海外文学読書録

書評と感想

チョ・ナムジュ他『ヒョンナムオッパへ:韓国フェミニズム小説集』(2018)

★★★

アンソロジー。チョ・ナムジュ「ヒョンナムオッパへ」、チェ・ウニョン「あなたの平和」、キム・イソル「更年」、チェ・ジョンファ「すべてを元の位置へ」、ソン・ボミ「異邦人」、ク・ビョンモ「ハルピュイアと祭りの夜」、キム・ソンジュン「火星の子」の7編。

もう一度はっきり言うけど、プロポーズはお断りします。私はもうこれ以上、「カン・ヒョンナムの女」としては生きない。オッパは、プロポーズらしいプロポーズがなかったから私が迷ってるんだと思ってるみたいだけど、違います。違うって言ってんのに、なんでそんなことばっかり言うんだか、わけがわからない。私は自分の人生を生きたいから、あんたと結婚したくないの。本格的に結婚の話が出て初めて、何となく気が進まなかった理由が全部わかったんだからね。これまでオッパが私を一人の人間として尊重しなかったこと、愛情を口実に私を囲い込んで、押さえつけて、ばかにしてきたこと、そうやって私を無能な臆病者にしたってことも。(pp.34-35)

このアンソロジーは二つの意味で僕には異文化である。まずは韓国文学であること。日本人の僕にとって韓国は異国である。そして、もうひとつはフェミニズム小説であること。男性である僕にとってフェミニズムは馴染みのない思想である。というわけで、二つの異文化に同時に触れることができたのが収穫だった。

以下、各短編について。

チョ・ナムジュ「ヒョンナムオッパへ」

書簡体小説。司書職公務員として働く30歳の「私」が、5歳年上の恋人ヒョンナムオッパに別れの手紙を書く。

これは男性が読んだら身につまされるのではなかろうか。オッパは基本的には子供好きのやさしい人物だし、暴力も振るわないのだけど、しかし恋人のやることに干渉しすぎている。2人が大学で出会った10年前から、そういう保護者的な傾向があった。何よりきついのが、オッパが「私」の事情を考えずに公務員の勉強をさせるところで、「君がそんなに弱い人だとは思わなかった。そんなことじゃ君と一生安定した家庭を築いていく自信が持てない」とか、「俺が君のためにここまでやってるのに、君は自分の勉強もできないっていうのか?」とか、そういう萎えさせる言葉を平然と投げつけている。こういうのは子育てにもよくあって、世の毒親はオッパみたいな態度で子供を抑圧している。

この手紙で特徴的なのが、オッパの行動を回想してはそれにダメ出しをしているところだ。僕も恋人と喧嘩したとき、自分の駄目な部分を逐一指摘されたので、女性はこういうのを普段から溜め込んでいるのだなあと身をもって知ったのだった。何でそんな昔のことまで? みたいな指摘もあった。人間というのは表向きの態度だけでは測れない。

オッパと決別して自立に向かうラストは痛快。『人形の家』【Amazon】を思い出した。

チェ・ウニョン「あなたの平和」

30代半ばの女性ユジンには、母から溺愛されているジュノという弟がいた。そのジュノが結婚することに。母のジョンスンは普段から不満をユジンにぶつけており、ジュノの結婚でも色々不満を募らせている。

男と女が一緒になって家族を形成し、円満な生活を送ろうとすると、結局は女のほうにしわ寄せがいってしまう。ジョンスンは家庭内で一番ストレスのかかる立場にいるし、娘のユジンは過去に男から不愉快な目に遭わされた。女として平穏に生きるのは難易度が高いと思わされる。

母と娘が共依存の関係になるのってわりとよくあると思う。私事で恐縮だが、実家の母と祖母がそんな感じだ。僕が育った家庭は父がマスオさん的な境遇なのだけど、家庭内は典型的な家父長制だった。つまり、稼ぎ頭の父が一番偉いというわけ。でも、そういう体制なのに不思議と目立ったトラブルは起きなかった。それもこれも母が我慢したおかげだろうか?

キム・イソル「更年」

更年期を迎えた「私」には、成績優秀な中学生の息子とアイドルに夢中な小学生の娘がいた。息子は勉強の息抜きに女たちと愛のないセックスをかわし、娘は勉強そっちのけでダンススクールに通いたいと言い出す。「私」は息子と娘の行為に不満だったが、夫はどちらも問題にしていない。

女性の悲劇は、子供を産めるのが女性だけという生物学的な要素が大きいのだと思った。それが社会的圧力の原因になっている。なので、試験管で子供を作れるような環境を用意するのが、我々人類にとって急務なのだろう。科学者はこういう部分を優先して研究していくべきではないか。

「私」の妹は社会通念に縛られず、一人で自由に生きているけど、あれはあれで将来が大変だと思う。というのも、結婚には現状福祉の意味もあるので。一人だと大きい病気をしたら詰んでしまうし、何より老後になってからは面倒を見てくれる人がいなくて困ってしまう。いわゆる「おひとりさま」ってやつだ。まあ、どちらも金さえあれば解決するのだけど。

チェ・ジョンファ「すべてを元の位置へ」

「私」は再開発事業で人々が立ち退いた建物の内部を撮影する仕事をしている。「私」の手に湿疹が出た。課長はそのことをしきりに聞いてくる。それと、動画に不自然な点があった。

終盤で意外な真相が明らかになって、湿疹にも明確な意味が現れる。ちょっと寓話っぽいかもしれない。韓国の再開発事業については別の小説にも出てきたので、かなり大きな出来事だったのだろう。その末端で働く「私」は、不本意ながら男性の手先みたいな立場になってしまうのだ。どうすれば折り合いがつけられるのか、その答えは僕には分からない。

ソン・ボミ「異邦人」

有能な刑事だった「彼女」は、2年前の事件で失敗して以来、仕事を休んで引きこもっている。「彼女」はバーチャル自殺中毒になっていた。一方、「彼女」の後輩の「彼」は、「彼女」を復帰させようとたびたび訪問してくる。

そういえば、韓国映画ってノワールが多かったなあ。そういう文脈で本作は書かれたのか。「彼女」が引き合いに出したフィリップ・マーロウは「卑しい街をゆく高潔の騎士」だったけれども、男女逆転してもその辺は変わらないみたい。女性刑事を主人公にした本作は、女性探偵を主人公にした『女には向かない職業』【Amazon】と読み比べてみるといいかも。

ク・ビョンモ「ハルピュイアと祭りの夜」

地方の島で女装コンテストが開催。ピョはハンの代理でコンテストに参加する。ハンは交際していた女性に訴えられて執行猶予になっていた。島に参加者が集まったとき、ハンターたちの襲撃が始まる。

やはりフェミニズムミサンドリーは切っても切れない関係にあるのではないか。というのも、ネットで観測する限り、フェミニストを自称する女性には根強い男性嫌悪を抱いた人が多いのである。彼女らは男性のことを「ちんさん*1」と呼び、逆リョナ*2を妄想しては日頃の鬱憤を晴らしている。本作もその系譜に連なるのではと思ったのだけど、これは穿ちすぎだろうか? フェミニズムの構造的欠陥は、そのなかにミサンドリーという悪を内包しているところにある。

キム・ソンジュン「火星の子」

クローンの「私」が宇宙船で目覚める。「私」は火星に向けて打ち上げられていた。「私」のところにライカの幽霊と思しき犬がやってきて言葉をかわす。

いくらクローンでも人間を――それも妊婦を――実験に使うなんて酷い話だと憤慨したのも束の間、出産がポジティブに描かれていて好感が持てた。フェミニストって妊娠や出産を足枷だと否定しているのではないかと思っていたので。掉尾を飾る本作は意外と後味が良かった。

*1:男性器をもじった呼称。

*2:男性が四肢切断などの猟奇的な虐待を受けること。

マリオ・バルガス=リョサ『悪い娘の悪戯』(2006)

★★★★★

1950年。ペルーのリマで暮らす少年リカルド・ソモクルシオは、チリから引っ越してきたリリーとルーシーの姉妹と知り合いになる。リリーと事実上の恋人関係になったリカルドだったが、ある出来事がきっかけで離ればなれになる。10年後、パリで就職活動をしていたリカルドは、リリーと意外な形で再会するのだった。

「愛してる」軽く耳たぶを噛みながら、ささやきかける。「これまでになくきれいだよ、ペルー娘さん。どうしようもなく君が好きだ。君が欲しくてたまらない。この四年間、君を求め、愛することばかり夢見てきた。その一方で君を恨んでもきたよ。昼となく夜となく、来る日も来る日もね」(p.134)

40年にわたる大恋愛を、その時々のペルーの政情や、ヨーロッパ文化の変遷を背景に描いている。とにかく通俗性が高くて面白かった。読む前は「恋愛小説っていまいち気乗りしないな」と思っていたけれど、いざ読んでみると牽引力が抜群で、読後は「いい小説を読んだなあ」と満足感に浸った。

あらすじに書いたリリーというのは偽名で、後にリカルドからニーニャ・マラと呼ばれることになる。この女がまたたちの悪い女で、リカルドを何度も裏切っては長年にわたって翻弄し続けている。リカルドはニーニャ・マラのことが好きで好きでたまらない。でも、ニーニャ・マラは彼の求愛を断り、あるときはチリ嬢リリー、あるときは同士アルレッテ、あるときはアルヌー夫人と立場を変えている。彼女にとって幸せとはお金であり、リカルドが思っているようなロマンティックな代物ではないのだ。確かにまあ、これはこれで一定の支持を得そうな見解ではある。日本でも都内の女子大生が東大に来て男漁りをしているけれど、その目的は将来の金持ちと結婚したいからであり、それを示すかのように「ヤレる女子大学生ランキング」なるものを雑誌*1が特集していた(そして、すぐさま炎上した)。男の価値は金。言葉にすると身も蓋もないけれども、実際そう思っている人がいるのも事実なので、なかなかつらいところである。

個人的にツボだったのが、日本を舞台にした第四章だ。リカルドはひょんなことから都内のラブホテルに入るのだけど、作者はそこの特徴を一通り描写したあと、「室内に足を踏み入れた瞬間、実験室か宇宙ステーションにでもいるような感覚に陥った」と書いている。僕も初めてラブホテルに入ったときはその異空間ぶりに衝撃を受けたので、リカルドに対して「同志よ……」と心のなかで声をかけた。それと、この章ではフクダという謎めいた人物が出てくるのだけど、彼がまた色々な意味でやばい奴で、外国人から見た日本のアウトローはこういう感じなのかと得心したのだった。この第四章は、とりわけ日本人にとって興味深い章と言える。

ニーニャ・マラは籠のなかで飼いならせるような鳥ではなく、歳を重ねた終盤になっても一波乱を起こしている。この小説、終わってみれば「いい話だったなあ」と思うのだけど、しかしこういう離れたりくっついたりの大恋愛は他人事だからいいのであって、もし自分が同じ状況に置かれたら途方に暮れるしかないだろう。一人の女に翻弄され続けているうちに還暦近くまで来ている……。人生って何なのだろうなあ。やはり平凡が一番だよ。フィクションはフィクションとして楽しみつつ、ふと自分の人生を顧みたのだった。

*1:「週刊SPA!」2018年12月25日号。Amazonではなぜかこの号だけ売ってない。

パク・ミンギュ『カステラ』(2005)

★★★★

短編集。「カステラ」、「ありがとう、さすがタヌキだね」、「そうですか? キリンです」、「どうしよう、マンボウじゃん」、「あーんしてみて、ペリカンさん」、「ヤクルトおばさん」、「コリアン・スタンダーズ」、「ダイオウイカの逆襲」、「ヘッドロック」、「甲乙考試院 滞在記」、「朝の門」の11編。

地球の年齢はだいたい四十五億年である。人類の年齢は三百万年で、僕は二十歳である。誰が何と言っても、世代差は生じるしかない。それに比べたら、資本主義の年齢はせいぜい四百年にすぎない。僕はどうしたってこっちのほうが気楽だった。言葉と心が通じ、何より食べたり飲んだりするもの、着るものなど似ている。つまりそんなわけで、僕は地球や人類よりは資本主義と共に生きてきたといえるのだ。僕らは共に老いていく。あなたならきっと、僕の言っていることがわかるだろう。(pp.97-98)

現実と超現実が同居する独特の世界観を軽妙な語り口で作り上げている。なので、通常のリアリズム小説に飽きた人にお勧め。文学とは自由なのだということが分かる。あと、これから韓国文学を読もうという人には入門書としていいかも。翻訳がとても読みやすい。

以下、各短編について。

「カステラ」。「僕」は自宅の冷蔵庫を前世でフーリガンだったと思っている。その冷蔵庫は騒音が酷かった。「僕」が冷蔵庫の効果的な使い方を人から聞いたとき、世界は一変する。途中から超現実的な状況に突入していってとても面白かった。冷蔵庫の中におやじとか、大学とか、挙げ句の果てには中国なんてものも入れている。一見すると手当たり次第に思えるけど、実は明確な原則に沿っていて、大切なものと世の中に害悪を及ぼすものだけ入れてるという。このとぼけた感じがたまらないうえ、意外な転回をしたラストがなかなかエモい。一読してこの小説の虜になった。

「ありがとう、さすがタヌキだね」。インターン社員の「僕」は、7人の競争者と共に仕事をしている。この中から正社員に採用されるのは1人だけ。「僕」は班長に頼まれてPCにエミュレータをインストール、班長はそれでタヌキのゲームをする。本作にも超現実的な要素が出てくるけれど、これは壮大な現実逃避みたいな感じで、いくばくかの悲しみがある。男色家の部長にサウナに連れ込まれて、性的なナニをされるのはきつい。学生から社会人になるときのつらさは、日本も韓国も変わらないみたいだ。

「そうですか? キリンです」。高校生の「僕」は夏休みにガソリンスタンドとコンビニでバイトをしていた。「僕」のおやじは稼ぎが悪く、一家は経済的に恵まれていない。そんなとき、コーチ兄貴からプッシュマンの仕事を紹介される。読んでいて、日本の「失われた20年」を思い出してしまった。「僕」は高校生にして「自分だけの算数」を身に着け、バイトをしてお金を貯め始める。状況としてはかなり世知辛いのだけど、不思議と雰囲気は重々しくない。それが本作のいいところだ。

「どうしよう、マンボウじゃん」。カナダに早期留学していたデュランが帰国した。「僕」とデュランは色々あってマンボウホテルへ行き、遂には宇宙へと旅立つ。地球は平面だった。というか、巨大なマンボウだった。これは今までの短編よりもシュール度が高くて、何と言えばいいのかよく分からない。世界がしょうもないから外出するという発想は、同じ著者の『ピンポン』に通じるかも。

「あーんしてみて、ペリカンさん」。遊園地とは名ばかりの「貯水池」で働いている「僕」は、そこでスワンボートの係をしていた。あるとき、スマートな身なりをした中年男性がやって来てボート内で自殺する。彼は倒産した中小企業の経営者だった。この頃の韓国は不景気だったみたいで、語り手の「僕」は73社に履歴書を送ってどこからも連絡がなかった過去を持つ。まるで日本のロスジェネみたいだ。本作の全体をこの不景気が覆っているのだけど、例によってそこはあまり重苦しくなく、スワンボート世界市民連合の存在がとぼけた味わいを出している。

「ヤクルトおばさん」。『お笑い経済学辞典』を読んでいる「僕」は、15日間便が出なかった。「僕」は病院の大腸肛門科に通うことに。アダム・スミスドードー鳥が論じられる冒頭から引き込まれた。なぜそこでドードー鳥の話題? って不意を突かれたので。その後、ビンス・タトゥーロという架空のブルース・ミュージシャンが出てくるくだりはアメリカ文学を彷彿とさせる法螺話で、物語は予測不可能な進路を辿る。韓国にもヤクルトおばさんがいたのは意外だったね*1

「コリアン・スタンダーズ」。会社員の「僕」は妻子持ちの40歳。「僕」は学生運動で名を馳せたキハ先輩から連絡を受け、彼の住む農村へ赴く。キハ先輩によると、宇宙人の襲撃を受けているという。今までの短編では若者に焦点が当てられていたけど、今回は中年男性が語り手をしている。政界からの誘いを振り切って農民運動に身を投じたキハ先輩には好感が持てる。それにしても、円盤が出てくるのはシュールだなあ。人間、歳をとったら規格品になる。

「ダイオウイカの逆襲」。「僕」は子供の頃、少年向け雑誌でダイオウイカの存在を知る。「僕」はダイオウイカから人類を守ることを誓うのだった。21年後、空軍の戦闘機パイロットになった「僕」はダイオウイカに遭遇する。相変わらず、登場人物のちょっとズレた感じがいい。特に学校の先生。韓国ってダイオウイカよりも北朝鮮のほうがやべーだろって思ったけど、そういえばこの短編集には北朝鮮の北の字も出てこなかった。というか、もうダイオウイカ北朝鮮でいいや。

ヘッドロック」。アメリカに留学していたときのこと。「僕」は道でハルク・ホーガンと出会う。彼にヘッドロックをかけられた「僕」は、右脳と左脳が分離して幻覚を見るのだった。これはまたへんてこな話で、覚醒した「僕」が体を鍛えて見知らぬ人たちを襲撃してヘッドロックをかけまくる展開が何とも言えない。そして、9年後にもヘッドロックがつきまとう。まさにヘッドロック尽くし。

「甲乙考試院 滞在記」。1991年春。父の会社が不渡りを出して経済的に苦しくなった「僕」は、格安で住める甲乙考試院に入居する。そこは本来、受験者向けの住居施設だったが、今では日雇い労働者や風俗店の従業員がアパートとして使っていた。入居者の部屋は厚さ1センチのベニヤ板で仕切られているだけのようで、これじゃあレオパレスより酷いだろと思った。物語は色々あったけど、最後は温かく締めている。途中から入居してくるキム検事が印象的で、『キテレツ大百科』【Amazon】の勉三さんを連想した。

「朝の門」。本作については、段々と状況が明らかになる序盤が面白いのであらすじは書かない。例のあれが出てきたときは「あっ」と驚いた。本作は今までとは違ったシリアスな作風になっていて、著者はこういう正統派な短編も書けるのかと意外に思った。題材は万国共通の事柄を扱っていて、日本人の僕でも身近に感じる。

*1:Wikipediaによると、ヤクルトレディーは中国やインドネシアなどのアジア地域や、ブラジルなどの南アメリカ地域で販売、普及活動を行っているという。

マーガレット・ミラー『まるで天使のような』(1962)

★★★★

博打打ちのクインはリノで有り金をすった挙げ句、車に乗せてくれた知人に山中に置いていかれる。クインは近くにある新興宗教の施設〈塔〉に助けを求め、そこの修道女に親切にしてもらう。そして、クインが私立探偵の免許を持っていること知った修道女に、オゴーマンという男の近況を探るよう依頼される。クインが町へ行って調べると、オゴーマンは5年前に行方不明になっていたことが分かった。

二人は外に出た。満月に近い月が、セコイアの木の間に低くかかっていた。空にはクインがいままで見たことがある夜空より何百も多く星が出ていた。そしてしばし足をとめて眺めているうちにもさらに数が増えてきた。

「空を見るのは初めてなの?」〈祝福の修道女〉が少しじれたようにいった。

「こんなのは初めてだ」

「いつも同じだけど」

「おれには違うものに見える」

修道女は心配そうな目でクインの顔を見あげた。「宗教的な経験をしているような気がする?」

「宇宙というのはすごいなと思ってるんです。それに意味をつけたいのならご自由に」(pp.37-38)

ジャンルで言えば、私立探偵小説になるだろうか。とても面白い構成のミステリだった。このジャンルの小説ってたいていは序盤で殺人が起きて、失踪人の謎から殺人の謎に切り替わるのだけど、本作の場合は終盤(残り1/4)でようやく殺人が起きる。序盤から続いた失踪人の謎は、殺人か失踪かで宙吊りになっていて、事実が確定するのは物語の最後だ。さらに、興味をそそるのが2つの異なる事件を並列させているところで、オゴーマンの事件とは別に銀行横領の事件が出てきて、両者が接近していく。そして、極めつけは世間から隔絶されている新興宗教〈塔〉の存在。〈塔〉の修道女はオゴーマンとどういう関係にあるのか? というのも大きな謎だし、この〈塔〉自体が浮世離れしていて不気味な存在感を醸し出している。本作は、失踪人の謎、銀行横領事件、新興宗教〈塔〉の三極が主な興味の対象になっていて、その絡み合いが面白い。

個人的にツボだったのは、残り1/4くらいのところで〈塔〉に新しい入信者が来た場面。ミステリの場合、終盤で新しい人物が出てきたら、それは既存の人物と深い関わりがあるだろうと疑う。たとえば、殺人の実行犯とか、誰かのなりすましとか。僕も「こいつは怪しいぞ」と注意を払っていたら、わずか6ページ後にその正体が明かされていて、見事に梯子を外された。もっと後まで引っ張るだろうと思っていたから。こんなに早く、しかも意外な形で正体を暴露するのだから苦笑するしかない。まんまとしてやられたのだった。

ラストで『狙った獣』【Amazon】ばりの狂気が出てくるところに著者の真骨頂を感じた。真相を明らかにするくだりは圧巻で、最後まで読んだ後にもう一度その部分に戻って読み返してしまった。特に「始末する」という言葉の選び方が巧妙。こういう綱渡り的な叙述もミステリの醍醐味だろう。読後、この人物はいつから狂っていたのだろう? と思いを馳せた。

ジュリー・オオツカ『あのころ、天皇は神だった』(2002)

★★★★

1942年春。アメリカで日系人に対する強制退去命令が出される。バークレーに住む一家は、母と娘と息子の3人暮らし、父はFBIによって逮捕・収監されていた。やがて一家は列車でユタ州に向かい、日系人用の収容所で暮らすことになる。

夢のなかには、いつも美しい木のドアがあった。その美しい木のドアはとても小さく――枕ほどの大きさ、というか、百科事典くらいというか。小さいけれど美しいそのドアのむこうには、二番目のドアがあり、二番目のドアのむこうには、天皇陛下の写真があるが、それは誰も見ることを許されなかった。

なぜなら、天皇陛下は神聖だから。神なのだ。

まともに見てはならない。(pp.89-90)

日系人収容所という題材も興味深いのだけど、それと同じくらい表現の手法も興味深かった。というのも、本作は物語の焦点となる一家に対して固有名詞を一切使わず、終始「女」や「女の子」といった代名詞で呼んでいる。彼女らが何という名前なのかは最後まで分からないままだ。これは本作が特定個人の物語ではなく、もっと広いみんなの物語、誰でも同じ立場になり得る普遍的な物語、そのようなことを匿名にすることで表わしているのだろう。この手法は後に『屋根裏の仏さま』で先鋭化される。デビュー作から既に問題意識があったのに驚いた。

一家の父は既に収監されて離ればなれ、さらに残された自分たちも砂漠にある収容所に入れられる。そんな理不尽な状況だけど、物語に悲壮感はなく、淡々と出来事なり記憶なりが綴られている。面白いのは、ある年配の女性が「ここに来られて幸せ。マウント・エデンよりましだよ。料理もしない、仕事もしない、洗濯だけしてりゃいいんだから」と述べているところだ。彼女は25年間一度も休暇を取らずにイチゴ畑で働いていたそうで、日系移民の生活の過酷さが透けて見える。また、収容所の外では映画館や洋品店などで「ジャップはお断り」、ある人物が「フェンスのこっち側のほうが楽に暮らせる」とも言っていて、僕が収容所に抱いていたイメージが覆された。現代日本でも刑務所が障害者やホームレスの福祉になっている例があるから、当時の収容所にもそういった側面があったのだろう。率直に言えば、こういう人種差別に根ざした収容所なんてムカつくことこの上ないのだけど、しかし本作はそれだけでは収まらない意外な面を明らかにしていて、物事を単純に捉えることはできないと痛感した。

戦後は収容所から解放されて帰宅、いつもの日常に戻れるかと思いきや、日系人というだけ就職を断られ、相も変わらず差別が続いている。結局のところ、一度状況が変わってしまったら、もとに戻すのは困難なのだろう。収容所よりも娑婆のほうが生きづらいのが何とも皮肉で、これは人間が集団生活をするうえでの避け難い宿痾なのだと思う。

最後の「告白」と題された短い章は迫力があって、それまでの鬱憤を一気にぶちまけたかのような激しさが鮮烈だった。散文詩と見まごうこの終わり方はすごい。この衝撃を味わうためだけに本作を読む価値はある。正直、読了直後は評価を星5にするかどうか迷ったほどだ。