海外文学読書録

書評と感想

ロクサーヌ・ゲイ『むずかしい女たち』(2017)

★★★★★

短編集。「ついていく」、「水、その重みのすべて」、「カインの徴」、「むずかしい女たち」、「フロリダ」、「ラ・ネグラ・ブランカ」、「赤ん坊の腕」、「ノース・カントリー」、「どんなふうに」、「ガラスの心臓に捧げるレクイエム」、「父の死に際して」、「壊し尽くして」、「悪い神父」、「オープン・マリッジ」、「よしよし」、「チャームポイント」、「骨密度」、「私はナイフ」、「暗闇の犠牲」、「気高いこと」、「ほかの神々」の21編。

死は彼女たちをより興味深い存在にする。死は彼女たちをより美しくする。永遠の眠りのなかで人目にさらされる彼女たちの身体にはなにかがある――目は大きく見開かれ、唇は青く、四肢は硬直し、肌は冷たい。ついに彼女たちは安らぎを得た、そうも言えるかもしれない。(p.60)

著者は『バッド・フェミニスト』【Amazon】の人。本書はレイモンド・カーヴァー風の短編集でとても良かった。全体としては、傷を負った女性たちを題材にした短編が目立つ。しかし、そんなにフェミ臭がしないので、フェミニズムにアレルギーがある人にもお勧めできる。また、『掃除婦のための手引き書』に感銘を受けた人は本書も気に入るだろう。両者は同じ流れのなかにある。

以下、各短編について。

「ついていく」。姉のキャロライナが、別居中の夫ダリルに会いに行くという。「わたし」と姉は同居しており、2人は子供時代に拉致・監禁されてレイプされた過去があった。2人はいわゆる性的虐待サバイバーなのだけど、それがトラウマになっているようには見えない。その後の人生をつつがなく送っているように見える。けれども、姉に夫がいるにもかかわらず、姉妹が同居して常に行動を共にしている辺り、その影響があるようにも思える。ともあれ、民事訴訟をして加害者から賠償金を得たとき、「これがわたしの人生の価値なんだ」と思うのは何かせつない。

「水、その重みのすべて」。ビアンカの生活に水が侵食していて、それが身辺の様々な物体に影響を与えている。水というのは基本的に生命のメタファーとして使われることが多いけれど、個人的には東日本大震災津波に代表される通り、死のメタファーとして受け取ることが多い。特に泳ぎが得意でない僕にとっては切実だ。プールはともかくとして、海に行くときはいつも水難の陰が脳裏をよぎる。水は命の源であると同時に、その命を奪うものでもある。何て複雑な物質だろう。

「カインの徴」。「わたし」の夫ケイレブには、一卵性双生児の兄ジェイコブがいる。2人は時々入れ替わって「わたし」とベッドを共にしていた。兄弟は同様のことをジェイコブの恋人に対しても行っている。なかなか面白い双子小説だった。双子って遺伝子が同じだから、どちらの子供を妊娠しても本質的には変わらないような気がする。そうでもないかな?

「むずかしい女たち」。女について断片的に語っている。あるときは「ふしだらな女たち」で、あるときは「不感症の女たち」、そしてあるときは「頭のおかしい女たち」だ。このように多面的にアプローチしつつ、全編詩的な文章で書き上げているところが印象的だった。小説で人間を書こうとすると、多かれ少なかれキャラクターになってしまう。短編だったらなおさらだろう。それをどうやって有耶無耶にするかのヒントが本作にあると思う。

「フロリダ」。フロリダの特定地域に住む人たちの肖像。金持ちもいれば貧乏人もいる。ふくよかな人もいればマッチョな人もいる。人種だったり体格だったり、あるいは経済格差だったり、随所にアメリカを感じさせるところが良かった。普段あまり意識しないけれど、人間にはそれぞれ私生活や性生活がある。そういう私的な領域に踏み込むのが、フィクションの特権なのかもしれない。

「ラ・ネグラ・ブランカ」。ストリッパーのサラは白人の父と黒人の母から生まれたせいか、そそるような尻をしていた。一方、資産家のウィリアムは黒人女が好物であり、サラに惹かれている。このブログで何度も書いてるけど、黒人女性は二重の意味で抑圧されていると思う。ウィリアムの性癖は明らかに相手が劣っているからこそのものだし、終盤のレイプもそういう舐めた思惑が透けて見える。相手が純粋な白人女だったらレイプしなかったのではないか。加えて、サラがセックスワーカーであるところもウィリアムの行動に影響している。

「赤ん坊の腕」。「私」が彼氏からファイバーグラス製の赤ん坊の腕をプレゼントされる。「私」にはテイトという友達がおり、彼女はファイト・クラブで試合をしていた。「私」と彼氏とテイトで3Pをする。女性が男性を道具と認識してセックスしている。こういうのってフィクションではなかなか珍しいと思う。だいたいは男性が女性を道具にしてるような。でも、それは僕の読んでいる本が偏ってるだけで、たとえばハーレクインでは女性優位が当たり前なのかもしれない。そして、生身の赤ん坊はいらない。ファイバーグラス製で十分というメッセージ。

「ノース・カントリー」。アフリカからアメリカに渡ってきた研究者の「私」が、マグナスというイケメンと恋に落ちる。「私」はインド出身の水文学者に言い寄られており……。世界の中心はやはりアメリカなのだなあ、と。アフリカも日本も辺境だし、今やヨーロッパも中心の地位を失った。優れた人材はみなアメリカを目指す。本作では水文学者が三枚目みたいなポジションになっていて笑った。恋愛市場から締め出された男は滑稽だ。

「どんなふうに」。ハンナはたくさんいる家族のなかで唯一働いていた。彼女にはアンナという双子の妹がいる。2人はどんなふうにして逃げるのか? 『人形の家』【Amazon】のバリエーションといったところだろうか。明らかに家族が重荷になっていて、まっとうな人生を送るべくそこから逃げ出す。しかも、逃げるのハンナ一人だけではない。複数人だ。重荷になってる家族が無職でDV気質なのが現代らしい。ところで、ハンナが妹の復讐のために男にフェラチオするふりをして陰茎に噛み付くエピソード、男性が読んだらぎょっとするのではなかろうか。僕は未だに『ガープの世界』【Amazon】がトラウマになっている。

「ガラスの心臓に捧げるレクイエム」。石投げ師は、ガラスの家でガラスの家族と暮らしている。彼はガラスの妻を愛していたが……。これは美しい幻想小説だった。全編ガラス張りの恋愛も去ることながら、最後に生身の愛人が出てきてもの寂しいオチがついている。男が愛人を持つ心理。こういうのって現実のメタファーとしても読めるよね。

「父の死に際して」。「私」が小さかった頃、父は何人もの女と浮気をしていた。父は毎週土曜日、テレサという浮気相手の元に「私」を連れて行く。やがて父が交通事故で死ぬと、葬式にテレサが現れた。こういうのを読むと、一夫一婦制は果たして自然な制度なのか疑問をおぼえる。とりあえず揉め事を避けるため、やむを得ず選択された制度なのではないか。でも、これに代わる適切な制度が思い浮かばないんだよなあ。

「壊し尽くして」。「わたし」は夫の他に恋人ベンがいて、よく彼と一緒にいる。そんななか、2人のところに赤ん坊が持ち込まれた。その子はベンの子だという。このベンというのがDVをするクズ男なのだけど、むしろ「わたし」は殴られるのを望んでいた。「わたし」にとって恋人のDVは自傷行為だった。夫が殴ってくれないから、殴ってくれる男を探してくっついたのだ。何でそんなことをしているのかというと、これがまた壮絶な理由があっていたたまれない気持ちになる。

「悪い神父」。ミッキー神父がレベッカという少女と関係を持つ。神父は幼い頃から聖書を聞かされて育ち、レベッカは彼が近づいてはならないとされている女だった。背徳と敬虔の狭間にいる神父のポジションが面白い。彼にとって聖書の言葉は呪いなのだろう。それは胃や喉を蝕む「酸」にたとえられている。日本に住んでいると、仏教のお坊さんは生臭が多いと感じるので、ミッキー神父みたいなのは当たり前だと思える。

「オープン・マリッジ」。夫が「私」に結婚したまま他の人と付き合ってみないか提案してくる。彼はオープン・マリッジに興味があった。2頁の掌編。こういう会話がヨーグルトの消費期限をめぐる激論から出てくるのが面白い。夫は「私」と出会うまでDTだったから、より多くの女性と経験したいのだろう。

「よしよし」。「私」が哀れな男を家に招待してもてなす。それには意外な理由が……。2頁の掌編。こういう心理はよく分かるけど、母親が娘に言ったら駄目だわ。教育上よろしくない。でも、女同士の関係って多かれ少なかれあてはまるかも。美人同士はつるまないし。

「チャームポイント」。ミリーは太っているし不細工だけど、フェラチオが得意なのでよく男と寝ていた。彼女はジャックという男といい感じになる。不思議なことに、太っていても女は若ければモテるんだよね。捨てる神あれば拾う神ありというか、世の中にはデブ専の男が多いのだと思う。若さ、そう若さこそが大切なのだ。

「骨密度」。「私」には夫のデヴィッドがいるが、他に愛人のベネットがいた。デヴィットは繊細で、ベネットは乱暴な性格をしている。デヴィッドは以前よりも男らしさがなくなっており、「私」は以前より女らしさがなくなっていた。人間は歳をとっていくうちにすり減っていくんだと思う。あと、女って愛人には夫にないものを求めるよね。この場合は男らしさだろう。ある種の女が乱暴な男に惹かれる理由が分かった。ところで、本作は書き出しが最高である。

「私はナイフ」。夫は猟師で、「私」はナイフ。それぞれ役割分担して狩りをする。さらに、「私」は妊娠した妹を前にして……。この著者は壊れた人間の描き方が上手いと思う。ナイフという比喩を用いて、彼女の異常さを炙り出している。そして、壊れるにはそれなりの理由があった。たぶん、最初から壊れてる人間なんていないのだろうな。

「暗闇の犠牲」。「私」がまだ小さかった頃、夫の父親が太陽にエア・マシーンを飛ばした。それ以来、昼は暗く、夜は明るいままだった。夫の家族は迫害されることに。やがて「私」と夫が結婚、子供が産まれる。本作はSFなのかファンタジーなのか幻想小説なのかよく分からないけど、現実世界を舞台にした小説ではないことは確か。日本には『太陽を盗んだ男』【Amazon】という映画があって、あれに出てきた「太陽」プルトニウムのことだった。本作の場合は果たして?

「気高いこと」。南部による二度目の連邦離脱によって、新南北戦争が始まった。アナの夫パーカーには偉大な父である将軍がおり……。やっぱ男は父親を乗り越えないと駄目だな。しょぼしょぼの僕でさえ、そういう通過儀礼は済ませたし。最後、バラバラになったアメリカがバラバラになった家族と重なるけど、アナとパーカーは一緒なので救いがある。あと、プライドが高いと人生損するなと思った。自分がそうなので。

「ほかの神々」。「私」の最初の彼氏はスティーヴン・ウィンスロップだった。「私」は彼と仲間たちにレイプされており……。レイプされた人間の心理がよく分からなくて、僕だったら徹底的に法廷で戦うけれど、世の女性たちはそうではないみたい。心を折られてしまうのだろうか。母親もなかったことにしようとしてるし。レイプとは体を犯すだけでなく、心も犯す、そして人間関係も犯すのかもしれない。

ジュゼッペ・トルナトーレ『鑑定士と顔のない依頼人』(2013/伊)

★★

美術鑑定士のヴァージル・オールドマン(ジェフリー・ラッシュ)は、自身が主催するオークションで、ビリー(ドナルド・サザーランド)と共謀して女性の肖像画を格安で落札していた。ヴァージルは秘密の部屋の全面に女性の肖像画を飾っている。ある日、彼のもとにクレア・イベットソン(シルヴィア・フークス)から鑑定依頼の電話がかかってくる。紆余曲折あってそれを引き受けるも、クレアはヴァージルと顔を合わせようとしなかった。

ヴァージルによると、いかなる贋作の中にも必ず本物が潜むという。では、偽りの愛にも本物が潜むのか? それが本作の問いかけだろう。人間の感情は芸術品みたいに偽造できるけれど、そこには思いもよらない真実の愛が含まれている……。ちょっとロマンティックすぎてついていけないですね。DTの妄想じゃないかと思えてくる。実際、ヴァージルはクレアに会うまでDTを貫いていた。彼は白髪のお爺ちゃんになるまでDTだったのだ。偽造された愛人関係って、たとえば娼婦とのセックスに愛はあるのか? みたいな話と似ている。確かにまあ、あると言えばあるし、ないと言えばないのだろう。こればかりはケース・バイ・ケースのような気がする。ともあれ、ヴァージルはクレアに翻弄されていて、いい歳したお爺ちゃんが女にはまると悲惨だと思った。

ヴァージルが部屋の壁全面に女性の肖像画を飾っているのが圧倒的で、二次元の女に囲まれている様子はアニメおたくに通じるものがある。すなわち、生身の女の代わりに二次元の女を愛しているというわけ。そして、絵画と萌え絵は本質的に同じものなのだ。どちらも鑑賞の対象であり、場合によってはズリネタにもなっている。壁全面に萌え絵が飾ってあると変態に見えるけれど、肖像画の場合は含蓄のあるフェティシズムに見えるのだから不思議だ。用途は同じなのに、低俗と高尚とに線引きされてしまう。それもこれも既存の価値観に染まっているからこその視点なので、我々はもっと疑いの念を持つべきだと思う。

本作の優れているところは映像で、絵画や彫像、オートマタなど、美術品が「絵」になっている。建物や調度品も味わい深く、全体的に重厚なところがいい。邦画でこういう映像はまずお目にかかれないので、これは洋画を観る醍醐味と言えよう。「騙し」のストーリーにはいまいち魅力を感じなかったけれど*1、映像は抜群だったので目の保養にはなった。週末にちょっくら美術館に行って展示品を見てくるかな、という気になる。

*1:エロゲのバッドエンドルートを見てるみたいで……。

サイモン・カーティス『黄金のアデーレ 名画の帰還』(2015/米=英)

★★★

1998年のロサンゼルス。ナチの迫害から逃れてオーストリアから亡命してきたマリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)が、弁護士のランディ・シェーンベルクライアン・レイノルズ)にある依頼をする。それはウィーンの美術館に所蔵されている「黄金のアデーレ」の返還交渉だった。元々その絵はアルトマン家のものであり、ナチに強奪されたものだという。それと平行して、若き日のマリア(タチアナ・マスラニー)の物語が語られる。

実話を元にしてるらしい。映像はなかなか見栄えがするし、物語もいい感じではある。けれども、演出が典型的なハリウッド映画だったのが残念だった。

回想シーンはフィルターをかけて色調を変えているのだけど、これがモノトーン風の味わいがあって心地よかった。現代のくっきりした映像とは明確に区別される形で表現されている。だから時系列が切り替わると一目瞭然だ。観ていて混乱することがない。おまけに過去も現代もオーストリアのレトロな建築物が目を引いて、ヨーロッパって遠くから眺めるぶんにはいい場所だと思う。治安が悪いから絶対に住みたいとは思わないけれど、観光では是非とも行きたい地域だ。

若き日のマリアがナチの憲兵から逃げるシーンは、劇的すぎてどこか作り物めいていた。また、現代のマリアが心変わりしてランディと衝突するシーンも、劇的すぎて作り物めいている。どちらも話を盛っているのだろう。こういう余計なサービス精神が、典型的なハリウッド映画という感じで好きになれない。せっかく抑えた映像表現をしているのに、これでは台無しではないか。本作は映像と演出が釣り合ってないように感じた。

中盤ではアメリカ国内で外国(オーストリア)相手に裁判をする。マリアから奪った絵を返還しろという裁判だ。国際裁判ではなく、あくまで国内の裁判である。だから、どれだけ効力があるのかは分からない。ともあれ、僕はこれを見て最近の日韓関係を連想した。すなわち、徴用工訴訟問題である。あれも韓国国内の裁判によって、日本の企業に賠償命令が下されたのだった。なるほど、こういう国境を跨いだいざこざ、歴史をめぐるいざこざって他人事ではなかったのだ。本作のリメイクが韓国で作られてもおかしくないと思う。

本作のピークは終盤で、思い出の場所に立ったマリアが、回想の世界にそのまま入り込む。これがとても素晴らしかった。過去と現在が溶け合うその絵面は幻想的で美しい。映画を観る醍醐味が味わえる。

ブログについてのアンケート2019

基本的にこのブログは自分のための備忘録として書いてるので、あまり読者のニーズを考えてない。だから文学だったり映画だったりアニメだったり、ジャンルを定めずふらふらしている。ブログとしての軸が定まってない。ただ、それでも少数ながら閲覧してくれる人はいるようである。

そこでちょっと気になった。このブログにアクセスしてる人は何を求めているのだろう? 文学か、映画か、それともアニメか。幸いはてなブログでアンケートを取る方法を知ったので、以下にフォームを設置してみた。

この結果によって今後の運営方針がどうなるかは分からない。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。ただ、好奇心が満たされることは確かなので、回答して頂けるとありがたい。

 

あなたはどの記事を目当てにこのブログにアクセスしてますか?
文学
映画・ドラマ
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なお、アンケートを設置するにあたっては、以下の記事を参考にした。

www.cocoblog.work

オリヴァー・ストーン『スノーデン』(2016/米=仏=独)

スノーデン(字幕版)

スノーデン(字幕版)

  • ジョセフ・ゴードン=レヴィット
Amazon

★★★

2013年6月。NSAアメリカ国家安全保障局)の職員エドワード・スノーデンジョセフ・ゴードン=レヴィット)が、香港でガーディアン紙の記者と接触NSAが世界中のメールやSNS、電話などの通信を傍受し、監視していることを告発する。彼はハワイに恋人のリンゼイ・ミルズ(シャイリーン・ウッドリー)を残していた。そこまでの経緯が語られていく。

監視社会はディストピア小説における定番の設定だけど、それが現実の世界で行われていたのには呆れるほかない。アメリカ政府は世界中の通信を監視することでイスラム過激派のテロに対抗し、さらには中国やロシア、イランといった真の脅威との戦いも見据えている。のみならず、日本やドイツ、オーストリアといった友好国の通信も抜け目なく監視していた。アメリカの諜報関係者は、「第三次世界大戦を防いだのは自分たちだ」と自負していて、まさに『裏切りのサーカス』で描かれたMI6と同じである。仮に第三次世界大戦が起きるとしたら、アメリカは間違いなく当事者になるだろう。その備えが必要なのは理解できるにしても、世界中の通信を監視するのはパラノイア的で薄気味悪い。

本作の原作になったルーク・ハーディング『スノーデンファイル』【Amazon】には、次のような記述がある。

NSAGCHQと協力して、海底の光ファイバーケーブルに盗聴器を仕掛けていた。おかげで英米両国は、全世界の通信内容の多くを読み取ることができた。秘密裁判所は通信事業者にデータの引き渡しを命令していた。さらに、グーグル、マイクロソフトフェイスブック、そしてスティーブ・ジョブズのアップルまで、シリコンバレーのほぼすべての有力企業がNSAと関係していた、とスノーデンは言う。NSAは、これらテクノロジー大手のサーバーに直接アクセスできることを認めている。(p.16)

やはりアメリカのIT企業は信用ならないと思う。ただ、そうは分かっていても、彼の製品を使わざるを得ないのが悲しいところだ。Googleなしのインターネットなんて想像できないし、WindowsiPhoneAndroid)なしの生活ももはやできない(Facebookはいらない)。インフラを支配することがいかに重要か身にしみて分かった。

インフラと言えば、スノーデンは横田基地に勤務していたとき、日本のインフラにマルウェアを仕込んだという。もし日本が同盟国でなくなった日には、送電網や病院、ダムなどが壊滅的な状況になるそうだ。こういうのを聞くと、アメリカと覇権を争っている中国は命知らずだと思う。これが日本だったらワンパンで殺されている。

映画として面白かったのは、機密情報の入ったマイクロSDカードをルービックキューブのなかに隠して外に持ち出すシーン。ここはなかなか機知に富んでいてアメリカらしいと思った。また、スノーデンが上司と巨大なスクリーン越しに通話するシーンも鮮烈だ。上司がスノーデンを追求するときその顔がどアップになって、「これはやばい。何でもお見通しだぞ」と思える。こういうのは映像作品ならではの表現で好ましい。