海外文学読書録

書評と感想

シェリ・S・テッパー『女の国の門』(1988)

★★★

〈大変動〉から300年後の荒廃した世界。女は城壁に囲まれた〈女の国〉で政治を司り、男は外にある〈戦士の国〉で軍事を担当していた。〈女の国〉の少女スタヴィアが〈戦士の国〉の少年シャーノンと恋に落ちるも、そこには〈女の国〉の秘密を探ろうという陰謀が絡んでいて……。

スタヴィアは向きをかえて板張りの階段をのぼり、スザンナとよばれた女性が立っているところにあがっていった。開いたドアのかげに、もうひとりの幼い少女がかくれていた。「スザンナ」スタヴィアは声をひそめた。「わたしの名前はスタヴィアよ」

「こっちがチャスティティで、なかにいるのがフェイスよ。八歳なの」

「赤ちゃんの名前は?」

「赤ちゃんには名前がないのよ」チャスティティがささいやいた。「不経済だから」(p.401)

男ってどうしようもないと思った。この読後感は『フェミニズムの帝国』【Amazon】を読んだときのものに近いかもしれない。告白すると、僕にも戦闘本能なり闘争本能なりはしっかり備わっていて、年に2~3回は他人に突っかかっているし、また理屈では男女平等が大切だと思いながらも、本能的にはフェミニストを嫌っている。僕みたいな比較的リベラルな草食系男子でさえこうなので、世の標準的な肉食系男子はもっと酷いのだろう。いや、酷いって言い方も酷いけど。僕は多感な時期を「男らしさ」が尊重されるような社会で過ごしてきたので、なかなかそういう価値観が抜けきれない。前に知人から「お前は女に甘い」と言われたけれど、これなんかは内にあるマチズモの発露で、男に厳しいことの裏返しに過ぎないのである。要は、「男らしさ」を無意識に重んじるあまり、男に対する要求水準が高くなっているということ。思えば、これのせいで色々な人を傷つけてきた。男ってどうしようもない……というより、どうしようもないのは僕だったよ。

男性中心の社会に問題があるのは、本作を含めた様々な小説で雄弁に語られるけれど、では女性中心の社会だったら上手くいくのかといったらこれもまた疑問だ。女性にも攻撃的な人間はいくらでもいるし、権力のバランスが偏ってしまったら、弱い者を虐待する可能性は多分にある。たとえば、呂后西太后みたいに。結局のところ、女性だったら良い社会を作るというのは幻想で、男性中心社会の歪んだ鏡像になることは目に見えている。男性が中心でも駄目だし、女性が中心でも駄目。だからたとえ不完全であっても両者が平等な立場で協力するしかない。何だか理想主義的な結論になってしまったけど、理想を掲げてそれに向かって一歩一歩進むのは悪くないことだろう。僕も内にあるマチズモを抑えて頑張ろうと思う。

ところで、本作で描かれる〈女の国〉では女性の出産がコントロールされている。この部分、もし障害児が生まれたらどうするのか謎だった。たぶん、著者は想定してなかったのではないか。これについても思考実験の余地は大いにあるので、また別の機会に考えを述べたい。

アリス・ウォーカー『カラーパープル』(1982)

★★★

20歳のセリーは、妹の身代わりとしてミスター**の元に嫁がさせられる。2人の間に愛はなく、セリーはミスター**の子供たちを世話するために結婚させられたのだった。セリーは夫から暴力を受けて彼に従う一方、義理の息子夫婦は妻のソフィアのほうが主導権を握っている。あるとき、そのソフィアが市長に暴行して逮捕されてしまう。

セリー、ほんとうのことを教えてくれ、おまえはおれが男だから好きじゃないのか。

あたし、鼻をかんだ。ズボンをぬいだら、男はみんなカエルのように見えるんだよ、あたしには。どんなふうにキスしようと、あたしに関するかぎり、男はみんなカエルにすぎない。

そうか、と彼は言った。(p.309)

ピュリッツァー賞、全米図書賞受賞作。

黒人女性は二重の意味でマイノリティである。ひとつは女性であること。それゆえに男性から酷い仕打ちを受けている。そして、もうひとつは黒人であること。それゆえに白人から酷い仕打ちを受けている。つまり、女性差別と人種差別のダブルパンチを食らっているという次第だ。

家庭では父が娘に、さらには夫が妻に暴力を振るうのが当たり前になっている。この状況は読んでいてきつかった。もし自分が同じ境遇にいたら絶望していただろう。反抗しようにも体格差があってどうにもならないから。生きる希望なんてこれっぽっちもない。本作では女性がやたらと子供を産んでいるが、これは彼女たちの社会的地位と関係があるのだろう。女性の地位が高いと少子化になり、低いと多産になる。周知の通り、日本を含む先進国では少子化が進んで問題になっている。これは女性の地位が向上した結果、すなわち女性が「産む機械」でなくなった結果なので何とも複雑だ。このことが示唆しているのは、人類の繁栄が女性の犠牲の上に成り立っていたという事実だ。村田沙耶香の小説『殺人出産』【Amazon】では、男性も人工子宮をつけて妊娠できるようになっていた。そういうシステムが我々には必要なのかもしれない。

アメリカの黒人はルーツがアフリカにある。当時のアフリカ人は同胞を奴隷商人に売り渡していた。端的に言えば裏切り者である。そういう視点から黒人問題を見たことがなかったので、本作の知見は新鮮だった。ご先祖様はこいつらの先祖に売り飛ばされた。我々は奴隷の子孫だ……。しかし、だからと言ってアフリカ人を憎んでいるわけではない。そこは時の流れとともに憎悪が薄れ、見知らぬ故郷への愛情のほうが強くなっている。アフリカの黒人とアメリカの黒人は、同じ黒人であっても、さらには同じルーツであっても、現在の立場はまったく違う。これから黒人文学を読むときはそのことを意識しようと思った。

キリスト教をどう捉えるべきだろう? クリスチャンの宣教は、西欧諸国の植民地政策と密接に結びついていた。それだけではなく、かつては黒人奴隷を白人に従わせるため、キリスト教の教えが悪用されていた。肉体的のみならず、精神的にも黒人を奴隷にしていたのだ。だから無宗教の現代人は、信心深い黒人を見ると複雑な心境になる。未だに奴隷化のための教義に縛られているのか、と。この問題についてはまだ考えがまとまってないので、とりあえず保留にしておく。

女性差別、人種差別、宗教問題。世界にはまだまだ問題が山積みだ。僕が生きているうちに少しでも改善されればいいと願っている。

レティシア・コロンバニ『三つ編み』(2017)

三つ編み

三つ編み

 

★★★★

(1) インド。不可触民のスミタは、素手で糞便を汲み取る仕事をしていた。彼女は不条理の連鎖を断ち切るべく、娘を学校に行かせようとする。(2) イタリア。ジュリアの家族は毛髪加工会社を経営しており、彼女は高校を中退してそこの作業場で働いていた。男よりも本が好きなジュリアだったが、父親の事故によって状況が変わる。(3) カナダ。シングルマザーの弁護士サラは、仕事が忙しくて子供たちと一緒に過ごせていなかった。優秀な彼女は組織のトップに上り詰めようとしていたが……。

ふいにスミタは血の池を思い浮かべる。バラモン階級を擁護するため、ヴィシュヌ神クシャトリヤの血で満たした五つの池。学者も神官も、人間のいちばん上の階級にあるのがバラモンだ。ラリータなどいじめてどうするのか? 娘は無害で、彼らの知識も地位も脅かしはしないのに、なぜ、こんなふうにわざわざ恥をかかせるのか? なぜ、ほかの子供と同じように読み書きを教えてくれないのか?(p.70)

インドでは主人公が女性差別に苦しみ、イタリアでは別の主人公が望まない結婚に直面、カナダではまた別の主人公が病気によって転落の危機にある。このように女性に降りかかる不条理をそれぞれのレイヤーで語りつつ、それら3つをラストで上手く繋ぎ合わせていて、素朴でありながらもなかなか技巧的な小説だった。訳者あとがきにある通り、本作では髪の毛が女性性の象徴として使われているけれども、その使い方がまた絶妙なのだ。インドではスミタが髪の毛を捧げることで、社会によって傷つけられた女性性を回復させる。一方、カナダではサラが髪の毛を受け取ることで、闘病によって損なわれた女性性を回復させる。そして、イタリアのジュリアはそれを仲介するポジションだ。一見すると何の関係もなさそうな物語を髪の毛で結びつける。3つの束を寄せ集めて見事な三つ編みを編んでみせる。その手腕にいたく感動してしまった。

3人のなかで一番酷い境遇にあるのが、インドのスミタだろう。不可触民の彼女は、素手で糞便を汲み取る仕事を強いられている。社会がカースト制度に支配されているため、職業選択の自由はない。仮にそこから抜け出そうとしたら、周囲の男たちに強姦されてしまう。こんな地域が未だに存在するなんて呆れるほかないのだけど、読んでいてすごいと思ったのは、スミタがそんな環境に屈服していないところだった。奴隷みたいな扱いを受けているにもかかわらず、奴隷根性に染まっていない。むしろ、そこから抜け出そうとリスクを負って行動している。だいたい不幸な人って、自分の境遇を嘆いてばかりで何もしないって人が多いから、こういう不屈の意志をもった人間には好感が持てる。「天は自ら助くる者を助く」という諺もあるくらいだし、やはり行動することが重要なのだ。生きるというのは能動的な行為であって、僕もその辺を意識して生活しようと思った。

カナダで弁護士をしているサラは、ガラスの天井を打ち破った人物である。その彼女が男の嫉妬に晒されるわけだけど、個人的に思いを馳せたのは日本のある事件だった。すなわち、2018年に起きた医学部不正入試問題である。入試の際、東京医科大学が女子に対して一律減点をしていたことが明るみになり、社会を大いに騒がせた。日本におけるガラスの天井を象徴した事件と言えるだろう。女医は外科をやりたがらないから仕方なく切り捨てた、そんな理屈で不正が行われていたのだ。この事件については様々な見解があるようだけど、やはり裏で成績を操作していたのは明らかに悪いことなので、外科医が欲しいのだったら何か別の解決策が必要だと思う。

というわけで、本作を読んで様々なガラスの天井について考えさせられた。

山田尚子『リズと青い鳥』(2018/日)

リズと青い鳥

★★★★★

北宇治高校吹奏楽部。オーボエの鎧塚みぞれ(種﨑敦美)とフルートの傘木希美(東山奈央)は親友同士で、3年生の2人は高校最後のコンクールを控えていた。課題曲は『リズと青い鳥』という出会いと別れの物語をモチーフにしており、みぞれも希美も登場人物に自分たちを重ねている。青い鳥がリズの元から飛び立つことで、2人の関係に変化が訪れるのだった。

響け!ユーフォニアム』【Amazon】のスピンオフ。

依存から自立へ向かう青春の一コマを描いている。こういうのって現実にもけっこうあるのではなかろうか。観ていて自分の高校時代を思い出した。

僕はみぞれほど引っ込み思案でもなければ、希美ほど社交的でもなかったけれど、それでもある特定の友人に依存していて、それは傍から見ればホモセクシャル一歩手前だったかもしれない。恋愛感情はなかったとはっきり言えるものの、確実に好意は持っていたし、学校にいる間はよくその友人と馬鹿話をしていた。

主人公のみぞれは傍から見ればレズビアンだけど、おそらく希美に対して恋愛感情はなく、そこには見えない絆のような依存心が働いている。みぞれは当初、「わたしがリズなら青い鳥をずっと閉じ込めておく」と呟き、希美への屈折した思いを表明していた。リズのように青い鳥を解放したりはしない。一生仲のいい友達のまま手元に置いておく。そういう依存心を露わにしていた。けれども、実は吹奏楽においてはみぞれのほうが青い鳥であり、あることがきっかけで彼女自身が解放される。そして、一旦は人間関係の危機が訪れ、お互いが心を開くことでまた新たに関係が繋ぎ替えられる。結局のところ、我々の人生は時の流れとともに変化していくのだ。本作はその壊れもののような青春の一コマを丁寧に切り取っている。

映像作品の大きな特徴は間合いがあるところだろう。小説が自分の好きなペースで読めるのに対し、映画は作品の指定した時間の流れで観るしかない。会話ひとつとっても、そこにはテンポがあり、間合いがある。ゆっくり喋る。早く喋る。一呼吸おいて喋る。あるいは歩き方だって違う。みぞれは歩幅の小さい控えめな歩き方。希美は大股のダイナミックな歩き方。これで2人の性格の違いを表している。本作は様々な間合いを駆使して独特の作品世界を作り上げていて、普段小説ばかり読んでいる僕にはなかなか新鮮だった。こういう繊細な映画をもっと観たい。

それにしても、山田尚子は今や日本を代表するアニメ監督ではなかろうか。『けいおん!』【Amazon】の頃からすごかったけれど、まさかここまで化けるとは思わなかった。個人的な感覚としては細田守新海誠より上である。

エミール・ゾラ『獲物の分け前』(1871)

★★★

南仏から仕事を求めてパリにやってきたアリスティッド・サカールが、兄の紹介で道路管理官の仕事に就く。折しもパリではオスマン計画という都市改造計画が持ち上がっていた。妻と死別したサカールは、金持ちの訳あり令嬢ルネと再婚。不動産投機で一攫千金を狙う。一方、ルネはサカールの連れ子マクシムと不倫するのだった。

この親子はマビーユでは有名だった。どこか極上の夕食をとった後、腕を組んでやってきて、庭をひと回りしながら女たちに挨拶し、通りがかりに声をかけた。腕を組んだまま高笑いし、激しいやり取りになると必要に応じて助け合った。父親はこの点強力で、息子の色恋沙汰が有利にすすむように弁をふるった。時々、二人は腰を下ろして一群の女たちと飲んだ。それからテーブルを替え、また歩き出すのだった。真夜中まで、相変わらず仲良く腕を組んで、黄色い砂を敷いた小道に沿ってガス灯のどぎつい炎の下を、二人が女をくどいてまわるのが見られた。(p.168)

『居酒屋』がパリの庶民を生き生きと描いていたのに対し、本作は人物よりも空間のほうに力を入れていた。これは都市計画がプロットに絡んでくるからだろう。冒頭とラストに出てくるブローニュの森だったり、ルネのやたらと豪華な部屋だったり、パリの大規模な植物園だったり、自然主義文学らしくやたらと文字を尽くして描写している。21世紀の文学は描写を控えめにすることが作法としてあるので、正直、現代人にとってはちょっとくどい。でも、後世の人間が昔のことを知るには、そのくどい細部が重要なのだ。たとえば、上の引用のように当時は親子が腕を組んで行動していたなんて、文字に記されてなければ分からないわけだし。こういうのは時間が経てば経つほど貴重になってくる。だから現代の価値観を元にして切り捨てるわけにはいかない。

都市計画に便乗した不動産投機って、日本だと「ヤ」のつく自由業がもっぱら仕切っているようなイメージだけど、第二帝政期のフランスではその手の反社会的勢力っていなかったのだろうか。サカールみたいな一般人が平然と投機に参加できているのに驚いてしまった。暴力で脅してくる連中が出てこない。状況としては日本のバブル期に似ているけれど、ヤクザが絡んでこないところが決定的に違っていた。

ルネとマクシム、義理の親子が姦通するのも本作の重要な要素だ。この2人は7歳差で、初対面のときはルネが21歳、マクシムが14歳だった。サカールがコキュ(寝取られ男)になるところはフランス文学の伝統だけど、妻の相手が実の息子というのがちょっと捻っている。さらに、母と息子の近親相姦は『オイディプス王』【Amazon】を連想させるが、ルネとマクシムは血の繋がらない親子なので、この辺もちょっと捻っている。著者は意識して定型からずらしたのだろう。ともあれ、不動産投機に代表される物欲と対をなすのがこの肉欲で、本作は世俗の業をこれでもかと描いている。

姦通した女がラストで死ぬのは昔の小説のお約束だ。有名どころだと、『アンナ・カレーニナ』【Amazon】がそうだった。両者は冒頭とラストが対応した関係にあるのも共通している。つまり、本作がブローニュの森で始まってブローニュの森で終わるのに対し、『アンナ・カレーニナ』は汽車で始まって汽車で終わるという次第。常々思うが、19世紀の倫理観は女性に対して厳しすぎる。不倫女は死ななければならないということだから。現代人が読むと違和感をおぼえる。