海外文学読書録

書評と感想

ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』(2005)

★★★

〈内ホーナー国〉は国民が一度に1人しか入れないほど小さく、残りの6人は、〈内ホーナー国〉を取り囲んでいる〈外ホーナー国〉内に設定された〈一時滞在ゾーン〉に身を寄せ合っていた。あるとき、〈内ホーナー国〉の土地が縮んでしまう。外ホーナー人のフィルは、自分たちの領土にはみ出してきた内ホーナー人から税を徴収することを提案、容赦なく金品を取り立てる。その後、彼は筋肉ムキムキの2人組を部下にして独裁権力を手に入れるのだった。

「わが民よ!」フィルは耳をつんざくほどの大音声で言った。「この者どもがこの世に存在するかぎり、彼らはわれわれに何度でも牙をむくであろう! よって、われわれが完全な平和を見るためには、彼らに完全に消えてもらうしかない! 完全に、永遠に、徹底的にだ! さあ、これよりわれわれは永遠の平和を実現しつつ、同時に卓越した経済観念も発揮しようではないか。すなわち向こう五日ぶんの税金を前倒しで徴収する、すなわち彼らの国の全資産を今この場で没収するのだ!」(p.115)

人間じゃないよく分からない機械生命体を用いた寓話。独裁権力を風刺した内容で、訳者あとがきでは『動物農場』【Amazon】が引き合いに出されている。

権力を得るにはまず周囲からの承認があって、さらにそれを維持・強化するには暴力が必要不可欠となる。マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』【Amazon】の中で、ある主体が国家になるためには暴力の独占が必須の条件になる、みたいなことを述べていた。確かにその通りだと思う。北朝鮮や中国のような特殊な例を挙げるまでもなく、日本やアメリカといった現代の民主主義国家にも例外なく当てはまっている。地球上にあるどの国も、警察や軍隊を国家が独占しているから国家として成り立っている。我々が法律に従うのも背景に暴力があるからで、権力は暴力の独占によって維持されているわけだ。問題はどうすれば独裁になってしまうかだが、本作はそこのところを的確に捉えて風刺している。

僕が初めて権力について考えたのは小学3年生のときだった。ある日、全学年が校庭で運動会に向けて行進の練習をしていたのだが、その最中に後ろにいた人とふざけ合いをして教師に見つかり、群衆の輪から連れ出されて練習を見学させられる羽目になった。そのとき、教師に見学を強制されたことに驚いたし、さらには練習を外から眺めていて名状し難い違和感をおぼえた。同じ服装、同じ体操服を着た子供たちが、不自然な集団行動に従事している……。なぜ、我々はこんなことをさせられているのだろう? 整然と行進することに何の意味があるのだろう? 大人になった今だったらこれを北朝鮮マスゲームになぞらえているところだが、小学3年生の僕にはそんなこと思いもつかない。この気持ちの悪い秩序を支えているのはいったい何なのか。これが権力――当時は権力という言葉もろくに知らなかったが――を意識した初めての出来事だった。その背景に教師による暴力の独占、国家から承認された暴力の独占があることは、大人になった今だからこそ分かることである。学校とは国家の内側にある閉鎖的なプチ国家であるから。

というわけで、国家を支えているのは暴力であることを再認識させられたのだった。