海外文学読書録

書評と感想

ウィリアム・シェイクスピア『尺には尺を』(1604)

★★★

ウィーン。貴族のアンジェロが公爵の代理に任命される。アンジェロは眠っていた厳しい法律を杓子定規に適用して風紀を正そうとしていた。その煽りを受けて、婚約者を妊娠させたクローディオが死刑を宣告されてしまう。クローディオの妹イザベラがアンジェロに助命を嘆願するも、イザベラに惚れたアンジェロは肉体を差す出すよう要求する。

イザベラ 私には二枚の舌はありません。お優しい閣下、

どうか先ほどまでのはっきりした言葉でお話ください

アンジェロ はっきり言えば、私はあなたを愛している。

イザベラ 兄もジュリエットを愛しました。

そのせいで兄は死ぬとあなたはおっしゃる。

アンジェロ 死なせはしない、イザベラ、私に愛をくれるなら。(p.84)

現代日本は法律を必要以上に厳しくし、適用する際はお情けをかけるというか、ある程度弾力性を持たせて運用しているけれど、実は昔のヨーロッパもそういう形態だったとは知らなかった。日本の軽犯罪法は、厳格に適用したら街中が犯罪者だらけになってしまうことは有名だろう。

たとえば、法1条4号の浮浪の罪では、「生計の途がなく、働く能力がありながら就職の意思がなく、かつ住居がない者で諸方をうろついていた者」が処罰の対象になっていて、これはホームレスだったらまずアウトである。法1条9号の火気乱用の罪では、「相当の注意をしないで、建物、森林など燃える物の付近で火をたき、引火しやすい物の付近で火気を用いた者」が処罰の対象になっていて、これは田舎でよくやる野焼きが引っ掛かる。法1条13号の行列割込み等の罪では、「公共の場所で著しく粗野若しくは乱暴な言動で多数の人に迷惑をかけ、又は威勢を示して公共の乗物、演劇などの切符を買うための行列などに割り込み、若しくは列を乱した者」が処罰の対象になっていて、これなんか関西ではたびたび見られる光景である。そしてつい最近では、法1条22号のこじきの罪で、ツイキャスの配信者が書類送検された。このように法律の網の目は我々を抜かりなく縛っている。

本作ではそういう半ば形骸化していた法律を厳格に適用しているのだから大変だ。郊外の女郎屋は取り壊しになるし、婚前交渉して妊娠させた男には死刑判決が下されてしまう。この程度で死刑になるなんて近世のキリスト教国家は恐ろしいと思うが、それはともかく、本作はいかにしてクローディオの命を救うのかに焦点が当てられている。修道士に身をやつした公爵が、アンジェロに対して策を巡らせている。どうせ最後には助かると分かっているのだけど、その助かるためのロジックがなかなかよく考えられていて感心した。

それにしても、修道士に身をやつして庶民を助ける公爵はまるで水戸黄門みたいだった。変わり者のルーチオが、目の前の修道士が公爵であると知らずに、公爵の悪口を滔々と述べていたのは笑いどころの一つだろう。公爵が正体を現した際は、期待通りのやりとりが展開されている。それと、終盤でクローディオが生きていることを明かさず、あまつさえ覆面をつけて登場させたのは芝居がかってると思った。いや、実際これは芝居なんだけどさ。ともあれ、本作は安心と安全のシェイクスピア劇だった。