海外文学読書録

書評と感想

ミュリエル・スパーク『ブロディ先生の青春』(1961)

★★★

1930年代のエディンバラマーシア・ブレイン女子学院の中等部教師ジーン・ブロディは、進歩的な教師として校長に目をつけられていた。彼女はお気に入りの生徒を集めて「ブロディ隊」を作り、一流中の一流(クレーム・ド・ラ・クレーム)にすべく目をかけている。そんななか、ブロディ先生と男性教師に恋話が持ち上がり……。

「ブロディ先生って、ヒューと性行為があったのかしら」

「あったら、赤ちゃんができたはずじゃない?」

「わからないわ」

「たぶん、してないと思うな。二人の愛は次元が違うのよ」

「ブロディ先生が言ってたっけ。彼が最後の休暇のとき、ひしと抱き合ったって」

「服は脱がなかったと思うけど。どう思う?」

「そうね。ちょっと想像できない」

「私だったら、性行為はごめんだな」

「私も。汚れのない人と結婚したいわ」

「タフィー、食べようよ」(p.25)

チップス先生さようなら』【Amazon】の女性版かと思っていたら、えらい皮肉な話で面食らってしまった。一見するとブロディ先生は、教師としては進歩的で、歳を重ねても青春を謳歌し、生徒たちからは好かれている、そんな理想的な人物に思える。けれども、読んでいくうちに歪みというか、闇というか、そういう陰の部分が見えてくる。実はファシストの支持者でムッソリーニを尊敬しているとか、進歩的と言われながらも子供たちに教える価値観が硬直しているとか。挙句の果てには、ブロディ隊の一人を好きな人の愛人に差し出そうとしていて、この女はサイコパスかと思った。よくよく考えてみれば、教師は社会で揉まれていないぶん、どこか普通の大人とズレたところがあり、人として尊敬できる部分は皆無だった。少なくとも自分にはそういう記憶があった。大人と子供の間には圧倒的な力関係があるわけで、そんな環境で仕事をしていると精神が歪んでくるのだろう。ブロディ先生の闇も、教師という職業の宿命のような気がする。

ブロディ先生は本当に進歩的だったのだろうか。彼女は「科学よりも偉大なのは芸術よ。芸術がいちばん。その次が科学」とのたまっていて、現代人からすると賛否両論ありそうである。また、「まず、芸術と宗教。次に哲学。最後が科学。この世の重要なものは、いま言った順番で存在してるの。価値の高い順よ」と言い切っていて、ここまで来るともうアウトのような気がする。少なくとも進歩的ではないだろう。本当に進歩的だったら学問に優劣なんてつけないはずだ。ブロディ先生は保守的な校長と対立しているけど、教育者としての価値観だったら、校長と大して変わらないと思う。

物語は時系列通りには進まず、未来の出来事だったり過去の出来事だったりが自在に挿入されている。たとえば、物語の早い段階で、ブロディ先生がブロディ隊の誰かに裏切られ、定年前に退職させられたことが明かされている。このように未来を予告する手法をフラッシュフォワードと呼ぶそうだけど、そういえばこれって昔の小説によく使われていた。その起源はどこにあるのだろう? おそらく神話にまで遡るのだろうが、この手法がどのように発展していったのか、その系譜を追いかけるのも楽しそうである。