海外文学読書録

書評と感想

グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』(1978)

ヒューマン・ファクター―グレアム・グリーン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

ヒューマン・ファクター―グレアム・グリーン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

 

★★★

イギリス秘密情報部六課Aに勤めるモーリス・カールスは、南アフリカ在勤時代に知り合ったサラという黒人の連絡員と結婚し、彼女の連れ子と3人で平和に暮らしていた。そんな折り、六課から内部情報が漏洩していることが発覚する。上層部はカールスの同僚デイヴィスを疑い、彼の暗殺を目論むが……。

老貴族はそれには答えず、友人たちに向かって、「大佐とはハーグリーヴズの邸で会った。現在はこのひと、例の内緒内緒の役所に勤めておられる。ジェイムズ・ボンドのお仲間だよ」

友人のひとりがいった。「わしはまだイアン・フレミングの小説を読む幸運に俗しておらんのだ」

すると、もう一人のほうも、「あれはわしにはセクシーすぎる」といった。「はったりも強いし……スパイ小説に目のないわしだが、むりして読むほどのものとは思わんな。閑つぶしなら別だが」(pp.200-201)

旧訳(宇野利泰訳)で読んだ。引用もそこから。

やはり冷戦期のスパイ小説は、資本主義国VS共産主義国と対立軸がはっきり分かれているから面白い。現代人の観点からすると、アメリカやイギリスを裏切ってソ連の二重スパイになる連中の気が知れないけど、当時のスパイ小説を読むと、それなりに納得できる動機があったんだなあと感慨深くなる。本作の場合、ごく個人的な恩義というのがベースにあって、そこにはアパルトヘイトという巨大な社会悪が背景にある。さらに、本作の二重スパイは共産主義者でないところがポイントで、人は何に忠誠を誓うのか、どういった価値観に重きを置いて生きていくのか、そういう人としての生き様を明るみに出している。思うに、西側から二重スパイに転向する人間には正義漢が多いのではなかろうか。祖国に忠誠を誓うと言えば聞こえはいいけれど、実は人間にはもっと身近に大切なものがあって、それを守るためにはあっさりと国を裏切る。スパイみたいな極端な現実主義者になると、国家という虚構にはもはや騙されないのだろう(この辺はユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』【Amazon】を参照のこと)。家族でも義憤でもとにかく何でもいいけど、みんな自分のなかにある大切なもの――国家を超える何か――を守るために生きている。実に人間臭い話ではないか。

本作は終わり方が良かった。え? ここで終わりなのかよ? というブツ切れ感があるけど、それがかえって余韻を醸し出している。こういう文学的なスパイ小説をもっと読みたいと思った。