海外文学読書録

書評と感想

ワシーリー・グロスマン『人生と運命』(1980)

★★★★

1942年。ソ連軍はスターリングラードでドイツ軍の侵攻を食い止めていた。物理学者のヴィクトルは原子物理学の論文が評価されるも、ひょんなことから政治的危機に陥る。ドイツの捕虜収容所にいるモストフスコイは、収容所内で政治活動を展開することになる。軍医のソフィアはドイツの強制収容所に向かうユダヤ人移送列車のなかで、7歳の少年ダヴィッドと出会う。大隊コミサールのクルイモフは、戦場で濡れ衣を着せられて監獄に入れられる……。各自がそれぞれの人生と運命を歩むなか、ソ連軍はスターリングラードで大攻勢を始めようとしていた。

「罪のない人間などという考えは中世の遺物だ、錬金術だ。トルストイはこの世には罪ある者などいないと言ったが、われわれチェキストは、最高のテーゼを提唱したのだ。すなわち、この世に罪のない者などいないし、裁判にもちこめない者などいないというテーゼをね。令状の出される者は有罪であり、令状は誰に対しても出せる。どの人間にも令状をもらう権利がある。生涯にわたって他人に令状を出してきた人間だってそうだ。御用が済めばお払い箱なのさ」(vol.3 p.35)

ハードカバー全3巻・合計1400ページの大作。

作品自体は1960年に完成していたものの、KGBに原稿を没収されて生前の出版は叶わず、著者の死後に友人が秘匿していた原稿の写しが国外に持ち出されて出版されたという。そういう曰く付きの物件だけあって、ソ連に対する眼差しは極めてまっとうだった。ソ連ナチス・ドイツと大差ない抑圧的な政治体制であることは、西側諸国の人にとっては周知の事実だろう。しかし、ソ連国内でそれを指摘したらたちどころに弾圧されてしまう。社会主義体制の下では言論の自由などないのだ。最近、日本でもPC絡みで表現規制が話題になっているけれど、表現の自由を放棄することは、自分たちの社会をナチス・ドイツソ連と同等のものにすることであり、ファシズムの一翼を担っていることに気づいたほうがいいだろう。

本作は20世紀版『戦争と平和』【Amazon】と呼ぶにふさわしい重量級の小説である。『戦争と平和』がナポレオンによるロシア遠征を題材にしていたのに対し、本作はナチス・ドイツによるバルバロッサ作戦、厳密に言えばスターリングラード攻防戦を題材にしている。ただし、戦争が主体になっているかと言えばそうでもなく、戦時下に生きる人たちにスポットを当てることで、その時代の社会体制を包括的に捉えているような感じだ。本作には明確な主人公は存在しない。覚えきれないほどたくさんの人物が登場する*1。特徴的なのが、実在の人物と架空の人物を織り交ぜてひとつの世界を形作っているところだ。特にソ連ナチス・ドイツの双方を射程に収め、その鏡像関係を明らかにしているところは圧巻の一言だった。たとえば、ソ連は社会的出自によって差をつける。ブルジョワプロレタリアートのように。一方、ナチス・ドイツは民族的出自によって差をつける。アーリア人ユダヤ人のように。ソ連の中央集権体制は国家の利益に個人が供されるもので、これは言うまでもなくナチス・ドイツも同様だ。このように社会主義ファシズムには強い類似性が認められる。本作は20世紀後半の小説なのに既に古典の風格を漂わせているけれど、それはひとえに社会体制に対する問題意識がしっかりしているからだろう。

ある登場人物が「個人主義には人間愛などない!」と主張しているのにはぞっとした。個人よりも国家の優位性を認めることが社会主義リアリズムであるという。現代人の価値観からしたら実におぞましい考えだ。しかしながら、こういう思想は過去のものではなく、現代の民主主義国家にも未だに燻っている。ヨーロッパでは極右政党が台頭しているし、日本においても状況は他人事ではない。世界はまた暗黒の時代に後戻りするのではないかと不安になっている。

*1:巻頭にある登場人物一覧には助けられた。