海外文学読書録

書評と感想

リュドミラ・ウリツカヤ『ソーネチカ』(1997)

★★★

ソヴィエト時代。ユダヤ人にして読書好きのソーネチカは、第二次世界大戦が勃発したときに疎開し、地元の図書館で働いていた。そこへ反体制の芸術家ロベルトがやってくる。ロベルトは30年代にフランスから帰国して当局の監視下にあった。やがて2人は結婚、娘を授かる。大きくなった娘は友達のヤーシャを自宅に招くが……。

いっぽうソーネチカの穏やかな心は、それまでに読んだ何千冊という書物でできた繭にしっかりくるまれていて、煙のようにもやもやとしたギリシャ神話の響きや、眠気を誘うような、それでいて冴えたような中世の笛の音や、風と霧のたちこめるイプセンの憂愁や、あまりに細部にこだわるバルザックの退屈や、ダンテの宇宙的な音楽や、リルケやノヴァリスの海の精(セイレーン)のシャープな美声といった子守唄を聞いてとろけていたし、すぐれたロシア作家たちの、教訓的で、ひたむきに天空の中心を志向する絶望的なところにすっかりのぼせあがってもいた(……)(p.15)

2002年の翻訳だけど、洒脱な文章で読みやすかった。本作には一つ一つ文字を追う楽しみがある。思えば翻訳の質が底上げされたのって、村上春樹柴田元幸が参入した80年代からなので、読みやすいのは当然と言えるだろう。また、2人に影響を与えた藤本和子もいい翻訳家だ。およそ70年代の人とは思えないくらいの素晴らしい日本語を書く。と、こういうことを考えていたら、日本における翻訳家の系譜をたどりたくなった。昔の翻訳小説で問題なのは訳文が読みづらいことだから。いい翻訳家と悪い翻訳家を肴にしてわいわいだべりたい気分だ。

本作の肝は終盤でソーネチカとロベルトとヤーシャが奇妙な三角関係になるところで、養女にしたヤーシャがロベルトとくっついてしまう。僕がソーネチカの立場だったら、激怒して2人を家から追い出してしまうだろう。でも、彼女はそういうことをしない。独特の方法でその状況を受け入れている。一方、芸術家のロベルトはヤーシャのおかげで創作意欲が湧いてたくさん絵を描くのだった。この部分を読んで、僕は『月と六ペンス』を連想した。ある種の芸術家は、我々が規範としているようなモラルの枠内には当てはまらない。優れた作品を残すには生活が破綻するのも仕方がないことで、それは芸術家の業と言える。もちろん、芸術家のすべてがそういうわけではない。一部に病的な社会不適合者がいるということだ。

冷静に考えれば、本作は変な話である。しかし、語り口が洒脱でフェアリーテイルみたいになっているため、読んでいるこちらも素直に受け入れてしまう。奇妙な状況にもかかわらず、不思議な説得力がある。本作を読んで、小説で一番大事なのは文体なのだと実感した。これのおかげで全体が支えられている。

主人公のソーネチカが読書家なので、読んでいて親近感が湧いた。ロシア人から見ても、ロシアの作家は教訓的だったり説教臭かったりするらしい*1。そういえば、作家のウラジミール・ナボコフは『ロシア文学講義』【Amazon】のなかで、「言葉、表現、形象こそが、文学の真の機能である。思想ではない。」と述べてドストエフスキーを全否定していた。さらに彼はロシア作家を、1番はトルストイ、2番はゴーゴリ、3番はチェーホフ、4番はツルゲーネフと順位づけしている。これに賛同するかどうかはともかく、他人の文学観は独特で面白いと思った。自分と違うからこそ注目に値する。

*1:ただし、プーシキンは除く。