海外文学読書録

書評と感想

オクテイヴィア・E・バトラー『キンドレッド―きずなの招喚』(1979)

★★★

1976年6月9日。26歳の誕生日を迎えた黒人女性のデイナは、引っ越したばかりの家から突然、河へワープする。そこで溺れていた白人の少年ルーファスを助け、また元の場所に戻る。デイナがワープした場所は奴隷制度下のアメリカ南部だった。さらに、ルーファスはデイナの高祖父であることが判明。以降、デイナはルーファスが死の恐怖を感じるたびに召喚される。

私は奴隷制に関する本を、小説やら、ノン・フィクションやら読みあさった。この問題にはわずかにしか関連していないものでも、家にあるものは全部読んだ。『風と共に去りぬ』まで、部分的にしろ読んだ。でもこの小説の、優しく情愛ゆたかな奴隷制度下の幸せな黒ん坊の図には我慢できなかった。(p.155)

20世紀のアメリカ人が南北戦争前のメリーランド州にタイムスリップし、そこで悲惨な生活を体験する。タイムスリップしたデイナは黒人だから、問答無用で黒ん坊と呼ばれ、基本的には奴隷のような扱いを受けるというわけ。社会全体が自分を敵視する状況は異常というほかなく、アメリカの奴隷制はなんて恐ろしいのだと思った。現代人からすれば、白人が黒人を支配する、その正当性がまったく分からないのだけど、それゆえに社会というものの不気味さが感じられる。社会が容認すれば何をやってもいい。黒人を家畜のように扱っても、ユダヤ人を強制収容所で虐殺しても。作中ではナチス南北戦争前の白人の類似性が示唆されていて、西洋の歴史が汚辱に塗れていることを再確認できる。本当にろくでもないよ、西洋人は。

デイナはルーファスを何度も助けたおかげで、彼から好意的に扱ってもらえるのだけど、しかしその好意は破壊的で、デイナに対してしばしば酷い仕打ちをする。ルーファスはデイナに側にいてほしい。そのためには嘘をついたり、過酷な労働を課したりすることも辞さない。好意的であるがゆえに自分のものにしたいと思っている。このルーファスの子供っぽさは、彼特有の性格というよりも、支配者であることに慣れすぎたのが原因であり、やはり人間にとって環境は重要なのだろう。他人を支配するのが当たり前の社会では、相手の気持ちを考えず、ただ支配することだけに心を砕く。結局のところ、我々の内面にある「倫理」や「道徳」は後からインストールされたものなのだ。思いやりなど本来的には備わっていないのである。教育がいかに重要であるかがよく分かる。

奴隷制度下のアメリカでは、教育のある黒人が嫌われている。その理由は、主人である白人自身に教育がないからであり、さらには奴隷に自由を吹き込むかもしれないから。奴隷は逃亡できないよう、文字を学ぶことが禁止されているのだ。彼らが本を読むなんて夢のまた夢である。現代でも読書をしない人がたくさんいるけれども、それって自由から最も遠ざかることではないか。たとえば、僕がなぜ読書をするのかと言えば、第一は好奇心を満たすため、第二は社会の奴隷にならないようにするためだ。社会が押し付けてくる「あるべき姿」から自由になるため、そのために書物を通して様々な価値観に触れている。社会というのは自発的な奴隷を作るために、とにかく大衆を洗脳したがるものだ。義務教育だったりテレビだったり、子供の頃から従順な家畜を育てようと躍起になっている。周りに左右されない自分だけの「軸」。それを身につけるには本を読むしかない。

追記。本書は長らく絶版だったが、2021年に河出書房新社によって復刊された。