海外文学読書録

書評と感想

ソン・ウォンピョン『アーモンド』(2017)

★★★

ユンジェは生まれつき感情を感じられなければ他者に共感する能力もなかった。彼は母親と祖母の3人で暮らすも、ある日、一家に不幸が訪れる。パン屋の社長の支援を受け、高校に進学したユンジェは不良少年のゴニと出会う。2人は当初折り合いが悪かったが、やがて親密になっていく。

あえてこんな儀式を行う理由は、アーモンドが好きだからではない。毎日三食、食卓には必ずアーモンドが上った。食べないで済ませるわけにはいかなかった。だから僕なりに食べ方を工夫してみたのだ。母さんは、アーモンドをたくさん食べれば、僕の頭の中のアーモンドも大きくなると考えた。それが、母さんの支えになる数少ない希望の一つだった。(pp.28-29)

現代では「障害は個性」みたいな言われ方をするので、ユンジェを健常者の枠に押し込めようとする物語上の圧力はなかなか挑戦的だった。率直に言って、ユンジェが発達するラストは出来すぎだろう(おまけに植物状態だった母親も回復してしまう)。フィクションでは不幸な人々に魔法をかけてハッピーエンドにすることがよくある。それは虚構が現実を超えた瞬間だ。とはいえ、我々の世界では障害なんて治らなくて当たり前なわけで、そういった当たり前の枠内でハッピーエンドを模索してほしかったとも思う。要はユンジェが発達するのも不自然なら、母親が植物状態から回復するのも不自然なわけだ。現実には奇跡も魔法もない。本作はそういった散文的な事実とのすり合わせが上手くいってないように見えた。

ユンジェとゴニの共通点はどちらも純粋であることだ。ユンジェは感情と共感能力がないゆえに純粋で、それは空っぽの器のようである。空っぽだから何でも受け入れる。一方、ゴニは本能に根ざした純粋さで、純粋ゆえに悪の道に染まってしまう。それは差し詰め白い布のようだ。このような素朴な人間観も個人的には引っ掛かるところではあるけれど、しかし、お互いが純粋であるがゆえに無二の親友になるプロセスは面白い。ゴニはユンジェのロボットぶりに惹かれて近づいていく。そして、ユンジェのほうもゴニとの交流のおかげで発達する。異なるタイプの人間が化学反応を起こして奇跡を生む。そういった善性の物語は確かに批判するだけ野暮という気もする。

ポール・ブルームの『反共感論』【Amazon】では、道徳の基盤に共感を置いてはいけないと主張している。共感はバイアスを生んで人の判断を誤らせるからだ。それに共感を人間性の軸にしてしまうと、アスペルガー症候群自閉症をモンスターにしないといけなくなる。共感はスポットライトみたいなもので照らす範囲が狭い。自分が大切に思っている人々は明るく照らし出し、見知らぬ人々はほとんど照らし出さないのである。ユンジェが純粋でいられたのも他者に共感しなかったからで、発達することが一概にいいとは言い切れない。「障害は個性」という言い方は偽善の匂いがして嫌だけど、場合によってはメリットもあるのである。

ブルック・シールズの写真を見たゴニが、運命と時間について述べるくだりが面白い。

「うまく言葉が出て来ないんだけど……だからさ、ブルック・シールズは、若いとき知ってたのかな? 歳をとるってこと。今とはまるで違う見た目になっちゃうってこと。歳をとるとか、変わるとか、わかっててもあんまり想像できないじゃん。突然そんなことを思ったんだよ。ひょっとしたら、街を歩いていると時々見かける人たち、ほら、駅のコンコースで寝てたり、物乞いをしてる人たち……そんな人たちも、若いときは全然違う姿だったかもしれないんだな、とか思ってさ」(pp.149-150)

SNSで蔓延するエイジズムが想像力の不足から来ていることがよく分かる。

エリック・ロメール『緑の光線』(1986/仏)

緑の光線

緑の光線

  • マリー・リヴィエール
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★★★★

パリ。秘書のデルフィーヌ(マリー・リヴィエール)はバカンスを楽しむことにしていた。ところが、ギリシア旅行を約束していた友人から断りの電話を入れられる。デルフィーヌは恋人と別れたばかりで孤独だった。結局は別の友達に誘われてシェルブールへ行くも、彼女の孤独が埋まることはない。やがてデルフィーヌは「緑の光線」の話を聞くことに。

面倒臭い女を主人公にした自分探し映画だった。そもそもデルフィーヌ以外の登場人物もだいたい面倒臭くて、その切りつけるようなコミュニケーションが見る者を圧倒する。率直に言って、フランス人は遠慮がなさすぎると思う。他人の心に土足で踏み込みすぎ。こんな環境にいたら人間嫌いになるのではないかと心配になった。

本作で描かれているのはインターネット以前の世界で、現代人が共感するのは難しい。というのも、現代人はスマホによって日常的に他者と繋がっているため、孤独な時間を切実に必要としているからだ。おまけにVODの浸透によって日々コンテンツに追われている。友達と外で遊ぶ時間なんてそうそう作れない。一方、80年代は暇潰しの手段が極端に少なかった。みんなとにかく暇を持て余していた。そういう人たちにとって孤独とは地獄の苦しみなのだろう。人間関係しか娯楽がなかった時代。そういう時代における生き方、あるいは時間の過ごし方は一面的で、恋人を作ってゆくゆくは結婚というロールモデルには説得力がある。確かにお一人様ではやっていけない。

そして、ミシェル・ウエルベックが出てきた土壌もこの辺にあるのではないか。フランス人は何よりも孤独を恐れていて、他者とのコミュニケーション、とりわけ異性との性愛を求めている。パートナーのいない自分に価値を置いていない。そこは古くから愛を探求してきた民族だけあって、我々には計り知れないところがある。

デルフィーヌのいいところは異性との関係を一時的なものではなく、永続的なものとして望んでいるところだ。彼女は色々と面倒な女だけど、この点だけは評価できる。理想の人と出会うまで一人でいようと決めていたなんてロマンティックではないか。だからこそ終盤でいい感じの男と肩を並べ、緑の光線を目の当たりにするラストが映えている。結局のところ、自分探しの旅もロマンティック・ラブに回収されてめでたしめでたしというわけだ。台無しにした休暇の代償としては上々で、終わってみれば後味のいい映画に仕上がっている。

パリに帰ったデルフィーヌがタンクトップ男に付け狙われるシークエンス。短いながらも緊張感があってインパクト大だった。このタンクトップ男、あっさり切り捨てたのがもったいないくらいキャラが立っている。このシークエンスはどういう意図で入れたのかよく分からない。しかし、それゆえに観終わった後もずっと気になっている。

フェルディナント・フォン・シーラッハ『刑罰』(2018)

★★★★

短編集。「参審員」、「逆さ」、「青く晴れた日」、「リュディア」、「隣人」、「小男」、「ダイバー」、「臭い魚」、「湖畔邸」、「奉仕活動」、「テニス」、「友人」の12編。

「なぜ法学を専攻したんだね?」〈おやじさん〉がたずねた。彼の声は柔らかかった。その質問はすでに事務長がして、セイマは答えていた。それが社会の基本であること、また人としての責任や理想の人間形成や法への熱い思いについて語った。説得力のある返答だったはずだ。だが今回は沈黙した。

「なぜだね、セイマ?」〈おやじさん〉はもう一度、小さな声でたずねた。

「二度と他人から指図されたくないからです」セイマも小声で答えた。「法がわたしの権利を守ってくれるはずですから」(pp.167-168)

『犯罪』『罪悪』に比べるといくぶん文芸寄りで、人生の不条理にスポットを当てている。

以下、各短編について。

「参審員」。不幸な男遍歴を重ねてきたキャサリンが、政治団体を経てソフトウェア会社に就職する。そこで参審員に任命されるのだった。キャサリンは精神を病んでおり……。いきなりパンチの効いた短編だった。ドイツの参審員制度は日本の裁判員制度よりも制度設計が甘いのではないか。どんなシステムも冗長性は必要だと痛感する。それにしても、仮に終盤のような不祥事が起きたら、普通はスキャンダルになって法改正にまで至ると思うのだけど。

「逆さ」。酒浸りの弁護士が殺人事件の国選弁護人になる。被疑者には動機も手段も証拠もあったが……。こういう鑑識のミスってドイツではよくあるのだろうか? アメリカの刑事ドラマだったらまず見落とさない。そこは銃社会とそうでない社会の違いが現れていて、仮に日本で同様の事件が起きたら同じ間違いを繰り返すだろう。それはともかく、ヤセルは調書を見ただけでよく真相が分かったものだ。探偵に向いているのではないか。

「青く晴れた日」。乳児を殺した罪で母親が有罪になり刑務所に収監される。出所して自宅に帰ると夫は平然とした態度をしており……。夫の最後は因果応報ではあるけど、女は夫のために数年間棒に振ったわけで、それが補填されないのはやり切れない。そして日本の場合、殺人事件はともかく、交通事故では罪を被ることがけっこうあるので、こういうのは他人事ではないと戦慄する。

「リュディア」。離婚した男が寂しさを埋めるためにラブドールを買う。ラブドールにはリュディアと名前をつけた。男はリュディアと愛を育むが……。こういうフェティシズムって自分にはないけれど、周囲にはよく見られる。たとえば、ペットに対する愛情なんかがそうだろう。畜生を家族同然に扱うなんて僕からしたらあり得ない話だ。人間と家畜の間には一定の線を引くべきだと思う。

「隣人」。24年間連れ添った妻エミリーを亡くしたブリンクマン。そんな矢先、隣の家に夫婦が引っ越してくる。ブリンクマンは夫婦の妻のほうのアントニーアと親しくなる。アントニーアには亡きエミリーの面影があった。犯行の瞬間は「魔が差した」としか言いようがない。けれども、孤独によってそういうコンディションが出来上がったのも事実だ。欲望が法の抑止力を超える。人間とはかくも複雑で恐ろしい。

「小男」。小男のシュトレーリッツは43歳独身。そんな彼がコカインの取引に手を染める。警察に逮捕されて裁判になるが……。一事不再理って先進国ならどの国にもあると思うけど、今回のケースは法の不備ではなかろうか。ドイツだけこうなっているのか。いずれにせよ、法は万能ではないということだ。

「ダイバー」。男女が結婚して夫婦になる。ところが、夫が妻の出産を目の当たりにしてから変になった。彼は自分の首を締めながら自慰をすることになる。散文的な事故を宗教儀礼の枠に入れて語っているところが目新しい。しかし、こういうのって神の恵みによって救われたわけではないんだよね。すべては人の営みによって収まるべきところに収まった。神の介在する余地はない。

「臭い魚」。少年トムが仲間たちに強要されて〈臭い魚〉とあだ名された老人を侮辱する。ところが、トムは老人の真実を知って後悔する。子供たちは子供たちで社会をやっていて、たとえ警官でもその歪みを正すことはできない。大人の視界には入らない子供だけの世界が存在する。思えば、僕の子供時代も似たようなものだった。子供同士の関係が世界のすべてだった。

「湖畔邸」。フェリックス・アッシャーは幼い頃、オーバーバイエルン地方にある祖父の邸に遊びに行っていた。50代になって両親を亡くしたアッシャーは、退職して祖父の邸に住む。ところが……。宅地開発によって静寂が乱されて不快になる気持ちって分からないでもない。僕も子供の頃、実家の隣の空き地に住宅が建ったときは不満に思ったし。それはともかく、結局アッシャーは裁かれなかったけれど、最後まで邸には帰れなかった。邸が死後も残っていることだけが唯一の慰めだろうか。

「奉仕活動」。トルコ移民の娘セイマは、厳格な両親からイスラム教の規範を押し付けられていた。しかし、セイマはそれを嫌がって法の道に進む。弁護士事務所に就職したセイマはある刑事事件を担当するのだった。これは傑作。我々は誰しも希望を持って就職し、しばらくして理想と現実のギャップを知ることになる。ところが、法の世界は想像を絶するものだった。法は弱者を守ってくれない。引いてはセイマのことも守ってくれない。世界は残酷だった。

「テニス」。女の夫はテニスを嗜んでいたが、同時に浮気もしていた。女は浮気の証拠を目立つ場所に置いた後、ロシアに出張する。ちょっと移動するだけで人々の有様がガラリと変わるのがこの世界の恐ろしいところだ。方や優雅にテニスをし、方やどうしようもない事情で薬物に縋り付く。後者の世界では浮気をする余裕なんてないのだろう。そう思わせるだけの迫力がある。

「友人」。「私」の幼馴染リヒャルトは金持ちの子弟だった。長じてからは一族の財産を管理する銀行に就職し、やがて妻も娶る。ところが、そこから身持ちを崩すのだった。金持ちの家に生まれたら何の苦労もないだろう、と思ってたらそうでもなかった。罪は犯してないのに罰を受ける状況は生殺しである。リヒャルトは妻の運命を変えられたかもしれないわけで、人生とはどうかなるのか分からない。

エリック・ロメール『満月の夜』(1984/仏)

★★★★

ルイーズ(パスカル・オジエ)とレミ(チェッキー・カリョ)はパリ郊外のアパートで同棲していた。レミの独占欲に辟易したルイーズは、自由を求めてパリに所有している部屋を仮宿にする。また、レミにはオクターヴファブリス・ルキーニ)という友人がいてよく顔を合わせていた。オクターヴは妻子持ちのくせにレミに言い寄ってくるが、レミにその気はない。ある日、レミはパーティーで出会ったバスチアン(クリスチャン・ヴァデム)と浮気をする。

いつになく教訓的な内容だった。終盤で奔放なルイーズに罰が下されるあたり、青春の蹉跌という感じがする。

ルイーズはサバサバした恋愛観を持っていて、恋人との関係は愛がすべてだと思っている。彼の愛が消えたら私も愛さない。そう思っているから放任主義でいられる。レミが無条件にこちらを愛していると信じているのだ。しかし、言うまでもなくそれは捨て鉢の信頼だ。恋愛関係を維持するにはある程度の束縛が必要である。束縛から逃れて自由に振る舞っていると、いずれは相手も浮気をすることになる。思うに、恋愛とはどちらも同じくらい相手を愛し、同じくらい独占欲を持ってないと続かないのだろう。そのバランスが崩れると関係が破綻する。だからこそ絶え間ないメンテナンスが必要なのだ。ところが、ルイーズとレミはもう倦怠期に入っていて、ルイーズはレミのことを愛していると言いながらも束縛から逃れたがっている。たまに離れていないと深く愛せない、というのが彼女の言い分だ。ここまで来ると関係の修復は難しく、ほろ苦い結末を迎えるのも仕方がなかった。とかく恋愛の力学は難しいものである。

そもそもの失敗はルイーズに大人の自覚がなかったことだろう。ルイーズは恋人がいながらもまだ遊びたいと思っており、誘惑こそが若さの特権だと嘯いている。そして、欲望の赴くまま行きずりの男と寝てしまう。しかし、欲望こそが愛の源であることも否めない。というのも、誰だって自分の欲望を喚起する人間を愛するのだから。問題は恋人がいるのに一時期な欲望に屈するところで、そこはモノアモリーの規範から大きく外れている。我々の世界では通常、一人の人間は一人の人間としか同時に付き合えない。複数の人間と恋愛関係を結べない。モノアモリーの規範が常識になっている社会だからこそ、ルイーズのような存在はパージされる。

結局のところ、現代における恋愛とはいかにしてモノアモリーの規範に適合するかの問題でしかないのではないか。誰だって束縛を逃れて浮気したい。しかし、それをすると相手は別れを切り出してくる。関係を続けたいのだったら行きずりの欲望を抑えるしかない。お互いが欲望を抑えることによってようやく恋愛関係が維持される。良くも悪くも市民社会とはそういうもので、我々は制限された自由の中、他人の権利に気を配りながら生きている。何人たりとも逸脱は許されない。みんな平等なのだから。つまり、市民社会とはみんなが平等に不自由を受け入れる社会なのである。

エリック・ロメール『海辺のポーリーヌ』(1983/仏)

海辺のポーリーヌ

海辺のポーリーヌ

  • アマンダ・ラングレ
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★★★★

ノルマンディー。15歳のポーリーヌ(アマンダ・ラングレ)が、従姉のマリオン(アリエル・ドンバール)と共に海辺の別荘にやってくる。2人はそこでマリオンの元恋人ピエール(パスカル・グレゴリー)とピエールの友人にして民族学者のアンリ(フェオドール・アトキン)と出会う。愛に燃え上がりたいマリオンはアンリに恋をするのだった。一方、ポーリーヌは同世代の少年シルヴァン(シモン・ド・ラ・ブロス)と知己になり、間もなく親密になる。

フランス人って作家も映画監督もやたらと愛を題材にするから面白い。特にエリック・ロメール監督は恋愛哲学を濃密に織り込んでくるから見応えがある。本作もセリフが多くて字幕を追うのに必死だった。

民俗学者のアンリがとにかく曲者だった。彼は職業柄定住せず、元妻ともそれが原因で別れている。彼にとって放浪生活は自由を意味していた。また、女に対しても執着せず、マリオンといい関係になりながらも他の女とベッドを共にしている。それも彼にとっては自由の表れだった。なぜマリオンという完璧な肉体を手にしながらも敢えて浮気しているのかと言ったら、完璧な肉体よりも不完全なほうがそそられるからだ。アンリは「相手の欲望に火をつけることが恋愛の秘訣」と豪語しており、欲望の赴くまま女に手を出している。このアンリは成り行きからシルヴァンに自分の浮気の咎を押しつけていて、中年男の老獪さをこれでもかと見せつけていた。最終的には誤解が解けてシルヴァンの名誉が回復されたものの、根本的にたちの悪い男であることに変わりはない。諸悪の根源として映画をスリリングなものにしている。

アンリが掲げる自由は彼自身がモノアモリーの束縛から解放されることであり、それは同時に他人の心を踏みにじったり、他人を陥れたりすることでしか達成できないものだ。アンリが自由であればあるほどそのしわ寄せが他人に行くことになる。どんな人間も共同体の一員である以上、他人の権利を尊重することは不可欠なので、一個人の野放図な自由を許すわけにもいかない。どこかで制限を課す必要がある。アンリという存在は我々に自由の何たるかを教えてくれる。

ポーリーヌとシルヴァンヌがお似合いのカップルで、レコードをBGMにしながら水着でチークダンスしているところが絵になっていた。何よりこの2人は肌がピチピチしている。マリオンはマリオンで完璧な肉体をしていたけれど、それでもなおポーリーヌの若さには敵わなかった。本作はポーリーヌ演じるアマンダ・ラングレの若さを永遠に刻みつけた映画と言えるだろう。その水着姿は至高の領域に入っている。