海外文学読書録

書評と感想

テイラー・シェリダン『ウインド・リバー』(2017/米)

★★★

一面が雪に覆われたワイオミング州ウインド・リバー保留地。地元でハンターをしているコリー・ランバートジェレミー・レナー)が、付近に何もない土地で少女の死体を発見する。死体は裸足だった。コリーはFBIの捜査官ジェーン・バナー(エリザベス・オルセン)と共に事件を捜査する。

『刑事ジョン・ブック 目撃者』【Amazon】みたいなのを想像していたら、案に相違して殺人の捜査が主軸になっていた。売り文句である「アメリカの闇」についてはよく分からない。単に被害者がネイティブ・アメリカンというだけで、言うほど差別と偏見には触れてないと思う。被害者の少女は、アメリカでよくある激安犯罪に巻き込まれただけだし。これは白人/ネイティブ・アメリカンという対立軸よりも、男性/女性という対立軸で捉えたほうがしっくりくる。加害者も被害者も土地の生活にはうんざりしていた。どちらかというと、本作は辺境に打ち捨てられた人々の悲しい物語だと言える。

土地から抜け出すには大学に進学するか軍に入隊するしかない、というのは確かに「アメリカの闇」だと思う。日本だと無為徒食の人間でも上京すれば何とかなるので。ウインド・リバーにおける問題は、犯行グループの一人が「この土地は凍てついた地獄」だとか「女との楽しみもない」だとか言っていること。つまり、選択の自由がないことだ。君たちは白人なんだから何とかなるのでは? と思うのだけど、その辺の事情が描かれていないので何とも言えない。辺境で燻るには燻るだけの理由があるのだろう、と推察するしかないのである。ウインド・リバーとは試される大地であり、白人でありながらそこで暮らすのは「アメリカの闇」を体現していると言える。

個人が犯罪者を裁くのは西部開拓時代からの伝統で、この気風が21世紀まで残っているのには驚いた。アメリカでは未だに法の支配が隅々まで行き届いていないようである。そして、僕はこの状況こそが「アメリカの闇」なのだと思う。というのも、犯罪者は自分たちで裁くという風潮が、銃社会の容認にまで繋がるから。一般人に銃の所持を認めたら、それが犯罪に使われるのは明白である。かつてアメリカでは『狼よさらば』【Amazon】という映画が作られたけれど、あれはこの国に根付く自警団の思想が描かれていた。そして、その思想は現在まで受け継がれている。アメリカはいつまで経っても闇から抜け出せないようで、その行く末が心配になる。

ジョン・マッデン『女神の見えざる手』(2016/米=仏)

★★★

ロビイストのエリザベス・スローン(ジェシカ・チャステイン)は大企業でバリバリ活躍していたが、銃規制反対の仕事を振られた際、それを断って別の小さな会社に移籍する。そこで銃規制強化のロビー活動をするも、対抗勢力から妨害を受けることになる。そして、エリザベスは不正を行ったとして聴聞会に立つことに。

ロビイストを題材にしたお仕事映画だけど、主人公のエリザベスが肉食獣みたいな獰猛さで仕事をしていてどん引きした。これがアメリカのビジネスエリートってやつだろうか。勝つためなら手段を選ばないところがサイコパスっぽいし、何より仕事以外に生きがいを持ってないところが恐ろしい。プライベートではせいぜい男娼(エスコートサービス)を買って性欲を満たしているくらいだ。さらに、彼女は睡眠障害を患っていて、日中は目を覚ますための薬を常用している。僕にとって仕事はあくまで食うための手段にすぎないので、ここまで熱を入れている人とは率直に言って反りが合わない。自己実現のためのライフワークはプライベートで行っているので、おそらく話も合わないだろう。こういう都会のビジネスエリートとは関わりたくない、というのが本音だ。

日本に住んでいると銃規制強化こそが正義だと思うけれど、アメリカでは自由を重んじる人が一定数いて、一筋縄ではいかないみたいだ。彼らが支持しているのは、いわゆるリバタリアニズムという政治思想。政府によるあらゆる規制を嫌っている。当然「小さな政府」を推進しており、究極的には夜警国家を目指しているようだ。僕も自由を愛する人間ではあるけれども、それ以上に社会正義を重んじているので、この人たちと分かり合うことはできない。私利私欲よりも公共善のほうが大切だと思っているため、バカ高い税金も嫌々ながら納めている。富の再分配こそが民主主義の本質であり、僕からするとリバタリアンはただの我儘にしか見えない。助け合いこそが社会的動物たる人間の務めだと思っている。

社会で高い地位を得ている女性はフェミニズムに関心がない。これは個人的に大発見だった。というのも、エリザベスはフェミニストの親玉を前にして、「フェミニズムには興味がない」と言い放っているのだ。付言すれば日本の場合、大多数の女性は専業主婦になりたがっている。この層もフェミニズムに興味がないだろう。フェミニストになるのは、上昇志向の強さに反して社会で報われていない人。フェミニズムとはそういう人たちを慰撫するために存在している。自らの不満をおたくに向けて発散するのは迷惑極まりないけれど、その攻撃的な態度にも理由があることが分かって少しは許せるようになった。

本作は構成がなかなか良くて、聴聞会から始まってそこに至るまでの出来事を辿っている。最初にエリザベスが窮地に陥っているところを描いているわけだ。どういう経緯で彼女が失敗し、またここからどうやって逆転するのか。観客の興味を持続させる構成はさすがハリウッドという感じだった。

ジョン・リー・ハンコック『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』(2016/米)

★★★

1954年。セールスマンのレイ・クロック(マイケル・キートン)は、ミルクシェイク用のミキサーを売り歩いていた。そんな彼が繁盛しているハンバーガー店を訪れる。店の名前はマクドナルド。ディック(ニック・オファーマン)とマック(ジョン・キャロル・リンチ)の兄弟が経営している店で、店内は著しく効率化されていた。レイは兄弟とフランチャイズの契約を結び、事業拡大の仕事をする。

マクドナルドを世界最大のチェーン店に仕立てたレイ・クロックの伝記映画。これはビジネスマン必見の映画で、ビジネス書を10冊読むよりも、本作を1本観たほうが得られるものは多いと思う。ローカルな店舗を全国にまで拡大するにはどうすればいいのか。精神論と同時に、具体的なノウハウも描かれている。

ビジネスマンのレイは、何よりもマクドナルドという店の名前に目をつけた。これはアメリカ受けする名前だと思ったのだ。クロックでも駄目。なんちゃらバーガーでも駄目。マクドナルドが一番しっくりくる。ビジネスにおいて名前(商号)が重要というのはまったくその通りで、日本でもライブドアが顕著な例だろう。この会社は当初、無料のインターネットサービスプロバイダだった。ところが、ブロードバンド化の波に乗れず、2002年に経営が破綻する。そして、そこへあの有名な堀江貴文が登場。当時オン・ザ・エッヂを経営していた堀江が事業を買い取り、自社の名前をライブドアへと変更している。おそらく堀江はライブドアという名前が欲しかったのだろう。その後、色々な不祥事があって、ライブドアは韓国の会社になったけれど、名前だけは現在も残っている。名前、そうビジネスにおいては名前こそが重要なのだ。自分で名前が思い浮かばないときは、優れた名前の会社を乗っ取ればいい。ビジネスとはかくも非情なものだということを本作は教えてくれる。

フランチャイズの本質が不動産業にあるところは、日本でもコンビニで有名だろう。地方の地主が甘い言葉に騙され、コンビニ本部に土地を分捕られるのはよくある話である。また、日本のテレビ局や新聞社も、本業より不動産業のほうが収益の柱になっている。本作のレイはある人物の助言によって不動産業に舵を切り、結果的にはマクドナルドを乗っ取ることに成功した。マクドナルドは名実ともにレイの会社になったのだ。大金を手にするカラクリは僕みたいな凡人には見通せないので、本作を観て多少は勉強になった。

この映画は創業者のマクドナルド兄弟からしたら理不尽な話ではあるけれど、しかし人生ってそんなものだよねえって思うわけだ。本作はレイを主人公にしているから、マクドナルド兄弟の、特に弟の保守性が失敗の原因ではないかと思ってしまう。もっと柔軟に対処していれば、違った結末になっていたのではないか。ともあれ、本作みたいに羊が狼に食べられる話って、僕にとっても他人事ではないから大変だ。ビジネスって生き馬の目を抜く世界だから残酷である。

ジョージ・シドニー『アニーよ銃をとれ』(1950/米)

★★★

シンシナティバッファロー・ビル(ルイス・カルハーン)の一座がやってきた。現地で兄弟と野性的な生活をしているアニー・オークリー(ベティ・ハットン)は、一座の看板スターであるフランク・バトラー(ハワード・キール)に一目惚れする。ところが、アニーは女だてらにフランクよりも射撃が上手かった。フランクはそれが気に入らないでいる。

現代人からすると量産型ミュージカルにしか見えないけれど、まあ、クラシック映画とは時代の雰囲気を味わうための映画なので、これはこれでありかもしれない。冒頭に祝祭的なミュージカルシーンを配置するのは、この手の映画のお約束だろう。歌手にスポットを当てながらも、背景でたくさんの人たちがわちゃわちゃしている。このオープニングには引き込まれるものがあった。

アニー・オークリーは当初、土人みたいな風体をしていて、序盤は見ていて違和感があった。前近代的人物というか、汚いボロをまとった野生児みたいな女なのである。彼女は文字もろくに読めないし、見るからに不衛生だ。特技といえば射撃だけである。アニーは白人とインディアンの中間的なポジションにいて、どうやら気ままに暮らしている様子。本作ではそんな自由人が旅の一座に加わって活躍するわけで、これは異能の人が適材適所によって力を発揮する物語だと言える。

僕は全国を巡業するショービジネスに憧れがあって、特に大昔のサーカスには幻想を抱いている。僕が生まれた頃には既にそういうビジネスは滅んでいた。今だとせいぜいミュージシャンの全国ツアーか、大相撲の巡業くらいしかないだろう。僕はもっと胡散臭い見世物を生で見たいわけで、だからこそこういう映画に惹かれるのだと思う。

フランクにとっては射撃の腕前こそがアイデンティティだったのだけど、それをよりによって女に負かされ、プライドを大いに傷つけられてしまう。銃=男根というお決まりの図式に従うならば、この状況は男性性の危機なのだろう。アニーとフランクは恋愛関係になるものの、この傷ついた男性性が終盤まで障害になっている。ここからどうやって大団円を迎えるのかと興味津々でいたら、やってることがちょっといただけなかった。というのも、アニーがフランクの男性性を復権させることで、両者は結ばれるのである。当時は男尊女卑の時代だったからこれで良かったのだろうけど、さすがに現代人が見るとちょっときつい。良くも悪くもクラシック映画だなと思う。

本作はミュージカル映画であると同時に西部劇でもあるけれど、白人とインディアンが当たり前のように共生しているところは見ていて微笑ましかった。

アラン・ロブ=グリエ『エデン、その後』(1970/仏=チェコスロバキア=チュニジア)

エデン、その後(字幕版)

エデン、その後(字幕版)

  • カトリーヌ・ジュールダン
Amazon

★★★

ヴァイオレット(カトリーヌ・ジュールダン)たち大学生がカフェ・エデンに集まり、ロシアンルーレットや薬物摂取ごっこなど、退廃的な遊びに興じている。そこへ謎の男(ピエール・ジメール)が登場。ヴァイオレットに白い粉を舐めさせる。彼女は幻覚に襲われるのだった。その後、ヴァイオレットは工場に迷い込み、運河で男の死体を発見する。

非常に演劇的な映画で、一歩間違えたら学生の自主制作映画になりかねないのだけど、そこは撮影がしっかりしていてプロの映画に仕上がっていた。冒頭から断片的に単語を羅列していくところからしてただものではない。そして、俳優は俳優で人形のような佇まいをしており、彼らが無機質な演技をしつつ、突拍子もない絵面を見せている。エデンで学生たちがやっていることは、どこか「死」を弄んでいるような感じだけど、チュニジアに舞台が移ってからは明確に殺人が描かれていて、「生」と「死」の狭間にある演劇的・遊戯的な現実を表現している。もちろん、例によって本作は虚実が入り混じっていて、どれが現実でどれが幻想なのか判然としない。合間合間に幻影的なイメージが挿入され、観るものを撹乱している。エデンから工場を経てチュニジアに至る冒険は、それ自体が壮大な演劇のようであり、本作は一筋縄ではいかない映画だった。

ロブ=グリエ監督の映画は本作からカラー映像になったけれど、やはりと言うべきか、色を明確にした構図になっている。チュニジアが舞台に選ばれたのは、そこらにある建物が白いからだろう。それはキャンパスのようであり、白い背景に赤や青といった原色が塗りたくられている(女性の裸体も白地に映えている)。途中から絵画(タブロー)がマクガフィンになっているのもおそらく偶然ではない。カラーになることで絵画のような色使いを意識したと思われる。

血の赤こそがリアルなのだ、と言いたげなくらい本作には血が出てくる。でも、よく見るとその血はペンキみたいな色をしていて、あまりリアルではない。作り物であることは明白である。エデンでの倦怠から端を発したリアルも、結局は演劇に回収されるということだろうか。エデンから始まってエデンに還る構成が、その説を補強しているように思える。ともあれ、この監督の映画は前衛的でありながらも、一作一作やってることが違っていて面白い。