海外文学読書録

書評と感想

アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ『私はゼブラ』(2018)

★★★

イラン。ホッセイニ一族の末裔ゼブラは、父から「文学以外の何ものをも愛してはならない」と戒められ、幼い頃から人文学の英才教育を受ける。やがてサダム・フセインが仕掛けた戦争が勃発。親子はトルコ・スペイン経由でアメリカに亡命する。22歳になったゼブラは父の死をきっかけに「亡命の大旅行」を計画し、スペインへ渡ることに。そこで若き文献学者ルード・ベンボの協力を得る。

私は舌の先でその語を転がし、密かにつぶやいてみた。そしてさらによく考えた。ゼブラ。戦時の捕虜のような白黒の縞模様の動物。あらゆる二項対立を拒絶し、紙に印刷されたインクを象徴する動物。思想の殉教者。決まりだ。ついに新しい名前が見つかった。私が突然、声を上げたので葬儀屋は驚いた。「私の名はゼブラ!」(p.60)

よくある移民のルーツ探しかと思いきや、『ドン・キホーテ』【Amazon】をギミックに使いつつ、「愛」の欠如を自覚する話だったので驚いた。あらすじに書いた通り、ゼブラは「文学以外の何ものをも愛してはならない」という戒律を課せられ、それを忠実に守っている。ところが、スペインでルード・ベンボと出会い、彼と肉体関係を結んでからその信念が揺らいでいく。周知の通り、ドン・キホーテは最後に正気を取り戻してから死んだ。騎士道物語の妄想から解放されて死んだ。それに対し、文学に取り憑かれたゼブラはどういう結末を迎えるのか? 変人の行く末を知りたくて最後まで読んだ。

ゼブラにとって文学とは、虚飾に塗れたこの世界の中の真実である。独学・反権力・無神論の旗印を掲げているものの、その思想信条は行き過ぎで、もはや神のいない宗教だ。現実からの避難所としての文学。そして、彼女からすれば人間の愛は恒久的なものではない。「文学のほうが現実よりも真実に近い」という信念を抱いている。この極端な文学至上主義には惚れ惚れするが、一方でこのまま死ぬまで現実逃避を続けていいのかという疑問も湧いてくる。いくら世界が虚飾に塗れているとはいえ、人間はいずれ現実と折り合いをつけないといけない。観念の世界から抜け出さないといけない。『ドン・キホーテ』の時代は牧歌的だったからまだしも、現代では常軌を逸した生き方を社会が受け入れてくれないだろう。我々の社会は極端な逸脱者の存在を許さない。悲しいことに、亡命者のゼブラはどこへ行ってもよそ者である。現実世界においては根無し草であり、だからこそ文学の世界にどっぷり浸かっている。そんな状況からこの世に引き戻す唯一の手段が「愛」だ。他者からの「愛」は、何者でもない自分を「ここに存在してもいい」一個の人間として認めてくれる。このまま「文学するテロリスト」として佯狂の人生を送るか。あるいは、現実世界とある程度の妥協をするか。アイデンティティを巡るゼブラの葛藤には切実さを感じる。

よくある移民文学は、ゆかりの土地を旅して先祖の逸話を探るものが多い。それに対して本作は、文学を媒介にして亡命者の本質に迫ったところが新しかった。

ルイ・レテリエ『インクレディブル・ハルク』(2008/米)

★★

科学者のブルース・バナー(エドワード・ノートン)は施設で軍事研究をしており、自分の体を使って人体実験をする。その結果、心拍数が200を超えると怪物化する特殊体質になってしまった。軍から追われる身になったブルースは、ブラジルのスラム街に身を隠して生活している。ところが、あることがきっかけで軍に見つかり、最強の兵士ブロンスキー(ティム・ロス)と対峙することに。また、ブルースには恋人ベティ(リヴ・タイラー)がいて……。

予想以上に地味な映画だった。前半はブルースと軍隊の追いかけっこ、後半は怪物同士の対決である。CGで描かれた怪物と背景の融合がいまいちで、映像技術の限界が目についた。特に戦闘シーンでは怪物だけ画面から浮いている。もう少しどうにかならないかと思った。

序盤は善玉と悪玉の立場を逆転させたような構図で、たぶんヒーローものとしては異質なのだろう。というのも、普通だったら人間が善玉で、知略を駆使して怪物に挑むのが王道のはずである。それが本作では逆になっていて、怪物になった主人公が向かってくる人間どもを圧倒的パワーで蹴散らしている。見た目もいかつくて悪役っぽい。しかし、彼は軍に追われる身であり、捕まったらその実験成果を兵器に利用されてしまう。悲しい宿業を背負っているのだった。本作は心拍数が200を超えると怪物に変身するという設定が光っている。走っていても危ないし、セックスだってろくにできやしない。自分の意思ではなく、不可抗力で怪物になるところが悲劇である。

ブルースがハルクになった姿はボディビルダーも真っ青の筋肉だるまで、これは究極の男性性ではないかと目をみはった。もちろん、見た目に違わずパワーも桁違いである。その肉体は銃弾を弾き、軍隊の攻撃を寄せ付けない。彼と対等に戦えるのは同じく怪物化したブロンスキーくらいである。しかも、そのブロンスキーは自分より強い敵を熱望する戦闘狂で、ブルースと男性性を競おうとするのだった。このシンプルさは嫌いではないものの、それにしたってアメリカ人のマッチョ好きにはつくづく呆れてしまう。

ヒクソン・グレイシーがブルースの師匠役として出演していた。懐かしい。道場でブルースの頬を張り飛ばしていて、あれが素なのだろうという感じの自然さだった。昔は日本でも格闘技イベントが流行ってたよなあ……。

ウィリアム・ワイラー『ローマの休日』(1953/米)

★★★★

ヨーロッパ各国を親善旅行中の王女アン(オードリー・ヘプバーン)は、イタリアのローマを訪れる。そこで彼女は過密スケジュールに耐えかねてヒステリーを起こす。その夜、城を抜け出したアンは、アメリカ人の新聞記者ジョー・ブラッドレー(グレゴリー・ペック)に介抱される。間もなくジョーは彼女の素性に気づき、カメラマンのアーヴィング(エディ・アルバート)を引き入れてスクープをものにしようとする。

今回で3回目くらいの鑑賞だけど、記憶していたのよりもシンプルな話だった。アニメで言えば、『ルパン三世 カリオストロの城』【Amazon】みたいな感じだ。方や王女、方や新聞記者。決して出会わないはずの2人が恋に落ち、最後は決然と別れている。

いくら愛し合っていてもそれが成就しないのって、Twitterで出会ったおたく青年と家出少女みたいでなかなかエモい。つまり、本作には身分の壁があり、家出少女には法律の壁がある。2人の愛はその壁を乗り越えることができない。束の間の恋路を存分に楽しみ、葛藤しつつもそれぞれの日常へと帰っていく。休日はいつまでも続かないのだ。こういった日常と非日常の関係をより先鋭的に描いたのが『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』【Amazon】で、夢の時間が儚いのはおたくも一般人も変わらないようである。本当だったらいつまでも休日を満喫していたい。でも、いつかそこから抜け出さないといけない。日常の持つ引力の強さが憎たらしいと思う。

本作には漫画・アニメ的な表現がちらほらあったけれど、これは話が逆で、漫画やアニメが本作から影響を受けたのだろう。たとえば、アンがベスパを暴走させてあちこちに混乱を巻き起こすシーン。これなんかもろに宮崎駿で、アニメ化したときの細密な動きが目に浮かぶようである。本作も宮崎アニメも、ヨーロッパ的なガジェットが様になっている。

真実の口には有名な言い伝えがあり、それは嘘をついている者が手を入れると抜けなくなるのだという。よくよく考えたらこの時点でアンもジョーも互いに嘘をついていたわけで、偶然にしては随分と出来すぎたシチュエーションだ。場所と物語の奇跡的なマッチングと言うべきか。そこを逃さなかった制作陣はさすがだった。

籠の中の鳥だったアンが、リフレッシュして帰ってきて一皮剥けたところがいい。ジョーが出席する記者会見では、最後に笑顔を見せた後、やや後ろ髪を引かれるような表情をしつつその場を去っていく。彼女の手元に残ったのは写真、そしてかけがえのない思い出である。さらに、ジョーも一人だけ会場に残った後、意を決して格好良く歩き去っていく。これがまた最高の終わり方だった。休日はたまにあるからこそ尊いのであり、普段の我々は日常を頑張って生きていくしかないのである。それぞれの場所で。

クエンティン・タランティーノ『レザボア・ドッグス』(1992/米)

★★★★

裏社会の大物ジョー・ガボットローレンス・ティアニー)が宝石強盗を計画し、息子のナイスガイ・エディ(クリス・ペン)と共に、ホワイト(ハーヴェイ・カイテル)、オレンジ(ティム・ロス)、ブロンド(マイケル・マドセン)、ピンク(スティーヴ・ブシェミ)、ブルー(エディ・バンカー)、ブラウン(クエンティン・タランティーノ)の6人を集める。ところが、犯行は警官の待ち伏せにあって失敗するのだった。強盗団は6人の中に裏切り者がいると疑う。

ホモソーシャルの崩壊が金や女を抜きにいかにして起こるのかを描いている。僕の知る限り、サークルクラッシュの原因はだいたいこの2つだ。たとえば、学生の集団はオタサーの姫を巡って血みどろの争いを繰り広げている。犯罪集団だとさらに金も絡んでくるだろう。よく男は理性的・女は感情的と言われるが、実際のところは男の集団なんて脆いものだ。金か女を放り込めばあっさり崩壊してしまう。

本作の面白いところは、サークルクラッシュの原因をこの2つに求めていないところだろう。具体的には、男同士の関係から浮かび上がる「情」にスポットを当てている。友情とも愛情とも違う、感情移入としての「情」である。本作ではホワイトがオレンジに肩入れした結果、組織があっけなく崩壊してしまう。プロは共感を元に行動しては駄目で、それをすると取り返しのつかないことが起こる。洒落にならないサークルクラッシュが発生する。この辺、最近話題の反共感論に通じるものがあって、極めて現代的なトピックだと言える。

強盗団に潜入していた警官が、成り行きとはいえ、一般人を銃で撃つところも印象的だ。彼は犯行に失敗して逃げる途中、車の運転手に銃を突きつけてハイジャックしようとする。しかし、相手から銃撃されて腹部に命中してしまう。そこで反射的に自分も撃って無辜の一般人を傷つけるのだった。本作は犯罪映画だから当然倫理的にアウトなことばかり描かれるのだが、この部分は撃った本人に後悔が感じられて何ともせつない気分になる。正義を執行する立場ゆえに、とっさの判断による不可抗力も言い訳にできない。そんな彼が贖罪もしないまま死んでいったのはさぞ無念だろう。こういうエモーションを織り込んだところが良かった。

ところで、この頃はハリウッド映画にPCが入り込んでいなかったのか、主要メンバーに黒人がいなかったのには驚いた。のみならず、黒人を揶揄したジョークも披露されている。個人的にはこの部分がもっともクールでスタイリッシュだった。現代人が昔の映画を見ると昔の大らかさにびっくりする。

周防正行『シコふんじゃった。』(1992/日)

★★

教立大学。コネで一流企業への就職を決めていた山本秋平(本木雅弘)だったが、卒業論文の指導教員・穴山教授(柄本明)により、卒業に必要な単位が取れないと通告される。山本は単位と引き換えに相撲部の助っ人として大会に出場することを要請されるのだった。相撲部には青木富夫(竹中直人)しか部員がおらず、あとは大学院生の川村夏子(清水美砂)が名誉マネージャーとして顔を出している。勧誘の結果、田中豊作(田口浩正)と山本春雄(宝井誠明)が相撲部に協力することになり、団体戦に出場することになった。その後、交換留学生のジョージ・スマイリー(ロバート・ホフマン)も相撲部に入る。

相撲という男の世界をバブルのチャラさで中和したところが本作の美点だろうか。ただ、個人的にバブル時代に対しては憧憬と軽蔑が入り混じった複雑な感情を抱いていて、あまり公正に判断できない。好況を背景にした屈託のない青春が羨ましい反面、「楽してずるする」浮ついた気風には反感しかおぼえない。学業もほどほどにレジャーを楽しみ、就職はコネで一流企業にしれっと滑り込む。バブル時代に特有の「存在の耐えられない軽さ」がどうにも鼻につくのだ。この時代は、日本の戦後史における最大の汚点とすら思っている。結局のところ、こいつらの尻拭いをしているのが我々の世代なので、世代間対立はよくないと思いつつ、何とも言い難い敵意を心に忍ばせているのだった。

試合のシーンが思いのほか良くできていて、実際の相撲を綿密に研究した跡が窺える。素人がこれだけ熱戦を演じられるのだったら、大相撲の力士が八百長をしても我々は見抜けないのではと思ったほどだ。ここだけの話、大相撲の八百長は文脈から判断するのが通例で、たとえば千秋楽の結びの一番はモンゴルダンスになることが多い。というのも、それまでに優勝が決まっている場合、横綱同士が真剣勝負をするインセンティブがないから。また、かつては大関互助会なるものが存在し、カド番大関の一挙手一投足を観察する楽しみもあった。通は八百長込みで相撲を楽しむものである。この心性は先に書いた「浮ついた気風」への反感と矛盾すると思われるだろう。しかし、人間には一貫性なんてなく、良く言えば是々非々、悪く言えばいい加減に物事を判断しているため、こうなるのも仕方がないのである。人間が抱える矛盾を素直に受け入れるのが大人というやつだ。

教立大学はミッション系の大学なのに道場に神棚を飾っている。そのことを臆面もなく指摘する交換留学生が素敵だ。彼は部員の中で一番強いのだけど、スパッツ問題によって終盤まで試合に出場しない。弱小チームでもハンデを設けるところはこの手の物語のお約束である。団体戦には団体戦ならではの勝敗を読む楽しみがあるのだ。そんなわけで、高校相撲を題材にした『火ノ丸相撲』【Amazon】は出色の出来だったと再確認することになった。

本作が公開された1992年は、貴花田が史上最年少で幕内最高優勝を果たした年で、若貴ブームの真っ盛りだった。角界にとっては幸福な時代だったようだ。