海外文学読書録

書評と感想

ジョン・アップダイク『結婚しよう』(1976)

結婚しよう (新潮文庫)

結婚しよう (新潮文庫)

 

★★★★

コネティカット州グリーンウッド。所帯持ちのジェリー・コウナントが、近所の人妻サリー・マサイアスと不倫する。ジェリーはテレビのコマーシャル専門のアニメーション画家をしており、妻と3人の子供を養っていた。サリーへの愛が高じたジェリーは、妻のルースに事情を打ち明け、別れ話を切り出す。一方、サリーはサリーで夫のリチャードに全てをぶちまけ……。

「きみにはぼくを巻きこむ権利があるんだ。少しはね。それは、きみの当然の権利だよ。権利といえば、ぼくには何も権利がないんだ。きみを望む権利はないんだーーそりゃ、きみを愛するのはかまわなかったのだが、きみを自分のものにしたいと望むべきではなかったのだ。美しいものを自分のものにしたいと思うように、誰か人を自分のものにしようということが、そもそも間違っている。それは、高価な家を手にいれたいとか、高い土地を所有したいというのと本質的に違うのだ」(p.262)

不倫によって人間関係がバタつく昼メロみたいな話だったのに、なぜか面白く読んでしまった。ひょっとしたら僕はこういう話が好きなのかもしれない。デイヴィッド・ロッジ『考える…』の項で書いた通り、姦通とは文学の題材としては王道である。ということは、世の中の大多数の人たちはこういう話が好きなわけで、僕も多数派に含まれるのだろう。これは思わぬ発見である。

この小説で特筆すべきはジェリーの人物像だ。彼は不眠症で、死の恐怖に取り憑かれていて、熱心なクリスチャンである。ジェリーにとって愛人のサリーは生を象徴しており、妻のルースは死を象徴している(本人談)。何とも酷い認識をしているけど、それに輪をかけて酷いのが彼の自己中ぶりだ。妻のルースに別れ話を切り出す場面は、あまりに相手の気持ちを考えてなくて、こいつサイコパスかと思った。表面的には相手を気遣っているようで、その実自分の欲望しか考えてない。滔々と今後の生活プランを提案していくところはまるで良心のない詐欺師みたいで、ある種のおぞましさを感じた。子供は2人で分け合おうなんて、いくら何でも都合良すぎるだろう。さらに、実は妻も愛人も子供も愛してるって、それはさすがに欲張りすぎだ。一般論で言えば、不倫とは全てを失う覚悟でやるものである。裸一貫で放り出されても文句は言えない。子供を望むなんてもっての外だ。ともあれ、こういう小説を読むと、柄にもなく倫理的になってしまうから嫌になる。

本作を読んで思ったのは、結婚とは何なのだろうということだ。もちろん、結婚が配偶関係の契約であることは分かっている。しかし、その結婚という制度が不倫の歯止めにならないのだったら、我々はどうやって配偶者の不貞から身を護れというのか。残念なことに人間は飽きっぽい生き物である。常に新しい刺激を欲しがっている。特に男は自分のDNAを広くばら撒きたいという動物的本能があるから、一人の女で満足することが出来ない。古今の独裁者がハーレムを形成していたように、複数の女と関係を持ちたいと思っている。男なら誰しもチンギス・ハーンになりたいのだ。ただ、そういう欲望を抱きながらも、現代に生きる大多数の所帯持ちは不倫をしない。結婚という制度が自制心を呼び起こしている。換言すれば、結婚が社会に秩序をもたらしているのだ。だから、本作のジェリーみたいにその縛りを軽々と飛び越えてくる人間には恐怖を感じる。自分の欲望を押し通そうという態度に言い知れぬ反感をおぼえる。いくら愛人のことが好きで仕方がないとはいえ、それが配偶者の犠牲の上に成り立っているのなら、その愛は純愛とは呼べないだろう。不倫は文化だ、なんて言葉はするほうの傲慢である。

本作はアメリカの中産階級の暮らしぶりが垣間見えるので、そういうのに興味がある人にお勧め。もちろん、昼メロが好きな人にも。不倫が発覚した際に誰も暴力に訴えないところは、さすが中産階級という感じである。思うに、この階級の人たちが不倫をするのは、日常生活に刺激がないからではなかろうか。娯楽といったら近所の人とバレーボールをするくらいだし。文化的なものが背景にあるような気がする。