海外文学読書録

書評と感想

フランソワ・ラブレー『第五の書』(1564)

★★★

聖なる酒びんのご宣託を受けるべく航海を続けるパンタグリュエル一行。彼らは教皇鳥や貧欲騎士団長鳥といった奇妙な動物が生息する<鐘の鳴る島>や、ナンセンスな仕事に溢れる<カント国>など、様々な島を訪れる。やがて一行は信託所に到着、念願のお告げを受けるのだった。

「じゃあ、突撃だ!」と、パニュルジュがいった。「悪魔軍団のどまんなかに突進しましょうや。お陀仏になるといったって、しょせん一度きりのことさ。でもね、おいらは命をね、別の戦いのために、ちゃんと取っておくからね。えいさ、ほいさ、突撃だい! おいら、勇気凛々としてきたぞ。たしかに心の臓は震えてるけんど、これはだね、この地下の洞穴の寒さと、こもったにおいのせいに決まってる。恐怖のせいではないんじゃ、熱でもないんじゃ。突撃、突撃! 突進するぞ、突っこむぞ、おしっこするぞ! 音にも聞け、われこそは、恐れ知らずのギヨームであるぞよ!」(p.263)

『第四の書』の続編。

ラブレーの死後(11年後)に出版された完結編だけど、どうやらラブレーの草稿を元にした偽書という説が有力らしい。相変わらず、古代ギリシャ古代ローマの小ネタが多数盛り込まれているので、これを書いた人はラブレーと同等のルネサンス文化人という気がする。読み味も前作とそんなに変わらないかな。ただ、訳者は本作に不満のようで、前4作と比べて「文学的な価値はがくんと落ちる」(p.487)と評している。

当時から貧困層は子沢山だったとか、梅毒は十字軍の遠征によってもたらされたものだとか、昔の人の現実認識が垣間見えるところが興味深い。それと、貧困のことを聖フランチェスコ病と呼んでいるのも気が利いている。もちろん、例によって教会への風刺も忘れておらず、のっけから教皇鳥みたいなへんてこなキャラを出している。個人的にこのシリーズ、ルネサンスによってキリスト教が相対化された様子が見て取れて面白い。

古典を読むときと現代小説を読むときというのは、みんな脳内のチャンネルを切り替えて読んでいると思うけど、とりわけこういう奇妙な小説を楽しむには、こちらが正確にチャンネルを合わせる必要があるから難儀である。リアリズム小説の尺度で神話的な小説を測れないように、現代小説の尺度では古典を測ることはできない。その意味で本作はちょっと難物で、このテクストがどういう意図のもとで書かれたのか、教会権力への風刺だけが目的なのか、何のためにくだらない下ネタを入れているのか、想定する読者層はどういったものなのか、などといった疑問がぐるぐる回る。『ドン・キホーテ』【Amazon】と同様、解説書を読んでみたいと思わせる小説だ。

ところで、本作の語り手は何者なのだろう? 語り手は一人称で物語っており、地の文では「わたし」や「われわれ」が使われている。どうやらパンタグリュエルの随行者の一人のようだけど、名前や職業が謎でどういう身分なのかさっぱり分からない。これ、前作も一人称の語りだっただろうか? 手元に本がないので後で確認しておきたい。