海外文学読書録

書評と感想

マルカム・ブラドベリ『超哲学者マンソンジュ氏』(1987)

★★★★

無名の哲学者マンソンジュ。しかし、彼がいなかったらエーコも知られぬまま終わっていただろうし、デリダが生まれることもなかったと言われている。マンソンジュは自身を不在の神と称し、著書に自分の名が印刷されることも禁じていた。彼は性をテーマにした『フォルニカシオン』を刊行後に忽然と姿を消している。学者のブラドベリが、そんなマンソンジュのことを評伝形式で語っていく。

今日、世界の大都市で開かれる学会やカクテルパーティーにおいて、ラカンを受けてデリダで返すこともできぬとすれば、あるいはフーコーの一撃をクリステヴァでフォローすることもできぬとすれば、それはいささか間抜けな話、否、純然たる愚といわねばなるまい。(p.42)

これは面白かった。同時代の現代思想を題材にしているところがたまらなくレトロでいい。僕が哲学に興味を持っていた学生の頃は、ソーカル事件によって既に現代思想は死に体だったので、本作が構造主義脱構築を生き生きと語り、ソシュールデリダフーコーなどに喜々として言及するところに、幸福な時代の空気を感じて思わず涙が出そうになった(大嘘)。本作は一種の偽史というか、思想史にマンソンジュという架空の人物をねじ込んだ評伝で、虚構である彼の思想を存在するものとしてもっともらしく語っている。様々な思想家や哲学者の名前が飛び交うその衒学的な内容は、読む人が読めば懐かしさと同時に感動を呼び起こすこと間違いないだろう。僕は世代的にニュー・アカデミズムの栄光には浴さず、『構造と力』【Amazon】は既に時代遅れの古典に成り果てていた。義務的にレヴィ=ストロースフーコーは読んでいたものの、それらを引用するのは恥ずかしいという風潮があった。大学の哲学科は精神疾患者の溜まり場で、みんな哲学よりも薬物――向精神薬脱法ドラッグ――に詳しかった。僕は哲学科の人間ではなかったのでその闇については詳しくないけれど、文系の中でもっとも拗らせていたのが哲学科だったと記憶している。そして、本作はそんな知的病人が、あの時代は良かったと思いを馳せるための小説と言えるかもしれない。80年代、それは哲学にとって何て幸福な時代だったのだろう!

ロブ=グリエビュトール、サロートといった新しい作家たちの小説は、リアリズムの伝統に全面的異議を唱え、リアリズムとは外の世界に何かがあると思い込んでいる人々のでっち上げにすぎないことを暴こうとした。ヌーヴォー・ロマンサルトルカミュの悲劇的ヒューマニズムを退け、小説は悲劇にかかわるものでもヒューマニズムにかかわるものでもなく、ロブ=グリエの言を借りれば、ただ単に「世界ののっぺらぼうの、無意味、無精神、無道徳な表面」を提示するだけだと宣言する。ということはつまり、小説というものが、ただ単にそこにあって年中われわれを睨みつけている事物によって――〈ショーズ〉によって、と当時は言ったものである――成立するということになる。もっとも、さらにいえば、そもそもこの新しい小説は内面という異端を退けるものであるからして、そこにはもはや睨みつけられるべき「われわれ」もありはしない。実際、いまや小説は、思考し、物事の意味を構築する「人物」をもつことができなくなってしまった。その代わりに、家具とか虫の死骸とかが物語の責任を負わされるべく導入され、しばしば決して自分に向いてはいない役柄を演じる破目になった。ヌーヴォー・ロマンはまた、超越論的なものを退け、ロブ=グリエも言ったように「形而上学の彼岸への序曲」たることを拒んだ。かくして小説は大きく変容し、ポストモダン的状況のなかに置き去りにされた。小説がその状況のなかで茫然と立ちつくすのを、いまなおわれわれはしばしば目にするのである。(pp.97-98)

ところで、以上はヌーヴォー・ロマンについて要点を押さえた簡潔な説明であり、同時に僕がなぜヌーヴォー・ロマンが苦手なのかも明らかにされている。仏文科も哲学科に負けず劣らず拗らせた人間が集まっていたけれど、それについてはまた別の機会に語ることにしよう。ヌーヴォー・ロマンについてもおいおい語っていきたい。今回はメモとして上の文章を載せておく。

とりあえず、こういうメタフィクションってたまに読むとすごく面白いということが分かった。本作の語り手はいかにも学者らしく、ボルヘスナボコフベケットに関心を寄せている。読者もその3人が好きな人向けになりそう。また、現代思想が輝いていた時代を存分に味わいたい人にもお勧めである。こういうのは古びているからこそかえって新しいのだ。今後、一周回ってまたブームが来るかもしれない。