海外文学読書録

書評と感想

市川崑『東京オリンピック』(1965/日)

★★★

1964年東京オリンピックドキュメンタリー映画

この大会がどういう大会だったかというと、バレーボール女子で日本がソ連との激闘を制して金メダルを獲得した。日本チームは以前から「東洋の魔女」と呼ばれていたらしい。また、男子マラソンでは円谷幸吉が銅メダルを(金メダルはアベベ)、柔道重量級では猪熊功が30kg以上重い相手に勝って金メダルを獲得している。この大会で日本は金メダルを16個獲得し、その数はアメリカ、ソ連に続いて3位だった。

2020年東京オリンピックは新型コロナによって1年延期し、これを書いている2021年7月下旬に開催されている。1964年と2021年の大きな違いは、日本が上り坂か下り坂かどうかだろう。1964年は高度経済成長期の真っ只中で上り坂だった。日本人は未来に希望を抱いていた。一方、2021年は人口減少時代に突入し、日本は下り坂を転げ落ちている。隣の中国にGDPで追い抜かれて久しい。今後経済的にも軍事的にも逆転の目はなく、日本人は未来に不安を抱いている。同じ東京オリンピックでも、1964年が光のオリンピック、2021年は闇のオリンピックなのである。

闇の時代を生きる我々にとって、光の時代を映した本作はとても眩しい。冷戦期だから今と同じくらい世界情勢は不安定だったものの、オリンピックでは一旦それを棚上げにし、表向きは平和の祭典が成立している。東ドイツと西ドイツは統一ドイツとして参加しているし、台湾はTAIWAN(中華民国)として参加していた。そして、何よりそういった政治性を抜きにしたアスリートのパフォーマンスが圧倒的で、本作では活力に満ちた肉体、躍動する筋肉をスローモーションで強調している。個人的にスポーツは相撲くらいしか興味がないのだけど、本作で示されたアスリートの肉体美、あるいは競技を最速で駆け抜ける機能美には見惚れるものがあった。

現代のオリンピックと大きく違うのは、開会式が質素なところだろう。出し物は航空機によるスカイライティングしかない。現在行われているサーカスのようなパフォーマンスは皆無で、ただ選手たちが集団で入場しているのみである。オリンピックっていつから金をかけるようになったのだろう? 少なくとも1964年の時点では商業主義が剥き出しになっていなかった。それが証拠に大会の開催は10月である。現在のオリンピックが7月開催なのはアメリカのテレビ放映に合わせているからで、アスリートファーストからは程遠い。わざわざ熱中症で倒れる時期に開催している。選手のコンディションを考えたら涼しい秋口にやるべきで、そこはIOCの不純な動機が透けて見える。

サブスク時代になってからはオリンピックも特別なイベントではなくなった。みんな時間に追われている。目の前には消化すべき映画があり、消化すべきドラマがある。企業は消費者の時間を奪い合っていて、オリンピックもその争いに巻き込まれているのだ。娯楽に溢れた現代では誰もが時間の使い方に頭を悩ませている。これが良いことなのか悪いことなのかは判断に迷うところだ。

ヴィットリオ・デ・シーカ『ひまわり』(1970/伊=仏=ソ連=米)

★★★★

第二次世界大戦ナポリ娘のジョバンナ(ソフィア・ローレン)と兵士のアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)が海岸で出会って恋に落ちる。結婚すると12日間の休暇がもらえるため、2人はすぐさま結婚するのだった。アントニオは精神病を装って兵役を免れようとするも、詐病がバレてソ連戦線送りにされる。終戦後、アントニオの消息は不明だった。スターリンが死んだ後、ジョバンナはアントニオを探しにソ連に行く。

男女の割り切れない思いを見事に映像化していた。ヘンリー・マンシーニの劇伴が2人のせつない関係を引き立てている。これぞ名画という趣だった。

実を言うと、途中までは随分と未練がましいなあと呆れていた。別れてから十数年経って会いに、それも異国の地に会いに行くのは正気の沙汰ではない、と。しかも、相手は消息不明だ。仮に生きていたら連絡のひとつでも寄越すだろう。音信不通の時点で何かを察するべきだった。案の定、アントニオは現地の女と新たな人生を始めていて、それを見たジョバンナはショックを受けることになる。一途な恋が一瞬にして仇になったのだ。しかし、十数年も経てばそうなるのも当たり前で、ジョバンナには同情できない。前述の通り、連絡がなかった時点で察するべきだった。結局は藪をつついて蛇を出すことになったわけで、ジョバンナの愚かさにはつくづく嫌気がさしてくる。

それに輪をかけてアホらしいのがアントニオの行動だ。というのも、今度は彼がソ連からイタリアにやってくることになる。アントニオはアントニオでジョバンナに未練があった。おいおい、妻子持ちなのにそれでいいのかと思うのだけど、そこは男女関係の割り切れなさだろう。アントニオとジョバンナの結婚生活はたったの2週間だった。しかし、それゆえにアントニオの中にはいい思い出しかない。おまけに現在の夫婦関係は子供ができて倦怠期にある。男にとって昔の女は輝いて見えるもので、手に入らなかったからこそ未練も募る。本作はそういった身も蓋もない心情に焦点を当てつつ、2人のすれ違いが運命的なものであるように印象づけ、ボタンの掛け違いがもたらした悲劇として感動を誘発させている。不合理な行動を割り切れない思いとして提示するあたり、この監督はただものじゃないと思う。

冷静に考えるとジョバンナもアントニオもやってることに無理があるのだけど、そこはヘンリー・マンシーニの劇伴で押し切っていて、音楽の力は偉大だと感心した。

アンドレイ・タルコフスキー『ノスタルジア』(1983/伊=ソ連)

ノスタルジア(字幕版)

ノスタルジア(字幕版)

  • オレーグ・ヤンコフスキー
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★★★★

ロシアの詩人アンドレイ(オレーグ・ヤンコフスキー)が、通訳のエウジェニア(ドミツィアナ・ジョルダーノ)と共にイタリア中部を訪れる。目的は作曲家の取材だった。間もなく2人は温泉街へ。そこでアンドレイはドメニコ(エルランド・ヨセフソン)と知り合う。ドメニコは終末が訪れると信じて家族を7年間幽閉していた。アンドレイはドメニコから世界の救済を託される。

映像に集中したせいで話が頭に入ってこなかった。色彩と構図が石造りの建物を工芸品のように見せていて、ヨーロッパの町は存在自体が芸術ではないかと思わせる。

湯気の立つ温泉をゆっくりと水平移動していくショットがいい。石造りの塀に沿ってカメラが進んでいき、石造りの建物までたどり着く。終着点では湯気による朧げな風景とくっきりした風景のコントラストが見られて最高だった。

石造りの建物を背景にした長回しも印象的だ。まずエウジェニアがアンドレイとドメニコの間を行き来する。その後、アンドレイが満を持してドメニコの元へ向かっていく。その様子を真横からカメラの水平移動によって捉えている。ここもやはり建物の存在感が抜群で、ヨーロッパは何をしても絵になるからずるい。

また、水平移動だけではなく、奥行きを利用したショットも使われている。少し離れた場所からアンドレイを映し、カメラはゆっくりと後退していく。アンドレイの前後にはアーチ状の出入り口があり、彼はそのフレームに収まっていた。そして、アンドレイはおもむろに手前のカメラに近づいてくる。ところが、目の前で立ち止まってもカメラは後退をやめない。少し距離を置いて広い範囲をフレームに収めている。この前後の動きも神がかっていた。

世界の救済を託されたアンドレイは、ロウソクに火を灯して温泉を渡る。これが何を意味するのか皆目見当がつかないが、何かの境地にたどり着くには何らかの儀式を必要とするのだろう。民話から神話まで、物語とは常にそうあり続けてきた。アンドレイは3回目の挑戦でミッションに成功し、今生から離れて夢幻の世界へと入り込む。彼が見た光景はノスタルジーを感じさせるもので、それは監督の内面にまで関心が及ぶものだった。実際、本作が完成した後に監督は西側に亡命しているわけで、これは私小説的な映画なのだということが分かる。最後に出てくる母親への献辞が味わい深い。

預言者の役目を担ったドメニコは、聴衆の前で演説した後、自らの体に火をつけて自殺する。アンドレイも最後は死を暗示するような倒れ方をしたわけで、救済とは今生から離れることで初めて成し遂げられるのかもしれない。

ラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000/デンマーク=独=英=仏=スウェーデン=オランダ=伊=ノルウェー=フィンランド=アルゼンチン=台湾=ベルギー)

★★

アメリカの田舎町。チェコからの移民セルマ(ビョーク)は目の病気で盲目になりつつあった。彼女は息子ジーン(ヴラディカ・コスティック)とトレーラーハウスで暮らしており、ジーンにも病気が遺伝している。セルマは息子の手術代を稼ぐべく工場で働いていた。セルマの周囲には親友キャシー(カトリーヌ・ドヌーヴ)とセルマに懸想しているジェフ(ピーター・ストーメア)がいる。ある日、セルマは息子の手術代を大家のビル(デヴィッド・モース)に盗まれてしまい……。

登場人物が監督の操り人形みたいで不自然だった。終盤で何か捻りがあるのかと思ったらそれもなかったし。ミュージカルシーンもおざなりですべてが中途半端だった。ただひとつ、ラストの一発ネタをやりたかったことは伝わってくる。

セピア色の現実からカラーの空想に切り替わるアイデアは『オズの魔法使』【Amazon】から借りたのだろうが、本作にはあの映画ほどの衝撃がなかった。世界が一変するほど飛躍してないというか。本作においてミュージカルシーンはすべて空想であり、従ってどのシーンもカラーで表現されている。それなりに浮いた感じはあるものの、カット割りが細かすぎて小洒落たテレビCMを見ているようだった。現代のミュージカル映画ってだいたいこの悪癖を抱えていると思う。あんなにズタズタに編集して、何のために歌や踊りを撮っているのか分からない。どうせだったら演者の超絶技巧を見たいわけで、あのサーカスみたいなカット割りはどうにかしてほしかった。

セルマが銀行に金を預けてないのが謎だった。犯罪大国アメリカで2千ドルもの大金を自宅に保管しているなんてあり得ない。しかも、その2千ドルは息子の手術代である。絶対に無くしてはいけない金だ。移民だから銀行口座が作れないのかと思ったけれど、いくら何でもそれはないだろう。この映画、セルマが自宅に大金を保管していることがすべての元凶なので、そこは納得のいくロジックが欲しかった。

視覚障害者のセルマが福祉を受けずに工場で働いているのも腑に落ちない。生活費はともかく、息子の手術代は福祉から出ないのだろうか。まあ、セルマの行動はどれを取っても息子への贖罪なので、敢えて茨の道を歩んでいるのかもしれない。大金を銀行に預けてないのも、また公的な福祉を受けてないのも、セルマの盲目ぶりを示す設定と考えれば納得がいく。貧困層の無知、あるいは視野の狭さが表れていると言えなくもない。

最初から最後まで徹底して男女のロマンスを排除しているのが良かった。ジェフはセルマに恋をしているものの、その思いは断固として拒否される。結局、ジェフはセルマを助けることができない。ハリウッド映画とは文法が違っていて興味深かった。

とはいえ、登場人物が監督の操り人形みたいで悲劇も予定調和なのがきつい。これを名作として持ち上げるのには抵抗がある。

デヴィッド・リンチ『ロスト・ハイウェイ』(1997/米=仏)

★★★★

サックス奏者のフレッド(ビル・プルマン)が、「ディック・ロラントは死んだ」という声をインターホンで聞く。翌朝、妻のレネエ(パトリシア・アークエット)が玄関先でビデオテープの入った封筒を拾った。そこには自宅の様子が映されている。その後、パーティーで白塗りの顔をした謎の男(ロバート・ブレイク)が現れ……。

野放図なことをやっていると思わせつつ、きっちりメビウスの輪のような円環構造に収めているところが良かった。デヴィッド・リンチって幻想的な作風も去ることながら、何より全体の構想がしっかりしていて、それゆえに見終わった後は一定のカタルシスがある。意味不明な細部とのバランスがいい。

アイデンティティの融解を映像で表現するとこうなるのか、という驚きがある。たとえば、小説の場合は文字ですべてを表現しているから、登場人物の固有性はあくまで言語上のものであり、ヴィジュアル的には何も示されない。極端な話、文章でいくらでも誤魔化すことができる。ところが、映画だと視覚的に表現しないといけないから、問答無用で観客に固有性が示される。見た目が違ったら、あるいは演じる俳優が違ったら、それは特段の事情がない限り別人と判断するわけだ。けれども、本作はそういったルールを逆手にとってアイデンティティの融解をやってのけているのだから驚く。ヴィジュアルで示されているからこそ印象が強烈なのだ。映画とは外側からカメラで映すことで成り立っているから、こういった内的な世界を描くと予想以上に野放図になる。そこが刺激的で面白かった。

超常的な力が理不尽に介入してくることで、その人物の抱える欲望が炙り出される。振り返ってみれば、本作はセックスを巡る悪夢としか言いようがない。人の無意識を外側から描くとこうなるのではないか。それくらい理屈に合わない出来事がてんこ盛りになっている。どこまでが現実でどこからが虚構なのか分からない。すべてが現実と言える手触りがあるし、すべてが虚構とも言える不確かさがある。いずれにせよ、別物と思われたエピソードが最終的に繋がるところはポイントが高い。最後まで観て良かったと思わせる。

グラマラスなアリス(パトリシア・アークエット)は典型的なファム・ファタールで、アメリカ人の男は皆こういう女に騙されたがっているのかもしれない。