海外文学読書録

書評と感想

フラナリー・オコナー『賢い血』(1952)

★★★

テネシー州イーストロッド出身のヘイゼル・モーツ(ヘイズ)は、18歳で徴兵されて4年間軍隊にいた。除隊後は汽車に乗って見知らぬ街へ行き、売春宿に入った後に中古車を買う。彼は車のボンネットの上に乗って、聴衆に《キリストのいない教会》を説くのだった。やがてヘイズは盲目の伝道者の娘に目をつける。

「おれは清らかだ」とヘイズは言った。

もう一度彼がそう言ってから、イーノックにはやっと彼の言っていることがわかった。

「おれは清らかだ」と彼はまた言ったが、顔にも、声にも、なんの表情もなく、まるで壁でも見ているようにただその女を見ていた。「もしイエスが存在したら、おれは清らかではないだろう」と彼は言った。(p.93)

ヘイズが説いている《キリストのいない教会》とはいったい何なのだろう? 彼は「イエスが十字架にかけられたのは、あなたがたのためではなかった」(p.56)と主張し、さらには「《堕落》がなかったから《救済》もない。この二つのものがなかったから《審判》もない」(p.107)と説いている。どうやらイエスは人類の罪を背負って十字架にかけられたわけではないらしい。彼が十字架で死んだのはあくまで人間としてであって、そこに神性はないというのである。キリスト教からイエスを排除したら、それはキリスト教ではなくなるんじゃないかと思ったら、イエスの存在自体は否定せず、内部に少しも神を持っていない人間としてのイエスを信じているのだという。門外漢からすれば、ある種の異様さは認めるにしても、既成のカトリックよりはまっとうに思えるし、これはこれで一定の支持者を集めそうではある。アメリカ南部だったら尚更だろう。僕はキリスト教に詳しくないので、ヘイズの主張に元ネタがあるのか、この主張がどういう流れに位置づけられるのか、その辺の神学的な解説が欲しいと思った。

物語は要所要所でブラックユーモアが効いていてなかなか面白い。少年が博物館に展示されているミイラを新しいイエスだと信じてヘイズに渡したり、ヘイズが自分の邪魔をしてくるカネ目当ての《預言者》を車で轢き殺したり、警官が運転中のヘイズを止めて彼の車を路肩から突き落としたり、読んでいて思わずツッコんでしまうような展開がちらほらある。とりわけ、《預言者》を金で雇ってヘイズと似たような説教をして、聴衆からお布施をもらう詐欺師の存在が面白かった。ヘイズが彼らに対して怒っているのがツボにはまる。真面目に伝道している身からしたら、さぞ許せないことだろう。

フラナリー・オコナーは短編でもよく「啓示」の瞬間を描いていたけれど、それが本作のラストにも受け継がれていて、著者のライフワークみたいなものを垣間見たのだった。全体としては『フラナリー・オコナー全短篇』【Amazon】のようなすごみはないものの、これはこれで著者の特色が出ていて興味深い。