海外文学読書録

書評と感想

賈平凹『土門』(1996)

★★★

西京の郊外にある仁厚村。若い娘の梅梅(メイメイ)は、婚約者の老冉(ラオラン)がなかなか結婚を申し込んでこないのにやきもきしつつ、アマチュア小説家の范景全(ファンチンチュエン)に師事して通信教育を受けていた。旅に出ていた成義(チョンイー)が村に戻ってくると、投票によって彼が新しい村長になる。農村の都市化が進むなか、彼は村を取り壊しから守ろうとしていた。

「あんたのほんとのねらいは、はたの者には丸見えだわ。みんなして村を守ろうとしているのに、あんたときたら、家を建てて、取り壊される日を待ってるんだから。取り壊した分だけ返してもらえば、新しい家がそれだけ余分に手に入るって寸法でしょ。だけどそれをやると、この村を早くつぶしてくれと拝むようなもので、みんなの気持ちはばらばらになるじゃないの?!」

「それなんだよ、わたしの考えは。こんな村を守ってなんになるね? このとおりのおんぼろ家で、暖房はなし、風呂を沸かす水はなし、下水道はなしで、泥の壁に泥の屋根、これで街のハイカラビルに暮らすのと較べてどこがましかね? 胸に手を当てて考えてみておくれ、農民でいるのがいいか、街の人間になるのがいいか」

「街で暮らしたところで、あんたはやっぱり農民なのよ」(p.133)

タイトルには「トゥーメン」とルビが振ってある。

都市化の波が襲う郊外の村を舞台にしている。この本が出た前世紀末は、日本でも「21世紀は中国の時代」と言われていたけれども、その経済成長の陰には様々な歪みがあって、本作のような出来事もその一つなのだろう。農業大国から工業大国へ。明朝から続く由緒ある仁厚村にもその波はやってきて、村長たちは土地開発会社を相手に闘争を繰り広げる。薬坊を作って全国から肝炎患者を集めたり、勝手に石の牌楼を作ったり、みんなでデモ行進をしたり。正直、共産党が独裁的な支配をしている国で、こんな反抗的なことができるのかと疑問に思った。特に天安門事件が起こった後では尚更。でもまあ、フィクションだからその辺は作り話として割り切るべきなのだろう。中国の人民はやけに逞しくて、こういう大地から英雄は出てくるのかとある意味納得してしまった。新しく村長になった成義なんかはその典型で、彼の右手は切断した後に女の手を継ぎ接ぎするという聖痕を背負っている。謎めいた過去を持つ彼の顛末は英雄的でなかなか見ものだった。

梅梅の幼馴染である眉子(メイズ)は都会に憧れていて、遂には村と対立することになる。どちらかいうと僕も眉子の立場に考え方が近くて、水洗便所もないような場所で暮らすのはかなりきついかなと思う。これは自分がそういう文化的な生活に慣れているからで、やはり一度便利さを味わってしまうと元には戻れない。だから、村人たちが必死に抵抗するのは理解しがたかった。無知ゆえの行動じゃないかと思った。おそらく日本でも高度経済成長期に似たようなことがあったと思うのだけど、当時の日本人はどう受容していたのだろう? 地上げ屋に恐喝されて住居を退去したから相当理不尽に思ったはず。でも、結果的には生活水準が向上したのではなかろうか? 個人的には、生まれ故郷に執着することにあまり意味を見い出せないのだった。

村からの追い出し騒動に対して、自分たちを陳勝呉広になぞらえるところはさすが中国という感じがした。また、清朝末期と民国時代に処刑人をやっていたという老人がなかなかのインパクトを残している。このように歴史と繋がっているところが中国文学のいいところだ。