海外文学読書録

書評と感想

岩井俊二『花とアリス殺人事件』(2015/日)

★★★

中学3年生のアリス(蒼井優)が転校先の学校で知人に再会、殺人事件の噂を聞かされる。それはユダが4人のユダに殺されたというものだった。一方、アリスの隣の家は〈花屋敷〉と呼ばれていて、そこには同級生の花(鈴木杏)がひきこもっている。花はユダ伝説の真相を知っているようだった。アリスは花に会いに行く。

花とアリス』【Amazon】の前日譚。

観ていて実写が思い浮かぶようなアニメで、映像面ではロトスコープの長所が見事に表れていた。背景は色味が通常のアニメと違った銀塩写真みたいで新鮮だったし、キャラクターは絵が平板だけど動きはすこぶる自然だったし。そして、声優の演技が明らかにアニメのものではないところが良かった。これは本職の声優ではなく、実写の俳優を起用しているからだろう。芸術系のアニメ映画によくある配役だけど、これが抜群の異化効果を発揮していて、アニメなのにアニメを観ているような気がしなかった。とはいえ、この辺は人によって好みが別れるかもしれない。アニメ原理主義者だったら反発するだろうし、僕みたいな半端者だったら気に入るだろう。人の好みはなかなか難しい。

ストーリーはリアリズムからやや浮いていて、現実の中学生はこんな言動しないだろうとツッコミながら観ていた。実写志向の演技・映像と甚だしくギャップがある。これがもっとアニメに寄せていたら違和感がなかったはずで、話に説得力を持たせるのは大変だと思った。本作は実写とアニメのいいとこ取りのようでいて、ある面ではそれが仇になっている。アリスと花が出会うまでは違和感が先に立ってきつかった。

もうひとつストーリーで特徴的なのは、本作が大小さまざまな勘違いで成り立っているところだ。あるお爺ちゃんを湯田の父と勘違いして接触するアリス。花がトラックに巻き込まれたと勘違いして追いかけるアリス。そして、一番大きな勘違いが湯田の生死が不明だと2人が思い込んでいるところで、これはオーディエンスと明確な温度差がある。観ているほうは「死んでるわけがない」と予想しているというか、常識的に考えてちゃんと分かっているわけだ。この辺の茶番を許容できるかが本作を評価するポイントで、個人的には「なし」だなと思った。

ただ、アリスと花が初対面から色々あって友人になるラストは素晴らしい。友情とは時間を共有するからこそ成り立つもので、後味はとても良かった。

山田尚子『映画 聲の形』(2016/日)

★★

高校3年生の石田将也(入野自由)が、身辺整理をして飛び降り自殺をしようとするも断念する。石田は小学6年生のとき、転校してきた聴覚障害者の西宮硝子(早見沙織)をいじめていたのだった。後にそれがクラスで問題になって今度は彼がいじめられることに。時は過ぎ、高校生になった石田は西宮と再会、彼女と友達になる。

心を閉ざしていた石田が西宮と関わることで救われる。そういう感動的な回復のストーリーだけど、西宮の内面がブラックボックスと化していて終始違和感が付きまとった。

まず西宮は小学生のとき、複数のクラスメートからきついいじめを受けている。その反応が不自然で理解に苦しむのだ。まるでいじめなんてないかのように友好的に振る舞っていて、それがある人物の逆鱗に触れてさらなるいじめを誘発している。その後、高校生になってからは、かつて自分をいじめていた人物と嫌がらずに交流していて、「さすがにそれはないだろ」と思った。一般的に、いじめの被害者は加害者を許すことはない。青年になっても、中年になっても、そして老年になっても許すことはない。僕が観測した例だと、ある作家は還暦も間近なのに、Twitterで学生時代のいじめ体験を持ち出しては呪詛の言葉を撒き散らしていた。たぶん、いじめ被害者は死んでも加害者のことを許さないのではないか。と、そういうリアルな事情を知っているので、まだ高校生に過ぎない西宮が加害者たちと交流しているのが引っ掛かった。

それだけではない。高校生になって石田と和解した西宮は自殺を図る。これも唐突すぎて理解不能なのだ。石田と仲良く花火大会に行って、そこを抜け出してマンションから飛び降りようとする。なぜこのタイミングで? どうやら小学生のときから自殺願望があったらしいことが後付けで説明される。しかし、それにしたって筋は通らないだろう。後の展開を考えると、石田が身代わりになるために作られた人工的なイベントにしか思えない。西宮を助けようとした石田が代わりに落ちて瀕死になる。復活した石田はまるで禊が済んだかのように救われる。個人的には、人の生き死にを感動のダシにするのは受け入れ難いのだった。

日本ではかつて障害者を聖人君子に仕立てた感動ポルノが流行ったけど、本作はその亜流と捉えられてもやむを得ないのではないか。ただし、障害者を見て感動するパターンではなく、障害者をいじめていた人間を見て感動するパターン。僕はこれから改心します、命を懸けるので許してください。これはこれで新しいのかもしれない。

シェリ・S・テッパー『女の国の門』(1988)

★★★

〈大変動〉から300年後の荒廃した世界。女は城壁に囲まれた〈女の国〉で政治を司り、男は外にある〈戦士の国〉で軍事を担当していた。〈女の国〉の少女スタヴィアが〈戦士の国〉の少年シャーノンと恋に落ちるも、そこには〈女の国〉の秘密を探ろうという陰謀が絡んでいて……。

スタヴィアは向きをかえて板張りの階段をのぼり、スザンナとよばれた女性が立っているところにあがっていった。開いたドアのかげに、もうひとりの幼い少女がかくれていた。「スザンナ」スタヴィアは声をひそめた。「わたしの名前はスタヴィアよ」

「こっちがチャスティティで、なかにいるのがフェイスよ。八歳なの」

「赤ちゃんの名前は?」

「赤ちゃんには名前がないのよ」チャスティティがささいやいた。「不経済だから」(p.401)

男ってどうしようもないと思った。この読後感は『フェミニズムの帝国』【Amazon】を読んだときのものに近いかもしれない。告白すると、僕にも戦闘本能なり闘争本能なりはしっかり備わっていて、年に2~3回は他人に突っかかっているし、また理屈では男女平等が大切だと思いながらも、本能的にはフェミニストを嫌っている。僕みたいな比較的リベラルな草食系男子でさえこうなので、世の標準的な肉食系男子はもっと酷いのだろう。いや、酷いって言い方も酷いけど。僕は多感な時期を「男らしさ」が尊重されるような社会で過ごしてきたので、なかなかそういう価値観が抜けきれない。前に知人から「お前は女に甘い」と言われたけれど、これなんかは内にあるマチズモの発露で、男に厳しいことの裏返しに過ぎないのである。要は、「男らしさ」を無意識に重んじるあまり、男に対する要求水準が高くなっているということ。思えば、これのせいで色々な人を傷つけてきた。男ってどうしようもない……というより、どうしようもないのは僕だったよ。

男性中心の社会に問題があるのは、本作を含めた様々な小説で雄弁に語られるけれど、では女性中心の社会だったら上手くいくのかといったらこれもまた疑問だ。女性にも攻撃的な人間はいくらでもいるし、権力のバランスが偏ってしまったら、弱い者を虐待する可能性は多分にある。たとえば、呂后西太后みたいに。結局のところ、女性だったら良い社会を作るというのは幻想で、男性中心社会の歪んだ鏡像になることは目に見えている。男性が中心でも駄目だし、女性が中心でも駄目。だからたとえ不完全であっても両者が平等な立場で協力するしかない。何だか理想主義的な結論になってしまったけど、理想を掲げてそれに向かって一歩一歩進むのは悪くないことだろう。僕も内にあるマチズモを抑えて頑張ろうと思う。

ところで、本作で描かれる〈女の国〉では女性の出産がコントロールされている。この部分、もし障害児が生まれたらどうするのか謎だった。たぶん、著者は想定してなかったのではないか。これについても思考実験の余地は大いにあるので、また別の機会に考えを述べたい。

アリス・ウォーカー『カラーパープル』(1982)

★★★

20歳のセリーは、妹の身代わりとしてミスター**の元に嫁がさせられる。2人の間に愛はなく、セリーはミスター**の子供たちを世話するために結婚させられたのだった。セリーは夫から暴力を受けて彼に従う一方、義理の息子夫婦は妻のソフィアのほうが主導権を握っている。あるとき、そのソフィアが市長に暴行して逮捕されてしまう。

セリー、ほんとうのことを教えてくれ、おまえはおれが男だから好きじゃないのか。

あたし、鼻をかんだ。ズボンをぬいだら、男はみんなカエルのように見えるんだよ、あたしには。どんなふうにキスしようと、あたしに関するかぎり、男はみんなカエルにすぎない。

そうか、と彼は言った。(p.309)

ピュリッツァー賞、全米図書賞受賞作。

黒人女性は二重の意味でマイノリティである。ひとつは女性であること。それゆえに男性から酷い仕打ちを受けている。そして、もうひとつは黒人であること。それゆえに白人から酷い仕打ちを受けている。つまり、女性差別と人種差別のダブルパンチを食らっているという次第だ。

家庭では父が娘に、さらには夫が妻に暴力を振るうのが当たり前になっている。この状況は読んでいてきつかった。もし自分が同じ境遇にいたら絶望していただろう。反抗しようにも体格差があってどうにもならないから。生きる希望なんてこれっぽっちもない。本作では女性がやたらと子供を産んでいるが、これは彼女たちの社会的地位と関係があるのだろう。女性の地位が高いと少子化になり、低いと多産になる。周知の通り、日本を含む先進国では少子化が進んで問題になっている。これは女性の地位が向上した結果、すなわち女性が「産む機械」でなくなった結果なので何とも複雑だ。このことが示唆しているのは、人類の繁栄が女性の犠牲の上に成り立っていたという事実だ。村田沙耶香の小説『殺人出産』【Amazon】では、男性も人工子宮をつけて妊娠できるようになっていた。そういうシステムが我々には必要なのかもしれない。

アメリカの黒人はルーツがアフリカにある。当時のアフリカ人は同胞を奴隷商人に売り渡していた。端的に言えば裏切り者である。そういう視点から黒人問題を見たことがなかったので、本作の知見は新鮮だった。ご先祖様はこいつらの先祖に売り飛ばされた。我々は奴隷の子孫だ……。しかし、だからと言ってアフリカ人を憎んでいるわけではない。そこは時の流れとともに憎悪が薄れ、見知らぬ故郷への愛情のほうが強くなっている。アフリカの黒人とアメリカの黒人は、同じ黒人であっても、さらには同じルーツであっても、現在の立場はまったく違う。これから黒人文学を読むときはそのことを意識しようと思った。

キリスト教をどう捉えるべきだろう? クリスチャンの宣教は、西欧諸国の植民地政策と密接に結びついていた。それだけではなく、かつては黒人奴隷を白人に従わせるため、キリスト教の教えが悪用されていた。肉体的のみならず、精神的にも黒人を奴隷にしていたのだ。だから無宗教の現代人は、信心深い黒人を見ると複雑な心境になる。未だに奴隷化のための教義に縛られているのか、と。この問題についてはまだ考えがまとまってないので、とりあえず保留にしておく。

女性差別、人種差別、宗教問題。世界にはまだまだ問題が山積みだ。僕が生きているうちに少しでも改善されればいいと願っている。

レティシア・コロンバニ『三つ編み』(2017)

三つ編み

三つ編み

 

★★★★

(1) インド。不可触民のスミタは、素手で糞便を汲み取る仕事をしていた。彼女は不条理の連鎖を断ち切るべく、娘を学校に行かせようとする。(2) イタリア。ジュリアの家族は毛髪加工会社を経営しており、彼女は高校を中退してそこの作業場で働いていた。男よりも本が好きなジュリアだったが、父親の事故によって状況が変わる。(3) カナダ。シングルマザーの弁護士サラは、仕事が忙しくて子供たちと一緒に過ごせていなかった。優秀な彼女は組織のトップに上り詰めようとしていたが……。

ふいにスミタは血の池を思い浮かべる。バラモン階級を擁護するため、ヴィシュヌ神クシャトリヤの血で満たした五つの池。学者も神官も、人間のいちばん上の階級にあるのがバラモンだ。ラリータなどいじめてどうするのか? 娘は無害で、彼らの知識も地位も脅かしはしないのに、なぜ、こんなふうにわざわざ恥をかかせるのか? なぜ、ほかの子供と同じように読み書きを教えてくれないのか?(p.70)

インドでは主人公が女性差別に苦しみ、イタリアでは別の主人公が望まない結婚に直面、カナダではまた別の主人公が病気によって転落の危機にある。このように女性に降りかかる不条理をそれぞれのレイヤーで語りつつ、それら3つをラストで上手く繋ぎ合わせていて、素朴でありながらもなかなか技巧的な小説だった。訳者あとがきにある通り、本作では髪の毛が女性性の象徴として使われているけれども、その使い方がまた絶妙なのだ。インドではスミタが髪の毛を捧げることで、社会によって傷つけられた女性性を回復させる。一方、カナダではサラが髪の毛を受け取ることで、闘病によって損なわれた女性性を回復させる。そして、イタリアのジュリアはそれを仲介するポジションだ。一見すると何の関係もなさそうな物語を髪の毛で結びつける。3つの束を寄せ集めて見事な三つ編みを編んでみせる。その手腕にいたく感動してしまった。

3人のなかで一番酷い境遇にあるのが、インドのスミタだろう。不可触民の彼女は、素手で糞便を汲み取る仕事を強いられている。社会がカースト制度に支配されているため、職業選択の自由はない。仮にそこから抜け出そうとしたら、周囲の男たちに強姦されてしまう。こんな地域が未だに存在するなんて呆れるほかないのだけど、読んでいてすごいと思ったのは、スミタがそんな環境に屈服していないところだった。奴隷みたいな扱いを受けているにもかかわらず、奴隷根性に染まっていない。むしろ、そこから抜け出そうとリスクを負って行動している。だいたい不幸な人って、自分の境遇を嘆いてばかりで何もしないって人が多いから、こういう不屈の意志をもった人間には好感が持てる。「天は自ら助くる者を助く」という諺もあるくらいだし、やはり行動することが重要なのだ。生きるというのは能動的な行為であって、僕もその辺を意識して生活しようと思った。

カナダで弁護士をしているサラは、ガラスの天井を打ち破った人物である。その彼女が男の嫉妬に晒されるわけだけど、個人的に思いを馳せたのは日本のある事件だった。すなわち、2018年に起きた医学部不正入試問題である。入試の際、東京医科大学が女子に対して一律減点をしていたことが明るみになり、社会を大いに騒がせた。日本におけるガラスの天井を象徴した事件と言えるだろう。女医は外科をやりたがらないから仕方なく切り捨てた、そんな理屈で不正が行われていたのだ。この事件については様々な見解があるようだけど、やはり裏で成績を操作していたのは明らかに悪いことなので、外科医が欲しいのだったら何か別の解決策が必要だと思う。

というわけで、本作を読んで様々なガラスの天井について考えさせられた。