海外文学読書録

書評と感想

トーマス・ベルンハルト『凍』(1963)

凍

 

★★★★

研修医の「ぼく」が勤務先の下級医から任務を託される。下級医の弟にして画家のシュトラウホを精確に観察するように、と。山岳地帯の寒村ヴェングに止宿した「ぼく」は、シュトラウホと接触して彼から色々な話を聞く。独特の思想を持ったシュトラウホは孤独な人生を歩んでいた。

彼は、その言葉によれば「眠るためでなく、恐ろしい静けさの中でひとり泣くため、自分だけを相手にむせび泣くために」自室に引き下がる前に言った「何たることだろう、何もかもが粉々にされ、何もかもが解体され、すべてのよりどころが壊れ、確乎たるものすべてが塵と化し、何ひとつ存在しなくなり、ほんとうにもはや何ひとつ存在しなくなったとは。分かるかね、宗教からも、非宗教からも、すべての神的存在に関する滑稽な長さに引き伸ばされた見解からも何ひとつ、まったく何ひとつ生まれず、いいかね、もはや信仰も無信仰も存在せず、つまずきの石である科学、今日の科学、数千年も前菜であり続けている科学ときたら、一切を放り出し、一切を褒め殺し、一切を大気中に吹き飛ばしたのだ。いまでは一切が空気でしかない……耳を澄ますのだ、一切がいまでは空気でしかない、あらゆる概念が空気だ、あらゆるよりどころが空気だ、一切がもはや空気でしかない……」。しばらくして彼は言った「凍てついた空気、一切はもはや凍てついた空気でしかないのだ」。(p.172)

この小説は語り手が画家を観察し、彼の発言を切り貼りして断片的に紹介していくのだけど、その画家というのがなかなか興味深いパーソナリティをしていて、起伏のない筋書きであるにもかかわらず、まったく飽きずに読むことができた。画家は人生の酸いも甘いも噛み分けた孤独な世捨て人みたいな感じで、とにかくやたらと箴言めいたセリフを吐く。「自然の原動力は犯罪的なものであって、自然をよりどころにするなどというのは言い逃れにすぎない。人間の手が触れると何もかもが言い逃れの種になってしまう」とか、「時間は、時間という問題に取り組むための手段ではない」とか、「私にはここの石くれのひとつひとつに人間の歴史が刻みこまれているのが感じられる」とか。僕はこの発言の数々を見て、元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシムを思い出した。オシムもまた気の利いた発言をたくさんしていたのだった。彼の半生を描いた『オシムの言葉』【Amazon】はけっこう売れていたと思う。

それはともかく、本作の画家はあらゆる面で恵まれておらず、枯れた人生観なり世界観なりを吐露している。これはこれである種の悟りを開いていると言えるほどだ。しかし、語り手はそんな画家を「無能な人間」と評価していて、親しくしているわりにはけっこう手厳しい。まあ、確かに客観的に見れば負け犬ではあるだろう。でも、僕はこういう報われない年長者がどうにも好きで、ちょっとだけなら友達付き合いをしてもいいかなって思ってしまう。その人生経験から得た叡智を授けて欲しい。持たざる者の諦念を思いっきりぶつけてほしい。期せずして本作はそんな僕の願望をシミュレートする形になっていて、偏屈な年長者との友達付き合いを疑似体験することができた。ネットでは「キモくて金のないオッサンキモカネ)」が話題になっているけれど、彼らもその先を極めれば画家みたいな賢者になれるのではないか。キモカネのみなさんは悟りを開いてぜひ迷える若者を導いてほしいと思う。

あとは旅館の女将や皮剥人といった地元民を通して、先行きの見えない山岳地帯の寒村を描出していたのが良かった。この時代はまだ戦争の記憶が残っていて、当時のエピソードがぽつぽつ語られている。住民たちは多くが戦争経験者。当時の村は犯罪者だらけだった。過去も現在も、そして未来にも希望がないところが何とも物寂しい。本作はその凍てついた寂寥感がたまらなく身にしみる。