海外文学読書録

書評と感想

アリ・スミス『両方になる』(2014)

両方になる (新潮クレスト・ブックス)

両方になる (新潮クレスト・ブックス)

 

★★★

カメラの章。21世紀のイギリス。10代の少女ジョージは、ゲリラ広告活動家の母親を抗生剤のアレルギーで亡くしていた。ジョージは母の生前、一緒にイタリアに行ってルネサンス期に描かれた絵を見ている。その絵にはある曰くがあった。目の章。15世紀のイタリア。絵の才能を持った少女が父の指導のもと男として生きることに。彼女はフランチェスコ・デル・コッサの名で仕事をする。さらに、彼女の魂は21世紀に生きる少女を見ていた。

私が死んだときもきっと、町はこんな風景なんだ、とジョージは思う。じゃあ、もし今飛び降りたら? 何も変わらないだろう。私がまき散らした汚れはきれいに洗い流されて、次の夜はまた雨が降って通りの表面に光沢があるか、雨は降らずに通りの表面はつや消しになっているかのどちらかで、時々下を車が通るだろう。忙しい日なら、買い物に出掛ける人たちの車が駐車場の前に列を作って、この最上階も車でいっぱいになり、また夜になれば空っぽになり、月日が巡り、また二月がやって来て、また来て、また来て、二月の後に二月の後に二月と過ぎ、それにもかかわらず、この歴史を持った町は歴史を持った町であり続けるだろう。(pp.71-72)

カメラの章と目の章が共に第一部という対等な関係になっていて、ノンブルも別々についている。両者は相互補完的な関係で、読者はどちらから読んでも良いことになっているけど、書籍で読む場合はとりあえず印刷されている順に読むだろう。ちなみに、原書のKindle版【Amazon】だと読む順番を選択できるらしい。また、原書の書籍版【Amazon】は、目→カメラの順のものとカメラ→目の順のものがそれぞれ半々の割合で印刷され、全く同じパッケージで書店に並べられたという。その辺、邦訳版の本書はどうなんだろう? あいにく確認出来ていない。

ウラジミール・ナボコフは『ヨーロッパ文学講義』【Amazon】のなかで、「まことに奇妙なことだが、ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ。良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者は再読者なのである」と述べているけど、本作はまさしく再読を要求される小説だと思う。というのも、1回読んだだけでは2つの章がどう関連しているのか掴みづらいので。僕はカメラの章から読んだけれども、目の章を読み終えてから再読して画家の名前を見つけたときは「あっ!」と驚いてしまった。ひょっとしたら読む順番によって驚きのポイントが違うかもしれない。目の章から読んだ人はどう思ったのだろう? ともあれ、こういう二重螺旋みたいな小説はあまり見かけないので、貴重な読書体験が出来た。

目の章で印象に残っているのが、売春宿でフランチェスコが娼婦たちに絵を描くエピソード。その絵を見た娼婦たちが、自分に自信を持って賃上げを要求したり、別の人生を歩もうと表から堂々と出ていったりするところに芸術の力を感じた。それと、バルトとの関係もなかなかせつないというか、けっこう訳ありで心に残る。15世紀を舞台にしたこの章は、ジェンダーという今日的な問題に注目していて、古くて新しい内容だと思う。

一方、カメラの章で印象に残っているのが、iPadやグーグルマップ、フェイスブックといった現代的なガジェットがやたらと出てくるところ。現代文学において現代性を担保するのがこれらITなのかと思うと、隔世の感がある。というのも、僕が現代文学を読み始めた頃って、前述のガジェットは一つも存在していなかったから。ITと言ったら、ダイヤルアップ接続でようやくインターネットに繋がるという時代だった。作家も時代に合わせて現代性を演出しないといけないから大変だと思う。

ハイヒールで歩いてるところを「美しさに似つかわしくないよちよちした足取り」と表現していて、ハイヒールとは現代の纏足ではないかという考えが脳裏をよぎった。今は道にうんこが落ちてることなんてそうそうないから、実用的な意義も薄れているし。かつて纏足がお洒落だったように、今日ではハイヒールがお洒落になっている。後世の人はグロテスクに思うんじゃないかな。現代人が纏足に対して思うように。