海外文学読書録

書評と感想

ルネ・クレール『そして誰もいなくなった』(1945/米)

★★★

オーエン氏に招待され、孤島の屋敷に8人の男女がやってくる。判事クインカイン(バリー・フィッツジェラルド)、医師アームストロング(ウォルター・ヒューストン)、謎の男ロンバート(ルイス・ハワード)、秘書クレイソーン(ジューン・デュプレ)、探偵ブロア(ローランド・ヤング)、ロシア王子スターロフ(ミーシャ・アウア)、ブレント夫人(ジュディス・アンダーソン)。さらに、屋敷にはロジャーズ夫妻(リチャード・ヘイドン&クィーニー・レナード)が先乗りしていた。オーエン氏が不在のなか、レコードで10人の罪が読み上げられる。そして、1人ずつ死んでいくのだった。1人死ぬごとに、食卓に10体飾られているインディアン人形がなくなっていく。

原作はアガサ・クリスティ『十人の小さなインディアン』【Amazon】。『そして誰もいなくなった』【Amazon】の戯曲版である。

大抵のミステリは登場人物のなかに必ず犯人がいるし、そうしないとオーディエンスも納得しない。小説にしても映画にしても、我々は作り手のフェアネスを信じている。クローズド・サークルの利点は、殺人者と被害者が同じ空間にいることを強制され、逃げ場がないところだろう。外部から刑事がやってきて事件を引っ掻き回すこともない。登場人物が何者かに次々と殺されていくわけで、存分にサスペンスが味わえる。

しかし、そういう意味では、本作は淡白だったかもしれない。何人か殺されてもみんなわりと冷静だし、殺しに付きまとうスリルもない。わずか100分で9人も始末しないといけないから、これは仕方がないのだろう。犯人がやってることもいささか無理があって、これだけ人がいるなか、誰にも目撃されず1人ずつこっそり殺していくのは、よほどの強運がない限り不可能だ。それに僕が登場人物だったら、相互監視を徹底して帰りの船が来るのをじっと待つだろう。そういうことをされたら犯人もお手上げだったのではないか。童謡に合わせて殺し方を変えるところも、本来だったら不気味な雰囲気があるのだろうけど、映画だとその不可能性が先に立って首を傾げてしまう。特に小説版のラスト(首吊り自殺)は運任せにすぎると思ったし。その点、戯曲版を元にした本作は、ラストの不自然さを解消していた。

やはり完全犯罪は芸術なのだと思う。ブラウン神父もこう言っていた。「犯人は創造的な芸術家だが、探偵は批評家にすぎぬのさ」と*1。小説版では見事にその芸術を完成させたけれど、映画版ではそれが崩れてしまった。2人の男女が機知を働かせた。この結末が良かったのかどうか、僕にはちょっと分からない。

映画として面白かったのは、覗きが連鎖するシーン。鍵穴から部屋を覗く男を別の男がさらに鍵穴から覗く。そして、その覗いている男を今度はまた別の男が廊下から覗いている。この遊び心が楽しかった。

*1:『ブラウン神父の童心』【Amazon】所収「青い十字架」。

エドマンド・ホワイト『螺旋』(1985)

★★★★★

17歳の少年ガブリエルは、部族の少女アンジェリカに惚れて結婚するも、そのことが父親にバレて監禁される。叔父のマテオに救出されたガブリエルは、都に出て社交界に顔を出す。そこでキレ者の老婆マティルダの愛人になるのだった。その頃、マテオは女優のエドウィージュと肉体関係になるが、ガブリエルも彼女に惚れる。やがてアンジェリカが都に出てマテオの庇護を受けるのだった。

ところがマテオは、マティルダのとある夜会でひとりの戯曲家と知り合った。サスペンスという肉とじゃがいもの周りに、前年の「知的命題」の飾りをはさみこんで供することで観客をおだてる、よく工夫されたメロドラマでひと財産築いた男だった。最新作は、「女主人公が第一幕ではひとことも口をきかず、第二幕では裸になり、第三幕で羽根によって窒息させられる、そういう芝居を書いてくれ」との、興行師の挑戦に応えて書かれていた。この原点が戯曲家の頭の中でなぜか、狂気こそ一段上をいく叡智の一形態であるという、最近はやりのお題目と結びつき――その結果が『神女』。(p.178)

紙幅のほとんどが社交界の様子に費やされているのだけど、これが滅法面白くてびっくりした。言葉の意味を巧みにすり替えたり、本音を抑えて無難な発言をしたり、会話が非常にテクニカルである。どの発言も話者のねじくれた自意識が反映されているのだ。それもこれも地の文による皮肉な人間観察があるからこそで、テクストから透けて見える作者の嘲笑的な態度が素晴らしい。この叙述はナボコフに似てるかもしれない。ナボコフが読んだら気に入りそうだし、ナボコフフォロワーが読んでも同様だろう。こういう作風の小説は、日本の某作家も書いている(名前は挙げない)。社交にしろ乱交にしろ、人間の行いはすべて愚行であり、それをさめた叙述で厭味ったらしく綴っていく。思えば、プルースト社交界に巣食う人たちをスノッブと切り捨てて滑稽に描いていたけれど、それとはまたアプローチの仕方が異なっていて、もっと差異化されたような感じなのだ。その意味ではナボコフっぽいし、文学における中二病とも言える。この叙述がとても見事だ。

熟練した遊び人のマテオ、洗練された貴婦人のマティルダ。両者が揃いも揃って恋に溺れてしまうのが滑稽だった。どちらも根性が曲がっていて、さめた態度で物事を見るタイプなのに、若いツバメたちの虜になってしまう。こういうのを見ると、恋とは理屈ではないのだと思う。いくら知的で高い教養を持っていても、本能には逆らえない。どんなに聡明でも目が曇ってしまう。個人的にショックだったのは、愛人を失ったマティルダが動揺して大胆な行動に出るところで、恋とはこのような傑物でさえも制御不能にしてしまうのかと驚嘆した。彼女がラストで引き起こすカタストロフもまた印象深い。

物語のキーパーソンになるエドウィージュは、過去十年間に何百人もの男と寝た生粋の売女で、性病は大丈夫なのかと心配になった。彼女はマテオから「優美」と評価されているのだけど、それはあくまで造り物として優美なのであって、女性の「美」はそこにこそ市場価値があるのだという。これって今どきの芸能人やモデルみたいだと思った。この種の人たちも決して美人ではないのだけど、造り物としては優美で、だからこそテレビに出ている。マネキンとして価値がある。「美」についての本質が分かったような気がした。

それにしても、こういう小説を絶賛すると、自分が鼻持ちならない貴族趣味のように思えてちょっと鼻白んでしまう。しかし、面白いことは確かなので、特にナボコフ好きにはお勧めしておく。

雷鈞『黄』(2015)

★★

中国の孤児院で育った阿大(ベンジャミン)は、同い年の茉莉(ジャスミン)と共にドイツ人夫婦に引き取られて成人になっていた。阿大は生まれつき盲目ではあるものの、聴覚・嗅覚・触覚などが発達しており、推理力にも長けている。ある日、中国で6歳の少年の目がくり抜かれる事件が発生した。阿大はインターポール捜査員の温幼蝶と共に現場へ行く。

古く東方に龍がいた

その名前を中国という

古く東方の人々は

彼らはすべて龍の末裔(p.131)

ドルリー・レーンの系譜に連なる障害者探偵もの。現代のミステリらしく、語り手が盲目であることを利用したサプライズが用意されている。また、冒頭で叙述トリックが含まれていることを宣言している。

目をくり抜いた事件はフーダニットになっているけれど、もっとも気になるのがその動機で、犯人はなぜ少年を殺害せずに目だけくり抜いたのか? と興味をそそるようになっている。木の枝でくり抜いたから角膜目的ではない。サイコパスによる愉快犯だったら読者が納得しない。この部分の阿大の推理には一定の意外性があって、デビュー作ならこれでもありかなと思えた。安直ではあるものの、一応過去の事件との辻褄を合わせている。机上の空論としてなら許せないこともない。

しかし、本作の肝はそんなところにはなく、話がアイデンティティ問題にすり替わるところにある。この部分は語り手が盲目であることを利用した仕掛けがあって、もちろん伏線も張ってある。タイトルからして大きな意味を持っていたのだ。ただ、語り手がこの歳になるまで真相に気づかなかったのには無理があって、いくら盲人でも察するだろうとは思った。だって明らかに浮いてるから。周囲が放っておかないだろう。それに、彼らのやっていたことが探偵ごっこにすぎなかったというのも拍子抜けで、もっと真剣にフーダニットをやれよと思った。本作が王道か邪道かと言われれば後者だろう。ロジックよりもサプライズを重視するところは最近のミステリらしいと言える。

過去の章と現在の章が交互に展開する構成はよくできていて、前章の最後と次章の冒頭が対応関係にあるところ、すなわち、バトンを渡すようにリレーしていくところは巧妙だった。手放しで褒められるのはここくらい。読んでいる最中は、この構成にトリックが仕込まれているのだろうと疑っていた。

ところで、今年に入って新刊ミステリを何冊か読んだけれど、ほとんどがハズレだったので、もう現代ミステリは好みに合わなくなったのかもしれない。かつてのミステリファンとしてはちょっと寂しくなった。これからはクラシックミステリだけ読んでいこう……。

フリオ・コルタサル『すべての火は火』(1966)

すべての火は火 (叢書アンデスの風)

すべての火は火 (叢書アンデスの風)

 

★★★★

短編集。「南部高速道路」、「病人たちの健康」、「合流」、「コーラ看護婦」、「正午の島」、「ジョン・ハウエルへの指示」、「すべての火は火」、「もう一つの空」の8編。

あとになって、つまり通りや列車の中、あるいは野原を横切っている時にゆっくり考えれば、すべてがばかばかしいものに思えたことだろう。しかし、劇場に入るというのは、不条理と手を結び、その不条理が効果的でしかも華やかな形で演じられるのを目にすることにほかならない。(p.149)

実験的・遊戯的な要素の強い短編集だった。著者は小説を言葉遊びとして捉え、虚実を裏返すようなことを確信犯的に書いているような気がする。

以下、各短編について。

「南部高速道路」。日曜日の高速道路。片側六車線、計十二車線の道路が、パリへ向かう車で埋め尽くされていた。渋滞は一向に解消される気配がない。運転手たちは車から降りて近くの人と交流する。渋滞がエスカレートしてあり得ない非日常に突入するところが面白かった。昼は暑いし、夜は寒い。水も食糧も不足している。しかし、渋滞は一向に解消されない。この状況が何日も続いている。遂には買い出しをするための遠征隊まで組まれた。文明の利器であるはずの高速道路で、ちょっとしたサバイバル状況が生まれている。

 「病人たちの健康」。ブエノスアイレス。闘病生活を送る母の容態を悪化させないため、家族は息子アレハンドロの死を隠していた。母はアレハンドロがブラジルで働いていると思い込んでいる。家族はアレハンドロの手紙を捏造して母と文通する。みんなで母を騙すところがスリリングで、アレハンドロが戻ってこれないのはブラジルの政情が悪化したからだとか、現地で身柄を拘束されたからだとか、これでもかと嘘をつきまくっている。また、途中で叔母が病死するのだけど、そのこともひた隠しにするのだった。本作はラストが捻っていて、虚実がひっくり返るオチには目を疑った。

「合流」。反乱軍に参加している「わたし」は、仲間のルイスの安否が気になっている。情報によると、彼は戦死したようだった。他にも仲間たちが屍を晒している。訳者解説を読んで驚いた。本作はチェ・ゲバラを主人公にしてるらしい。読んでいてまったく気づかなかった。「わたし」はルイスをモーツァルトになぞらえていて、弦楽四重奏曲「狩り」【Amazon】が作品を貫いている。

「コーラ看護婦」。15歳のパブロ少年が入院している。それを心配する母親。少年を担当する看護婦はコーラという女性だった。これはあらすじに意味がなくて、複数の語りが混線する様子を味わう短編。それぞれがシームレスに繋がっていて、誰が語っているのかを常に意識する必要がある。実験的手法が面白かった。 

「正午の島」。スチュアードのマリーニは、エーゲ海のキーロス島に行きたがっていた。彼は飛行機で上空を通り過ぎるたびにその島を気にしている。念願叶ってようやく島に旅行することになったが……。例によって虚実がひっくり返るような小説で、どこでどう現実が捻れたのか判断がつかない。ふと思ったけど、これって「信頼できない語り手」を三人称でやってるのではなかろうか。まるでメビウスの輪みたいだった。

ジョン・ハウエルへの指示」。劇場に入ったライスが、スタッフの指示でハウエル役を演じることになった。彼は上演中、相方のエバに「お願い、助けて、殺されるの」と囁かれる。それは台本にないセリフだった。まもなくエバは舞台上で殺される。観客を舞台にあげて即興で役者 をさせるのっていかにも前衛劇らしいけれど、それが不条理世界への入口になっているところが著者らしい。作中人物を翻弄するプラクティカルジョークみたいだった。小説を言葉遊びとして捉えて何でもありなことをやっている。

「すべての火は火」。古代ローマ円形闘技場と現代のパリ。2つの物語がもつれ合いながら、最後は両者とも炎に包まれる。「コーラ看護婦」の発展的進化形といった感じだろうか。ただ、こちらは時空が離れているところが大きく違う。2つの物語が炎に収斂されるラストがお見事。

「もう一つの空」。株の仲買人をしている「僕」が、パリのヴィヴィアンヌ回廊でジョジアーヌと出会う。そこでは絞殺魔ローランが世間を騒がしていた。ヨーロッパのアイデンティティ第二次世界大戦の前と後で全然違っていて、ローランの事件は前時代の追憶みたいな位置づけではなかろうか。たとえるなら、ロンドンで言うところの切り裂きジャック。ローランがへっぽこだったのが皮肉だ。

ハリエット・ドウア『イバーラの石』(1978,1981,1983,1984)

★★★

メキシコ。住民わずか千人の村イバーラに、北アメリカから中年の夫婦が移住してくる。名前はリチャードとサラ。リチャードは祖父が手放した銅山を再興し、現地人を雇って採掘事業をする。その一方、リチャードは血液の病気で余命6年と宣告されていた。

あの日ハビエル神父が祈っていたのはキリスト教徒のためか、それとも異教徒のためか、神を冒瀆する者のためかそれとも聖者のためかは誰にもわからなかった。神父があの時、いや、あれ以前にも、自分たちの目的のために、何千マイルもの距離を突き進む、神の存在を知らぬ人間のために祈ったかどうかは知る由もない。(p.84)

現地の人たちをピックアップしたエピソード集。訳者あとがきによると、複数の短編をつなぎ合わせて構成したらしい。同じラテンアメリカということで、『エバ・ルーナのお話』を連想したけれど、あそこまで神がかったストーリーテリングがなくて物足りなかった。静かな叙情は感じられるものの、どれもインパクトに欠ける。これはおそらく読んだ順番のせいだろう。先に本作を読んでいたらもっと高く評価していたと思う。つまり、それだけイサベル・アジェンデがすごすぎた。

リチャードとサラは外部から来た人間のため、当然のことながら現地の人たちとはギャップがある。宗教だったり習俗だったりが決定的に違う。その違いが本作の面白ポイントだと言えよう。イバーラの住民は敬虔なカトリック教徒だったり、20世紀なのに呪い師を信じていたりしていて、前時代的な生活ぶりが微笑ましくなる。といっても、これはあくまで僕が文明国の人間だからそう思うわけで、発展途上国の人が読んだらまた違った感想になるだろう。自分の置かれた環境によって、異国情緒を感じるポイントが違う。本作を読んで読書の多様性を実感した。

以下、印象に残ったエピソード。

第五章「遺産」は、フワンという若者が、祖父の遺言で障害者の従兄弟と暮らす話。クライマックスにおけるぎりぎりの判断には、生きていくうえでの峻厳な態度が感じられる。これで重荷から解放されたみたいな。昨今の介護殺人に通じるものがありそう。

第七章「赤いタクシー」は、チュイという男が親友2人を誘ってタクシー業を始めようとする話。事業を起こすにはまず車がいる。車を買うには頭金が足りない。どうやってそれを稼ぐのかと思ったら、皮肉な展開で手に入った。これは何とも言えない後味である。

第十章「九月十五日の夜」は、バシリオ・ガルシアが10歳下の弟ドミンゴを殺す話。弟が大学に進学できるよう学費を稼いだのに、まさかあんなことになるとは。男の人生を狂わすのはやはり女ということだろうか。そして、生き残ったバシリオは、この先も長い人生が待っているのだった。この章はラストが味わい深い。

第十六章「月の医者」は、リチャードの容態が悪化したので、名医と噂の「月の医者」を呼ぶ話。その医者は1年経っても松葉杖が取れなかった患者を、もう一度足を折ってつなぎ直すことで完治させたのだった。これは神医に違いないと思いきや、あっと驚くユーモラスなオチがついてくる。メキシコならこういう医者がいても不思議ではないと思っていたので、見事にしてやられた。