海外文学読書録

書評と感想

2018年に読んだ274冊から星5の15冊を紹介

このブログでは原則的に海外文学しか扱ってないが、実は日本文学やノンフィクションも陰でそこそこ読んでおり、それらを読書メーターに登録している。 今回、2018年に読んだすべての本から、最高点(星5)を付けた本をピックアップすることにした。読書の参考にしてもらえれば幸いである。

評価の目安は以下の通り。

  • ★★★★★---超面白い
  • ★★★★---面白い
  • ★★★---普通
  • ★★---厳しい
  • ★---超厳しい

 

2003年に京都大学で行われた講義録。各作品をあらすじに沿いながら読み解いている。

講義に使われているのは以下の11作。

取り上げている作品は硬派だが、講義の内容は初心者向けで分かりやすい。これから本格的に海外文学を読んでいこうという人にお勧め。特に『アンナ・カレーニナ』の項は、『ナボコフロシア文学講義』【Amazon】と読み比べてみると面白い。評価や着眼点がまったく違うところが参考になる。

アンナ・カレーニナ』は、不倫に走った人妻が最後に汽車に飛び込んで、自殺を遂げる話です。しかも汽車に轢かれると無惨な姿になることは、物語の初めの頃、ヴロンスキーとアンナが最初に出会った場面で、ヴロンスキーが凄惨な轢死体を目撃するという形で書いてあるのです。最初に仕込みがしてある。「汽車で死ぬというのは、こういうことだ」と陰惨な轢死体を見せたうえで、話を最後まで持っていって、同じ状況にヒロインを落とし込む。これはあざといとぼくは思います。
不倫に走った人妻は結局こういう目に遭うというメッセージと、田舎で誠実に働いている農場主はいい妻を貰えて子供は幸せになるというメッセージ。単純過ぎます。しかもこのよく働く農場主は明らかにトルストイ自身を想起させる。(p.122)

これはなかなか鋭い見解だと思う。

 

上下巻。

本書の内容は以下の引用の通り。

私が本書で取り組もうとしているのは、家庭内から地域、異なる部族や武装集団同士、さらには国家間にいたるまで、さまざまな規模における暴力の減少という問題である。もしそれぞれの規模における暴力の変遷の歴史が、独自の軌跡を描いているのであれば、別々の本を書かなければならなかったところだ。しかし私をくり返し驚かせたのは、あらゆる規模の暴力における世界的な傾向が、今日の視点から見て下降しているということだった。(上 p.14)

上下巻合わせて1300頁近くある大著で、上巻は主に歴史学の見地から、下巻は社会学脳科学・心理学の見地から、人類史における暴力の減少を論じている。ビル・ゲイツがオールタイム・ベストに挙げた本だけあって、その面白さは折り紙つき。幅広い学問領域を横断しているため、知的好奇心が刺激される。

 

つまるところ時々の戦争は、国際関係、地域秩序、当該国家や社会に対していかなる影響を及ぼしたのか、また時々の戦争の前と後でいかなる変化が起きたのか、本書のテーマはここにあります。(p.8)

中高生に向けた講義録。昨年読んだ『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』【Amazon】には蒙を啓かれたが、その前著にあたる本書も負けず劣らずの良書だった。本書の柱は、日清戦争日露戦争第一次世界大戦満州事変と日中戦争、太平洋戦争の5項目。日本がどのようにして戦争に突入していったのかを分かりやすく解説している。教科書では教えてくれない、日本の近現代史の細部を知りたい人にお勧め。

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ミュリエル・スパーク『ブロディ先生の青春』(1961)

★★★

1930年代のエディンバラマーシア・ブレイン女子学院の中等部教師ジーン・ブロディは、進歩的な教師として校長に目をつけられていた。彼女はお気に入りの生徒を集めて「ブロディ隊」を作り、一流中の一流(クレーム・ド・ラ・クレーム)にすべく目をかけている。そんななか、ブロディ先生と男性教師に恋話が持ち上がり……。

「ブロディ先生って、ヒューと性行為があったのかしら」

「あったら、赤ちゃんができたはずじゃない?」

「わからないわ」

「たぶん、してないと思うな。二人の愛は次元が違うのよ」

「ブロディ先生が言ってたっけ。彼が最後の休暇のとき、ひしと抱き合ったって」

「服は脱がなかったと思うけど。どう思う?」

「そうね。ちょっと想像できない」

「私だったら、性行為はごめんだな」

「私も。汚れのない人と結婚したいわ」

「タフィー、食べようよ」(p.25)

チップス先生さようなら』【Amazon】の女性版かと思っていたら、えらい皮肉な話で面食らってしまった。一見するとブロディ先生は、教師としては進歩的で、歳を重ねても青春を謳歌し、生徒たちからは好かれている、そんな理想的な人物に思える。けれども、読んでいくうちに歪みというか、闇というか、そういう陰の部分が見えてくる。実はファシストの支持者でムッソリーニを尊敬しているとか、進歩的と言われながらも子供たちに教える価値観が硬直しているとか。挙句の果てには、ブロディ隊の一人を好きな人の愛人に差し出そうとしていて、この女はサイコパスかと思った。よくよく考えてみれば、教師は社会で揉まれていないぶん、どこか普通の大人とズレたところがあり、人として尊敬できる部分は皆無だった。少なくとも自分にはそういう記憶があった。大人と子供の間には圧倒的な力関係があるわけで、そんな環境で仕事をしていると精神が歪んでくるのだろう。ブロディ先生の闇も、教師という職業の宿命のような気がする。

ブロディ先生は本当に進歩的だったのだろうか。彼女は「科学よりも偉大なのは芸術よ。芸術がいちばん。その次が科学」とのたまっていて、現代人からすると賛否両論ありそうである。また、「まず、芸術と宗教。次に哲学。最後が科学。この世の重要なものは、いま言った順番で存在してるの。価値の高い順よ」と言い切っていて、ここまで来るともうアウトのような気がする。少なくとも進歩的ではないだろう。本当に進歩的だったら学問に優劣なんてつけないはずだ。ブロディ先生は保守的な校長と対立しているけど、教育者としての価値観だったら、校長と大して変わらないと思う。

物語は時系列通りには進まず、未来の出来事だったり過去の出来事だったりが自在に挿入されている。たとえば、物語の早い段階で、ブロディ先生がブロディ隊の誰かに裏切られ、定年前に退職させられたことが明かされている。このように未来を予告する手法をフラッシュフォワードと呼ぶそうだけど、そういえばこれって昔の小説によく使われていた。その起源はどこにあるのだろう? おそらく神話にまで遡るのだろうが、この手法がどのように発展していったのか、その系譜を追いかけるのも楽しそうである。

ジョン・チーヴァー『巨大なラジオ/泳ぐ人』(1978)

★★★★

短編集。「巨大なラジオ」、「ああ、夢破れし街よ」、「サットン・プレイス物語」、「トーチソング」、「バベルの塔のクランシー」、「治癒」、「引っ越し日」、「シェイディー・ヒルの泥棒」、「林檎の虫の虫」、「カントリー・ハズバンド」、「真紅の引っ越しトラック」、「再会」、「愛の幾何学」、「泳ぐ人」、「林檎の世界」、「パーシー」、「四番目の警報」、「ぼくの弟」、「何が起こったか?」、「なぜ私は短編小説を書くのか?」の20編。

「そしてすべての平和な鳩小屋はまがい物です」とクレイトンは言った。「人々が自らの人生をがらくたで埋めている、そのやり方。ぼくはそのことについてずいぶん考えてきました。そしてシェイディー・ヒルにとって本当にまずいのは、そこには未来がないように思えることです。その場所を無疵のものとするために、あまりに多くのエネルギーが費やされています。好ましくないものを排除するとか、そういうことです。みんなが抱いている未来の姿といえば、もっともっと通勤電車に乗ってもっとたくさんパーティーを開いて、というようなことでしかありません。それが健康的なことだとはぼくには思えません。人は未来についてもっと豊かな夢を夢見るべきです。大きな夢を心に抱けるというのが大事なことです」(p.210)

『The Stories of John Cheever』【Amazon】に収められた61編から、短編小説を18編、エッセイを2本選んで収録している。原書は1979年にピュリッツァー賞と全米批評家協会賞を受賞。

以下、各短編について。

「巨大なラジオ」(1947)

アパートの12階に住む中産階級の夫婦。新しく買ったラジオは醜悪なデザインだったうえ、周囲の電気に影響されて雑音を拾っていた。その後、業者に修理してもらうも、今度は人の声が聞こえるようになる。

ラジオが盗聴器みたいになって、様々な家庭のお喋りなり口論なりが聞こえてくる。妻はそれを聞いて病んでしまい、結局はまた修理してもらうのだけど、今度は幸せだった自分の家庭がラジオ越しに聞いた他所の家庭と変わらないようになってしまう。どの家庭もそれなりに問題を含んでいて、自分のところも例外ではなかったというわけだ。これって星新一みたいな皮肉の効いた話だと思う。彼のショートショートを肉付けしたらこうなるだろう。

「ああ、夢破れし街よ」(1948)

劇作家志望の男がプロデューサーに認められて、インディアナ州から家族を連れてニューヨークにやってくる。作家として成功して大金が手に入るかと思いきや、物事は順調に運ばないのだった。

アメリカン・ドリームという言葉があるけど、人生そう都合良くはいかない。妻のアリスはパーティーで歌唱の最後に演出のつもりで床に倒れ込むし、夫のエヴァーツは初対面の女性をなぜかリフトアップしているし、ちょっとこの人たちのやっていることがおかしい。田舎VS都会とはまた一味違った奇妙さである。

終盤になって劇のモデルになった女性が名誉毀損で訴えようとしているのには笑った。いかにもアメリカらしい顛末である。これぞアメリカ仕草。

「サットン・プレイス物語」(1946)

中産階級のテニソン夫妻にはデボラという3歳の娘がいて、彼女は乳母に面倒を見てもらっていた。乳母は元々裕福な家庭の夫人だったが、夫が財産を残さずに死んだので、仕方なく乳母に甘んじている。そんななか、家族の前にルネという35歳の女優が現れる。ルネとデボラは仲良くなるが……。

乳母もルネもそれぞれ満足のいく人生を送っているわけでない。そんな2人がある種の共犯関係を結ぶのだけど、それに綻びが出る。すなわち、デボラが行方不明になる。これを契機にテニソン夫人の闇も明らかになって、持てる者も持たざる者も順風満帆な人生を送っていないことが分かる。こういうのを読むと、田舎のしがないレッドネックのほうがまだ満たされてるんじゃないかと思う。

「トーチソング」(1947)

ニューヨークで知り合ったジャックとジョーンは、出身地が同じで年齢もだいたい同じ。2人は性別を越えてある種の友情を育んできた。ジャックとジョーンはそれぞれ別の人生を歩みながら、要所要所で関わっていく。

ジョーンはいわゆる「だめんず・うぉーかー」って奴で、交際している男たちから暴力を振るわれたり、財産を持ち逃げされたりしている。これならいっそのことジャックと結ばれたほうがいいのではと思っていたら、その裏にとんでもないカラクリが潜んでいた。ジョーンが死神みたいに感じられるラストが怖い。まるでホラー小説。

バベルの塔のクランシー」(1951)

ニューカッスルの農場出身のクランシーが、マンハッタンの高級アパートでエレベーター係をすることに。そこの住人であるロワントゥリー氏にいらぬ口出しをし、2人は知人として関わるようになる。

現代日本ではLGBTがブームになっているからつい忘れてしまうけど、昔は同性愛者が変態扱いされていたのだった。僕が子供の頃ですらそうだったので、本作が書かれた1950年代はもっと酷かったのだろう。クランシーが職責を投げ出してロワントゥリー氏とその恋人を拒否したのにはぶったまげた。社会の病根を見たような気がする。でも、クランシーの愚直な性格は嫌いじゃない。

「治癒」(1952)

ニューヨーク郊外の住宅地に住む「私」。口論のすえ、妻が子供たちを連れて家を出ていってしまった。「私」は最初の1ヶ月を治癒期間だと決めてスケジュールを設定する。ところが、夜中に林語堂の本を読んでいると、何者かがこちらを覗き見していた。

人は孤独になったとき、どうすれば癒やされるのだろう。今ならSNSがあるけれど、ネットのなかった時代はどうしていたのか。そんなことを考えながら読んでいたら、覗き屋が出てきて話が大きく動いた。どうやら近所の人らしい。でも僕はこれ、幻覚だと思うんだよね。孤独が生んだ幻覚。他の人はどう解釈したかな。

「引っ越し日」(1953)

マンハッタンの高級アパートで管理人をしているチェスター・クーリッジ。今日は住人の引越し日だったが、業者のトラックが予定通りに来なくて荷物が運び出せない。さらに、ポンプをコントロールするスイッチが壊れ、水回りに不安が出てくる。

目まぐるしいお仕事小説であると同時に、今いる階級から下の階級に落ちてしまう住人の悲哀を描いた物語でもある。かつて日本は一億総中流社会と呼ばれていた。けれども、ある時期から勝ち組と負け組に分かれるようになったので、没落の悲哀を味わった人ってけっこういると思う。日本文学にもこういう小説あるかな? ヒルズ族から転落したIT成金の話とか……。

「シェイディー・ヒルの泥棒」(1956)

郊外の高級住宅地シェイディー・ヒル。そこに住む妻子持ちのジョニー・ヘイクが、近所の人の財布を盗む。その後、彼は妻に文句を言われて家を出ることになる。

アメリカの高級住宅地は映画でしか見たことがないけど、恐ろしいほど画一的で何か気持ち悪いなあと思った。日本の新興住宅地ともまた一味違う。なぜ同じ間取りの家を何軒も建てるのか不思議でならない。

ヘイクが裕福の定義を「時間の余裕があること」としているのはその通りだと思った。「貧乏暇なし」や「時は金なり」という言葉があるくらいだからね。いくら金があっても医者みたいに忙しかったら意味がない。本を読んで、アニメを見て、ゲームをする。そういったゆとりがあってこその人生だと思う。

「林檎の虫の虫」(1956-1957?)

「シェイディー・ヒルの泥棒」のために書き下ろされたスケッチ。

「カントリー・ハズバンド」(1954)

飛行機事故に巻き込まれる導入部と、その後に続く家庭内のごちゃごちゃした状況が面白くて引き込まれた。郊外に住む中産階級の病理というか退廃というか、とにかくそういうネガティブな面を描くのが20世紀アメリカ文学のひとつの伝統になっているけど、まさか50年代から既に題材にされていたとは驚いた。ジョン・アップダイクが気に入るのも頷ける。思うに、高級住宅地の問題は多様性がないところかもしれない。日本もよく均質的な社会だと批判されるけど、同じ問題がここにはある。

「真紅の引っ越しトラック」(1959)

最初は悪酔いするジージーに対して不快感しかなかったけど、後半に入ってからはそんな彼が哀れに思えるから不思議だ。人間って結局、人付き合いしないと生きていけないから、そういうのからこぼれ落ちてしまう人はどうすればいいのだろうって話になる。妻のピーチズはよく別れないでいるよなあ。ジージーは完全に孤独ではないだけマシだと言える。

トラブルを起こすたびに引っ越しをするところは、まさに人間関係の焼畑農業といった感じで、SNS時代の現代に通じるものがある。僕もネット上では3年周期で付き合う人間が変わるからね。それくらい割り切らないとストレスで爆発してしまう。

「再会」(1962)

ショートショートみたいな短さだけど、父親のキャラが立っていてついニヤけてしまった。行く先々でユーモラスな言動をしては店から閉め出されることになる。日本だったら多少の無礼を働いても客として遇されるけど、アメリカはその辺がシビアだよな。むしろ売り手のほうが優位にすら思える。

「愛の幾何学」(1966)

夫は計算尺幾何学で人生の諸問題に向き合っているし、妻は捉えどころのない不条理な性格をしているし、これは何とも不思議な短編だった。夫が死ぬラストは意外なようで、わりとしっくりくるというか、もうここまで来たら何でもありだなと思う。

「泳ぐ人」(1964)

邸宅用のプールはいわば富の象徴で、それらを次々と回って目的地まで泳いで横断していくところは、高級住宅地ならではという感じがする。この短編を映像化するとしたら、冒頭に空撮のショットを入れるだろうね。ここにはプールがたくさんあるってことをひと目で分からせる。それにしても、空っぽの家に帰るラストは何かせつない。

「林檎の世界」(1966)

主人公の桂冠詩人村上春樹と重ねてしまって、彼はどういう気持ちでこれを翻訳したのだろうと邪推しながら読んでしまった。詩人はあらゆる名誉を受けながらもノーベル文学賞だけは受賞してない。もちろん、賞を欲しいと思っている。名誉の重さから言えば芥川賞の比じゃないから、村上だって絶対に受賞したいだろう。

本作は情景描写が良かった。家族の前で空中に散弾銃をぶっ放す父親が印象に残っている。さらに、滝の中に入ってから生まれ変わるラストも素晴らしかった。

「パーシー」(1968)

母親は絵画、息子は音楽と、芸術家小説の風味があるけれど、僕は読んでいて『女の一生』を連想した。どんなに才能があって高い教育を受けても、人生は思い通りにならない。医者と結婚しても、神童が産まれても、人生は思い通りにならない。

「四番目の警報」(1970)

妻が「全裸演劇に出たい」と言ってきたら夫はどう反応すべきなのだろう? しかも本作の場合、その劇がフィクション用にやや誇張されていて、おいおいそりゃないだろうってレベルになっている。

自分はここにいるべきではない、という場違いな感覚は僕もしょっちゅう経験しているので、終盤は身につまされるものがあった。

「ぼくの弟」(1951)

アメリカ文学お得意の家族もの。兄弟がそれぞれ家族を引き連れて集まるのってかなり気を使うよね。語り手の弟ローレンスが問題児扱いされているけど、彼がまた僕に似たいやーな性格をしていて、終始その肩を持つことになった。いや、だって、これくらい自我がなかったら生きている意味がないでしょう。僕からしたら自分の規範を押し付ける母親はヒステリーすぎるし、ムカつくからといって暴力を振るう兄は論外である。

「何が起こったか?」

エッセイ。「ぼくの弟」の創作秘話。

私は清教徒的な家族のもとに育った。子供の頃、すべての人の行為の根底にはモラルが潜んでいるし、モラルとは人間にとって常に有害なものだと教えられてきた。(p.353)

上の文章の意味がよく分からなかった。清教徒にとってモラルは有害なの?

「なぜ私は短編小説を書くのか?」(1978)

エッセイ。短編小説について。

長編小説はたしかに立派なものだが、そこではたとえちらりとではあっても、審美性と道徳適合性との間の神秘的連結を保つ「古典的統一性」に目配せすることを求められる。しかしそのような頑固に維持される古風さのせいで、我々の今の生活の持つ新奇さがそこから排除されるとすれば、それは残念なことである。(p.359)

僕が短編小説に求めてるものって何だろう? キレの良さだったり、鋭さだったりするのかな。あと、必要最小限のルートを辿るシンプルさとか。自分でもよく分かってないので、次回までの宿題にしておこう。

マリオ・バルガス=リョサ『アンデスのリトゥーマ』(1993)

★★★★

ペルー。治安警備隊の伍長リトゥーマは、助手のトマスと共にアンデスの山中にある鉱山町ナッコスに駐屯していた。そこで3人の男が行方不明になる。彼らはテロリストに殺されたのか? それとも民兵として徴兵されたのか? あるいは誘拐されたのか? 捜索に着手しつつ、トマスの恋物語が語られる。

「今ペルーで起こっていることは」もの思いにふけっていた金髪の技師が自分に語りかけるようにつぶやいた。「これまで溜め込まれてきた暴力が一気に噴出してきた、そんな感じがするんだ。どこかにこっそり貯えられていた暴力が、何かのきっかけで突然堰を切ったようにあふれ出したんじゃないかと思うんだ」(p.199)

これは面白かった。失踪人を捜索する探偵小説のような形式、異なる2つの語りを撚り合わせる文学的技法、革命と迷信が吹き荒れるペルーの土俗的な雰囲気。これら3つが渾然一体となって読む者を否応なく引き込んでいく。本作を読んで確信したが、文学というのはエンターテイメントときっちり分けられるものではなく、広い意味で「娯楽」の一種だと思った。要は鑑賞のポイントが違うだけってこと。たとえば、文学とミステリの場合、普通ならジャンルに応じて頭を切り替えて読む。それぞれにコンテクストなりクリシェなりがあるから、同じような読み方は出来ない。そして、この2つは鑑賞方法が違うだけであって、テクストを味わうという意味ではどちらも「娯楽」に分類される。そんなわけで、狭いジャンルで優劣をつけるのは馬鹿らしいと思った。文学だろうがエンタメだろうが、面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない。ただそれだけのことだろう。

本作の魅力は何と言っても前時代的なペルーの雰囲気である。舞台となる山岳地帯では、土くれ(テルーコ)と呼ばれるテロ集団が跋扈し、インディオの時代から伝わる迷信が民衆の間に流布している。国家が隅々まで治安を確保できていないところは、まるでアメリカの西部開拓時代のようで、本当にこれは20世紀後半の話かと思った。文学には辺境という概念があるが、本作なんかはまさに辺境そのもので、先進国に住む僕にとってはかなり衝撃的である。共産主義に染まったテロ集団が、同性愛者やら放蕩者やらを人民裁判にかけてなぶり殺しにするなんて、いつの時代のどこの話だよって思うし。さらに、事件の真相もまあカルチャーショックを受けるようなもので、地球にはまだこんな地域が残されていたのかと感心した。ペルー恐るべし、ラテンアメリカ恐るべしである。

本作は語りの技法も見逃せない。主にトマスが回想する場面で使われるのだが、過去の出来事を語っている最中に、現在の時制が切れ目なしで割り込んでいて、この部分は一読に値する。アニメで言えば『千年女優』【Amazon*1みたいな語りでなかなか刺激的だった。これを発明したのが誰だか気になるところだが、バルガス=リョサフローベールに傾倒していたようなので、そこら辺がインスピレーションの元になっているのかもしれない。いずれにせよ、この語りは文学を読む醍醐味を味わわせてくれた。

エピローグの明るさも特筆すべきだろう。事件の真相はグロテスクとはいえ、念入りに語られてきたトマスの恋物語が上手く着地していて、探偵小説の大団円みたいになっている。総じて引き込まれる読書だったし、終わり方も良かった。久々に清々しい気持ちで本を閉じることができた。

*1:このアニメも技術的に興味深いので、映画好きは観るべきである。個人的には5つ星の傑作だった。

P・G・ウッドハウス『ジーヴスとねこさらい』(1974)

★★★

有閑青年のバーティーが、療養のためにジーヴスを連れてメイドン・エッグスフォードという田舎に赴く。現地ではブリスコー大佐とクック氏が対立しており、バーティーはクック氏に猫さらいだと勘違いされる。クック氏はバーティーがかつて恋をしたヴァネッサの父親だった。ヴァネッサの恋人オルロは、バーティーがヴァネッサを奪おうとしていると勘繰っていて……。

「ハロー、齢重ねたご親戚」僕はできる限り礼儀正しく始めてみた。

「あんたにもハローね、西洋文明の汚点ちゃん」かつてウサギ追っかけをサボった猟犬を叱りつける際に用いた轟き渡る大声にて、彼女は応えた。「あんた何考えてるの? あんたに考えられるとしてだけど。早いとこ話してちょうだい。あたし荷造りの真っ最中なんだから」(p.28)

ウッドハウス・コレクション第14弾。シリーズ最終作。

このシリーズは毎回バーティーの危機を使用人(紳士お側つき紳士)のジーヴスが救うという筋で、最終作の本作もそのテンプレに則った話だった。バーティーが女性との結婚を避けようと足掻くのはいつも通りだし、猫をめぐるいざこざで窮地に陥るのも他のシリーズに似たような話があった。すなわち、後者はシリーズ最高傑作と名高い『ウースター家の掟』【Amazon】であり、こちらは銀のウシ型クリーマーをめぐってバーティーが奔走している。晩年のジーヴスものは、プロットに全盛期のような複雑さはないものの、ユーモアのキレは相変わらずで、読んでいてつい楽しい気分になってしまう。漫画みたいにキャラ立ちした登場人物に、彼らが繰り出す機知に富んだレトリック。イギリス流の洗練されたユーモアを味わいたい人にお勧めだろう。

実を言うと僕は若い頃、読んだ小説に出てきた比喩表現をノートに抜き書きしていた。そうすることで表現の幅を広げようとしていたのだ。日本の小説だと村上春樹、海外の小説だとハードボイルドが主な教材だった。おかげさまで今では適切なときに適切な比喩がポンポン思い浮かぶようになったけれど、これから同じことをやろうという人には、このジーヴスものをお手本にすべきだと言いたい。というのも、このシリーズは比喩をはじめとしたレトリックが抜群に冴えているのである。ユーモアには知性が必要であり、知性は他の能力と同様、鍛えないと伸びることがない。面白い文章を書きたい、読ませる文章を書きたいという人は是非参考にしてほしい。

それにしても、本作はラストで事件を振り返るバーティーが妙に格好良かった。バーティーはその日暮らしのお気楽青年だけど、何だかんだ言って女性を尊重していて、彼は紳士の鑑なのである。ジーヴスも主人のそんな気高さに惚れているのではないかと思料するところだ。バーティージーヴス、この主従が最高のコンビであることに異論はないだろう。また忘れた頃にシリーズをいちから再読しようかと思う。

なお、日本の皇后美智子もこのシリーズの愛読者らしい。今年の10月、84歳の誕生日を迎えたとき、退位後に読む本として「ジーヴスも2、3冊待機しています」と述べたとか。面白さは皇室のお墨付き、と言えるかもしれない。