庭崩壊。本作はそういう行き詰まった状況を末っ子シャギーとの関わりを通して描いている。タイトルは「シャギー・ベイン」であるものの、シャギー本人のエピソードはそう多くない。母親が主人公と言っていいくらい彼女のエピソードで溢れている。

アグネスの転落が始まったのは最初の夫と別れてからだ。最初の夫はカトリックでアグネスに忠実だった。稼いだ金をパブで散財せず、きちんと家に持ち帰ってアグネスに預けている。ところが、アグネスはその誠意を喜ばなかった。最初の夫に物足りなさを感じたアグネスは、シャグというプロテスタントの男とくっつくことになる。シャグは最初の夫とは正反対のクズ男だった。彼は金遣いが荒いうえに、浮気性で徹頭徹尾自分のことしか考えてない。結局はアグネスを捨てて他の女のところに転がり込んでいる。いつの時代も女は誠実な男よりも性悪な男に惚れるものだ。女を殴るバンドマンがモテるのもその暴力性ゆえである。ともあれ、アグネスは最初の夫と別れなければ幸せな家庭を築けただろう。後に長男が様子を見に行ったとき、最初の夫は新たな家庭を築いて幸せそうにしていた。刺激的な恋愛を望むか、あるいは退屈な相手で満足するか。とかく女の本性とは難しいものである。

後にアグネスと出会ったユージーンは最初の夫と同じくカトリックである。また、最初の夫と同じく誠実そうだった。この時点でアグネスはAA会に通って禁酒をしており、人生が上向いている。それまで男の趣味が悪かったアグネスも、シャギーとの破局でさすがに懲りたのだろう。以前のようにクズ男に惚れることはなくなった。慎ましくもやさしい性格をしたユージーン。アグネスにとってユージーンは理想の再婚相手に見えたが……。

思わぬ陥穽によってまた元の道に戻ってしまうところが本作の悲しいところであり、人生とはままならないものだと痛感する。結局のところ、「自分を助けられるのは自分のみ」なのだ(これは長男のモットーでもある)。アグネスには自分を助けるだけの力がなかった。だから男に翻弄されて転落してしまう。決して這い上がれない蟻地獄にはまったのがアグネスであり、こればかりは本人の資質や周囲の状況が絡んでどうしようもない。本作は環境要因に注目した典型的な自然主義文学と言えよう。