海外文学読書録

書評と感想

オリヴィエ・ゲーズ『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』(2017)

★★★★

アウシュヴィッツ強制収容所に勤務し、囚人の選別や人体実験を行って「死の天使」と渾名されたヨーゼフ・メンゲレ。その彼が1949年に偽名を使ってアルゼンチンに逃亡し、ペロン政権の庇護のもと、現地のナチ党シンパの支援を受けながら生活する。ドイツに住む家族から資金提供を受けて事業を始めるメンゲレだったが、ペロン政権が倒れることで平穏な生活も終わりを迎える。モサドに追われることになったメンゲレは、南米諸国を転々とするのだった。

メンゲレはヨーロッパの闇の魔王だ。この傲慢な医師は子供たちを切り刻み、虐待し、焼いた。良家の御曹司が口笛を吹きながら四十万人もの人間をガス室に送った。こんなことは造作もないことだと彼はずっと思っていたのだ。自分を半ば神のような存在だとうぬぼれた「泥と炎から生まれた未熟児」、数々の法と掟を踏みにじり、自分の同胞である人間にあれほどの苦しみと悲しみを平然と強いたこの男。(pp.122-123)

『冷血』【Amazon】を意識して書かれたノンフィクション小説。これがまた端正な筆致でありながらも、要所要所でメンゲレの心理に肉薄していて、ファクトとフィクションの幸福な結婚という感じだった。逃亡中のメンゲレに焦点を当てた本作は、同じ出版社から先に刊行された『パールとスターシャ』の後日談として読める。刊行のタイミングからして、出版社もそう読まれるのを期待しているのだろう。あれから「死の天使」がどうなったのか、伝記的事実を知りたい人にお勧めだ。

本作を読んで驚いたのが、亡命したナチ党員が自分たちのしたことを正しいと信じていることだった。アーリア人が世界に君臨すること、そのためにユダヤ人を根絶やしにすること、アドルフ・ヒトラーが古代の英雄に比せられること。戦争が終わってもそういうお題目を信じ切っていることが恐ろしい。メンゲレは晩年になって息子と久しぶりに再会するのだけど、そのときに述べた言葉は相も変わらず自己正当化と反ユダヤ思想で、人間とは改心しない生き物なのかと絶望したのだった。まあ、日本でも「大東亜戦争はアジアを解放するための聖戦だった」と主張する人が未だにいるので、こういうのは普遍的な事象なのかもしれない。しかもこちらはナチ党員とは違い、戦争を知らない世代が主張しているのである。人間とはとことんまで馬鹿になれる生き物なのかと呆れてしまう。

アイヒマンとメンゲレが逃亡先で顔を合わせている場面も読みどころの一つだろう。僕からしたら2人とも有名な戦争犯罪人だけど、しかしアイヒマンにとってメンゲレはその他大勢であり、ユダヤ人虐殺という卑しい仕事の実行者に過ぎなかった。つまり、アイヒマンとメンゲレは組織内での身分が大違いだった。この視点は僕にとっては新鮮で、有名だからといって同格ではないのかという発見があった。そして面白いことに、アイヒマンは名声を求めたがる傾向にあり、政治的な立場からは距離を置いているメンゲレとは対照的である。2人は水と油で、メンゲレがアイヒマンを嫌うのも仕方のないことだと思う。

アルゼンチンを出国してからのメンゲレは、潜伏生活のストレスのせいか、周囲といざこざを起こしていて、逃亡生活も楽じゃないと思った。この辺の事情を追跡者であるモサドの状況と合わせて書いているところがいい。モサドモサドイスラエルの政情によって追跡には専念できなかったのだ。しかし、そのことをメンゲレが知る由もない。死ぬまで不安に駆られた彼は、たとえ裁きを受けなくてもそれなりに罰せられたのではないか。もちろん、ユダヤからしたら彼を死刑にしたくて仕方がなかったわけだけど。ともあれ、メンゲレは天寿を全うしたとはいえ、植物のような平穏な人生は送れなかった。そのことを知れて少し溜飲が下がったのだった。