海外文学読書録

書評と感想

イアン・マキューアン『甘美なる作戦』(2012)

★★★

1970年代初頭。英国国教会主教の娘セリーナは、現代文学が好きな読書家だった。彼女は英文学科を志望するも、親の勧めでケンブリッジ大学の数学科に進学する。そこではあまり成績が良くなかった。セリーナは恋仲になった教授の伝手でMI5へ就職する。当初は事務職の下働きだったが、あるとき、若い作家を金銭面で支援するスィート・トゥース作戦に携わることになる。

わたしが必要としていたのは単純なことだった。テーマや文章の巧みさはどうでもよく、天候や風景や室内の細かい描写は読みとばした。わたしが求めていたのは存在が信じられる登場人物であり、彼らに何が起こるか好奇心をそそられることだった。ふつうは、人々が恋に落ちたり恋から醒めたりするほうがよかったが、なにかほかのことをやるというなら、それでもべつにかまわなかった。そして、低俗な望みではあるけれど、最後にだれかが「結婚してください」という結末になるのが好きだった。(p.11)

冷戦期の女スパイが主人公である。ただし、スパイと言っても外国との諜報戦を繰り広げるのではなく、国内の文化工作を担う一風変わったスパイ小説であり、同時に捻りの効いた恋愛小説でもある。本作のいいところは文学好きのツボを押さえたディテールで、同時代に活躍した作家を引き合いに出してくるのが楽しい。セリーナはソルジェニーツィンが初恋の人で、大学時代には彼の愛人になりたいとすら思っている。読書傾向としては英米文学が中心で、アイリス・マードックやミュリエル・スパーク、ウラジミール・ナボコフといったお馴染みの名前が出てくるし、他にもフィリップ・ロスジョン・バーストマス・ピンチョンにも触れている(それ意外にもたくさん名前が挙がっている)。さらに、仕事で絡む朗読会にはマーティン・エイミスが登場するというサービスぶり。今期放送中のアニメ『アニメガタリズ』【Amazon】は、アニメに関する小ネタが満載で、それを拾うのがとても楽しい作品だった。本作もそういうトリビアルな楽しみがある。

CIAがイギリスの文芸誌『エンカウンター』に資金提供していたり、イギリス外務省情報局がジョージ・オーウェルの『動物農場』【Amazon】や『一九八四年』【Amazon】を世界に広めるために工作していたり、冷戦期の反共活動を知れたのも収穫だった。これを日本にたとえると、自民党産経新聞の普及に協力したり、中国共産党しんぶん赤旗に資金提供したりするようなものだろう。ジェイムズ・ボンドみたいな切った張ったの冒険活劇も面白いけれど、こういう文化を利用した情報戦もなかなか興味深いものがある。プロパガンダは何も戦時中には限らないということか。

ところで、上の引用文ではセリーナが小説に求めていることが明快に示されている。これを読んで、自分は小説に何を求めているのかと考え込んでしまった。というのも、僕はセリーナみたいに自分の好みを具体的に言語化することができないのだ。大雑把に言えば、ある程度の芸術性があって、ある程度の娯楽性があって、ある程度の文章力があれば望ましい。このブログで高評価をつけているのがその代表例である。ただその反面、僕はジャンル小説やエンタメ、ラノベ*1なども好んで読むので、必ずしも前述の条件が絶対というわけでもない。結局、僕は小説に何を求めているのだろう? 思わぬところで本読みとしての根源的な問いを突きつけられたのだった。

*1:最近は『キノの旅』【Amazon】がお気に入り。