海外文学読書録

書評と感想

ミハル・アイヴァス『黄金時代』(2001)

★★★

民俗学者の「私」は大西洋の島に3年ほど滞在していた。島民たちは島に名前をつけておらず、さらには島民自身の名前がコロコロ変わっていく。「私」はそんなへんてこな島について語りつつ、話は脱線してパリ在住のチェコ亡命者が女泥棒を捕まえるエピソードを披露する。その後、「私」は島民たちがシェアする1冊の奇妙な「本」に出会うのだった。

島の「本」はその当初から芸術作品としては破綻していた。だが、ほぼ確実に言えるのは、島民たちもこの破綻を後押ししていたということだ。(……)今思うに、「本」は芸術を嘲笑するものであって、芸術のパロディだったのだろう。島民たちは芸術が好きではなかった。芸術という形は無形の信念の前に立ちはだかり、芸術の音は沈黙の音楽を遮断してしまうからだ。(p.333)

慣れというのは怖いもので、もはや欧米を舞台にした現代小説には異国情緒を感じなくなってしまったけれど、本作は現実にはあり得ない島を描いていて、異国情緒どころか異世界みたいな感覚をおぼえた。「私」が訪れた島はグローバリズムの波に飲み込まれておらず、独自の文化を維持している。これがとても不思議だ。というのも、だいたいこういう島って欧米の植民地にされて言語も文化も上書きされてしまうから。ところがこの島、かつてはヨーロッパから征服者が来たものの、彼らは島民に同化してしまったという。はっきり言って信じ難い成り立ちだ。まあ、フィクションだからこういう島があってもいいし、むしろ大歓迎ではある。特筆すべきは、島の地形に段差があって水の壁で区切られているところ。これが幻想的で僕も観光に訪れたいと思った。

しかし、実はここまではほんのプロローグに過ぎず、物語の半分に差しかかる第29章からが本番になる。ここで「私」は島民によって書き継がれている「本」に出会うのだった。その「本」には物語が書かれているのだけど、加筆に加筆を重ねて制御できない増殖と膨張を繰り広げている。挿入によって絶えずテクストが変化するところは、まるで無限に変化し続けるインターネットのようだ。僕はWikiを使ったリレー小説を連想したけれど、訳者あとがきではWikipediaが引き合いに出されていたので、自分が思いつくことは大抵他人も思いつくものだと軽く落ち込んだ。

まあ、それはそれとして、今読んでいるテクストは1年後には跡形もなく消えているかもしれない、1回限りの偶然によって出会ったものであり、後半で「私」が紹介している物語もそういう類のものだと考えると、何か世界の奥行きの深さに触れたような気分になる。人生には同じ瞬間などない、というどうしようもない真実に気づかされたというか。こういう「本」を読むことは最高の贅沢かもしれないと思った。千利休が言ったとされる「一期一会」がしっくりくる。

ところで、『もうひとつの街』ではサメが、本作ではダイオウイカがそれぞれ出てくるけど、著者は水生生物に何か愛着なり拘りなりがあるのだろうか。チェコには海がないのに……。