海外文学読書録

書評と感想

セオドア・ドライサー『アメリカの悲劇』(1925)

★★★

貧しい伝道師の家庭で育ったクライド・グリフィスは、長じてからカンザスシティでホテルのベルボーイになる。ところが、同僚とドライブに行った帰りに自動車事故を起こして逃亡。その後は金持ちの伯父を頼って、彼の経営するニューヨークの工場に就職する。そこで女工ロバータと男女の関係になるも、金持ちのソンドラともいい関係になり、ソンドラと結婚して上流階級に入りたいと熱望する。ところが、ロバータの妊娠が発覚してクライドは追い詰められるのだった。クライドはロバータの殺害を計画するが……。

ああいう話には、いったいどんな意味があるんだろう? 神様は存在したのか? マクミラン師が主張するように、人間の雑事に神様が干渉するのだろうか? これまで神をいつも無視してきたというのに、こういうときになって、神様なり、少なくとも創造的な力にすがるというようなことは、果たして可能なことだろうか? 人は明らかにそういうときに助けを必要とするものだ――とても孤独で、法によって命令され支配されている――人間ではなくなっている――ここにいる人はみな、まさしく法律の下僕なのだから。だが、この神秘的な力は、助けの手を差しのべてくれるのだろうか? 実際に存在して、人間の祈りをきいてくださるのだろうか?(vol.2 pp.377-378)

集英社版世界文学全集(宮本陽吉訳)で読んだ。引用もそこから。

長かった。ハードカバー2段組で合わせて800ページほどある。アメリカの自然主義文学ということで、クライドがなぜこのような悲劇的な人生を歩むことになったのか、環境要因や性格要因などを踏まえて重厚に描いている。現代文学という甘い果実の味を知った人間にとって、100年前の自然主義文学は退屈に感じないかと心配していたが、終わってみれば劇的な話で楽しめた。殺人や裁判が最大の焦点になっているところは、さすが犯罪小説の本場という感じである。クライドの境遇は『罪と罰』【Amazon】のラスコーリニコフを、裁判の場面は『カラマーゾフの兄弟』【Amazon】の同場面をそれぞれ連想したけれど、クライドとラスコーリニコフはだいぶ毛並みの異なった人物だし、後者の裁判も被告人の性格が全然違っているから、それほど似通った印象は受けなかった。裁判については、実を言うとどちらも冤罪なのだ。『カラマーゾフの兄弟』のミーチャは人を殺してないし、本作のクライドも故意に人を殺してない。クライドの場合、殺意を持って相手を呼び出したものの、結果的には事故によって死なせてしまったのだった。ただ、それを知っているのはクライド本人だけなので、状況はかなり不利になっている。この裁判もだいぶ頁を割いているだけあって、近年のリーガル・サスペンスみたいに読み応えがあった。検察官も弁護士もかなりのやり手で、その筋運びがなかなか面白い。

アメリカの格差社会がクライドの人生を翻弄しているところが興味深い。アメリカン・ドリームという言葉が彼の国にはある。ところが、実際に所属する階級を突き破って成功する人間は、他の先進諸国よりも低いという。貧しい家庭に生まれたクライドが、金持ち連中と関わることによって、彼らの仲間に入りたいと思うのはごく自然な感情だろう。自分と彼らを分かつものが何なのか疑問に思うのもよく分かる。結局のところ、人生の大半は生まれによって決まるのであって、そこから這い上がるには相当な運が必要なのだ。クライドはあと少しのところまで行った。ところが、女工ロバータを妊娠させたことによって台無しにしてしまった。状況を打開しようと殺人計画を練ることで、さらなる泥沼にはまってしまうのだから救いようがない。クライドの人生は最初から詰んでいたのではないかと思える。

クライドの魂を救おうと獄中にやってきた牧師が、彼の胸の内を聞いて、「わが子よ! わが子よ! そのとき、きみは心のなかで人を殺した」と言い放つところが印象的だった。つまり、実際に人を殺していなくても、相手が死ねばいいと思った時点で、それは人を殺したも同然なのだ。この辺の理屈は哲学者のカントみたいだと思った。行為の帰結よりも、行為の動機に重きを置く立場*1。現代の裁判において、動機を重視して量刑を決めるのも、おそらくこれと関係しているのだろう。仮に自分が裁判を担当したとして、情状酌量の余地がどの程度あるかを判断するのは難しそうだ。

*1:というか、聖書に「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです」(マタイによる福音書)というくだりがあった。