海外文学読書録

書評と感想

ブルース・チャトウィン『ウッツ男爵』(1988)

★★★

1967年――プラハの春の前年――、語り手の「私」が取材のために一週間プラハに滞在する。彼はそこでマイセン磁器の蒐集家カスパール・ヨアヒム・ウッツと会う。ウッツはユダヤ人だったが、ナチスによる占領や共産主義による支配など、激動の時代を抜け目なく乗り越えてきた。ウッツは西側への亡命も考えていたが……。

週に二度、神妙な顔つきでソヴィエト映画を鑑賞する。友人のオルリークが二人して西側に逃げないかともちかけたとき、ウッツは棚にぎっしりと並んだマイセン製の人形を指さした。

「これと別れるわけにはいかないね」(pp.28-9)

何かをコレクションするのって、男だったら人生のなかで一度は経験すると思う。僕も小学生の頃、おもちゃとして販売されていたカードを集めていた。周囲の友人たちも集めていて、だぶったカードを交換したり小遣いで売買したりしていた。そこには小さいながらも市場が成立していて、今思えばなかなか興味深かった。ただ、コレクションに熱中していたのはおよそ2~3年で、あるとき急激に熱が冷めて全てを手放してしまった。以降、大人になった現在まで何かを蒐集したことは一度もない。小学生だったそのときに気づいたのだ。こんな役に立たない物を集めても仕方がない、と。

そんなわけで、大人になっても蒐集家でいる人たちは、子供の心を持ったある意味で純粋な人なのだと思う。作家のウラジミール・ナボコフと政治家の鳩山邦夫は、蝶の採集をしていることで有名だった。この2人からは何となく高等的な匂いがする。一方、大昭和製紙(現・日本製紙)名誉会長・齊藤了英は、ゴッホルノアールの絵画を巨額の金で購入し、「死んだら棺桶にいれて焼いてくれ」と言って世間の顰蹙を買った。こいつからは邪悪さしか感じない。

では、本作のウッツはどうかと言ったら、高等的でありつつ邪悪さも兼ね備えていて、これぞ蒐集家という人物像だった。彼は暴力は好まないものの、騒乱は歓迎している。なぜなら、そのおかげで世に隠れていた美術品が市場に現れるから。実際、ウッツは水晶の夜にユダヤ人から、大戦末期には赤軍に追われていた貴族から、それぞれ美術品を購入している。まあ、これくらいなら抜け目ない商人といった感じで特に問題はないだろう。問題は自分の寿命が尽きようとしていたときの行動で、蒐集家でない僕には理解不能な取り返しのつかないことをしていた。世間の顰蹙を買った齊藤了英もこんな心理だったのだろうか。残念ながら僕にはよく分からない。

本作の見どころのひとつに、文学的観光名所としてのプラハが挙げられる。言うまでもなく、プラハはあのフランツ・カフカで有名な町だ。ウッツは亡命しようと西側へ下見に行くも、審美眼が高すぎてそこの文化とそりが合わない。ウッツから見たら西側の文化は俗悪極まりなかった。おまけに現地人の民度も低く、旅の途中の列車のなかで女から嫌がらせを受けている。ウッツにとってプラハはメランコリックな気持ちを包みとってくれる町であり、コレクションを国外に持ち出せないという事情も相俟って、結局は亡命を思いとどまるのだった。ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』プラハを舞台にしていたけれど、やはりこの町には特別な何かがあると思う。「文学のなかのプラハ」というテーマで論文が一本書けるくらいに町が息づいている。僕も一度でいいからプラハを訪れたいと思う。