海外文学読書録

書評と感想

フェルディナント・フォン・シーラッハ『犯罪』(2009)

★★★★

連作短編集。「フェーナー氏」、「タナタ氏の茶盌」、「チェロ」、「ハリネズミ」「幸運」、「サマータイム」、「正当防衛」、「緑」、「棘」、「愛情」、「エチオピアの男」の11編。

新婚旅行はカイロだった。フェーナーの希望だ。あとでエジプトの旅はどうだったかたずねると、彼は理解してもらえないことを重々承知しながら、「なにもかもぶっとんでいたよ」といった。エジプトでの彼は若きパルジファルだった。つまり底なしの間抜け。幸せだった。だが最初で最後の体験だった。(p.10)

文芸風のコクのあるミステリ小説で面白かった。上流階級から下層階級まで、犯罪にも様々な背景がある。どの短編も余韻の残る終わり方をしていていい。

全編、弁護士の「私」が語り手なのだけど、これがまた妙に影が薄い。この影の薄さが犯罪実録的な雰囲気を醸し出している。

以下、各短編について。

「フェーナー氏」。地雷女と結婚した開業医フェーナーの話。これは心に染みる話だった。フェーナーは結婚する前、地雷女に懇願されて彼女を捨てないと誓う。その後、共に生活するようになってからは、地雷女から様々な嫌がらせを受ける。それを50年も我慢した後、遂にフェーナーは殺人に及ぶ。現代人にとって「誓う」という行為は何の意味もないとされているが、フェーナーは現代人ではなかった。彼は誓いに縛られて離婚できなかった。のっけからパンチの効いた短編で素晴らしい。

「タナタ氏の茶盌」。半グレの若者たちが豪邸に押し入って金庫を奪う。中には現金と高級腕時計のほか、古い陶器が入っていた。彼らは陶器を30ユーロで売る。ところが、それはタナタ家に400年以上にわたって伝わる家宝で……。ヤクザものが次々と殺されるのが爽快だった。タナタ氏は非力な老人だけど、本当に怖いのは半グレでもヤクザでもなく、彼みたいな大金持ちなんだな。

「チェロ」。建設会社2代目のタックラーには2人の子供がいた。名前はテレーザとレオンハルト。タックラーは妻を亡くした後、使用人を介して子供たちを厳しく躾ける。これがまた典型的な家父長制で、こういうのはドイツにもあったのかと驚いた。そして、躾が必要以上に厳しく、そのうち子供たちが父親を殺すんじゃないかとハラハラした。本作は後半、レオンハルトが事故で記憶を失ってからは神話みたいな雰囲気で、姉弟の行く末には哀愁が感じられる。

ハリネズミ」。レバノン人のその一家は犯罪者の家系。末っ子のカリムには8人の兄がおり、いずれも前科者だった。ところが、カリムだけは彼らと違って優等生だったという。そのことを隠して二重生活を送るカリム。彼が法廷で駆使した弁論は双子トリックの応用で、西村京太郎の『殺しの双曲線』【Amazon】を思い出した。

「幸運」。東欧出身のイリーナは祖国で酷い目に遭ってドイツに不法移民してきた。彼女はベルリンで売春婦として働く。やがてイリーナは心優しい男性と同居することになり……。愛ゆえに自分が罪を被るというのはなかなか出来ないよな。そして、この事件は死体を損壊したがゆえに殺人がバレなかった。よく出来ている。

サマータイム」。ベイルートの難民キャンプで生まれ育ったアッバスは、ドイツに渡って将来を賭ける。彼は麻薬密売人になり、シュテファニーという女性と恋仲になる。ところが、そのシュテファニーが何者かに殺された。これは本格ミステリみたいだったけれど、タイトルで思いっきりネタバレしていた。でもまあ、ネタが割れていても法廷劇は面白かったよ。リーガル・サスペンス好きだし。

「正当防衛」。男が2人の暴漢にナイフと金属バットで襲われるも、あっさり返り討ちにして両方とも殺害する。逮捕された男は身元不明だった。正当防衛か、それとも過剰防衛か? というのは問題ではなく、そもそも武器を持った暴漢2人を返り討ちにするなんて只者ではない。こういう凄腕って現実にいるのかな? それはともかく、本作はラスト一行がとても良かった。

「緑」。伯爵の御曹司フィリップが羊を殺害してその目をくり抜く。さらに、彼が駅まで送った女の子が行方不明になった。ヨハネの黙示録Amazon】に出てくる獣の数字が、ローマ皇帝ネロを表していたとは知らなかった。しかもこれ、有名な説らしい。世の中自分の知らないことがいっぱいあるな。結局、フィリップは妄想型統合失調症と診断されたけど、この病気って人間や動物が数字に見えるなんてことあるの?

「棘」。博物館に就職したフェルトマイヤーが、『棘を抜く少年』という彫像に引っ掛かりを覚える。果たして少年は足の裏に刺さった棘を抜いたのか? 確認するも棘が見当たらない。さらに、フェルトマイヤーは他人の靴底に画鋲を仕込み、それを抜くところを見て快感でしびれるようになる……。フェルトマイヤーみたいな男って、『ジョジョの奇妙な冒険』の第四部【Amazon】に出てきそう。奇妙な好奇心に取り憑かれてそれが病的なものになる。杜王町にはそういう変人がいっぱいいた。

「愛情」。大学生のパトリックが恋人の背中をナイフで切りつける。その動機はいったい何か? 途中で佐川一政の名前が出てきて驚いた。彼は東京でレストラン評論家になってるらしい。ところで、少し前にベストセラーになった『君の膵臓をたべたい』【Amazon】って小説、実際に読むまでは人肉食の話だと思ってたよ。つまり、ホラー小説だと思ってた。

エチオピアの男」。捨て子のミハルカは学生時代から周囲と上手くいかず、長じてからは身長197cmの大男になっていた。彼は衝動的に銀行強盗をしてエチオピアに飛ぶ。エチオピアで彼は村のために様々な献身をする。この短編はドイツの司法制度が解説されていて知的欲求を刺激された。英米とはまた一味違っている。一方、物語はメルヘンの類かな。ミハルカがいい人すぎる。短編集の掉尾を飾る本作は爽やかな後味だった。

リュドミラ・ウリツカヤ『女が嘘をつくとき』(2008)

★★★

連作短編集。「ディアナ」、「ユーラ兄さん」、「筋書きの終わり」、「自然現象」、「幸せなケース」、「生きる術」の6編。

女のたわいない嘘と男の大がかりな虚言とを同列に並べて考えることは、はたしてできるだろうか。男たちは太古の昔から謀めいた建設的な嘘をついてきた。カインの言葉がそのいい例だろう。ところが、女たちのつく嘘ときたら、何の意味も企みもないどころか、何の得にさえならない。(p.5)

ジェーニャという子持ちのキャリアウーマンを軸に、彼女と関わる女性たちの嘘に焦点を当てている。どちらかというとジェーニャは読者に近い受け身の立場だろうか(ただし、ラストの「生きる術」は彼女が主体)。東野圭吾のミステリ小説に『嘘をもうひとつだけ』【Amazon】というのがあるけど、ミステリと文学で嘘というテーマをそれぞれどう料理しているか、読み比べてみると面白いかもしれない。

現代はSNSで容易に嘘がつけるので、本作は現代人の感性とマッチしていると言える。見栄を張るためにハッタリをかましたり、身バレしないためにフェイクを入れたり。実生活ではリスクが大きくてなかなか嘘はつけないけど、ネットなら嘘をついても真実はそうそう暴かれない。

以下、各短編について。

「ディアナ」。アイリーンは初対面のジェーニャに対し、饒舌に自分語りをして「この人、すごい経歴の持ち主なのね」と感心させる。アイリーンはイギリス出身のロシア人スパイの娘であり、子供2人を亡くしており、何か凄そうな人と付き合っていた。けれども、彼女を知る人によると、実はすべてが嘘だったという。なぜこんな嘘をついたのか僕には分からないけど、しかし現実にも初対面の人間を担ごうとする人ってけっこういる。たとえば飲み屋なんかに。それにしても、これはなかなか豪快だった。

「ユーラ兄さん」。10歳の少女ナージャは嘘つきというよりは法螺吹きに近いと思われていて、ジェーニャは彼女のことを「ナージャは頭に浮かぶことをそのまま口にだしているだけ」と評している。ところが、2つの嘘に関しては話を盛ったり、認識の違いだったりで、まったくの嘘ではなかった。唯一の完全な嘘がユーラ兄さんのことだという。これはなかなか哀愁があったかな。『赤毛のアン』【Amazon】的な想像力。

「筋書きの終わり」。ジェーニャの親戚に13歳のリャーリャという少女がいて、彼女によると画家の男性と関係しているという。それを聞いたジェーニャは画家を問い詰めに行く。今回はありきたりなすれ違いが見所かな。男の13歳と女の13歳はまるで勝手が違うというのはその通りだと思った。13歳の少女ならおっさんと本当に関係していてもおかしくない。

「自然現象」。高校生のマーシャが、年金生活をしている元文学部教授の老女と出会う。マーシャは彼女から文学について教育を受け、ついでに老女が自作したという詩もいくつか紹介される。ジェーニャによればその老女は不遇な野心家だったそうで、こういう盗作をするのもよく分かると思った。なまじ見る目があるだけに自分の詩だと偽ってしまう。人間とは悲しい生き物だね。

「幸せなケース」。ジェーニャとスタッフが映像の仕事でスイスへ。当地で商売女として働くロシア人女性たちを取材する。これは日本もそうだけど、やはり商売女の生い立ちなんて尋ねるものじゃないな。みんな不幸な生い立ちに決まってるんだし。どんなに飾っていても、ベールを捲ってみれば暗闇が広がっている。

「生きる術」。これは今までと打って変わってジェーニャが主体。幼馴染のリーリャは薬剤師をしていたけど、脳卒中で体が不自由になってしまう。何かと世話を焼くジェーニャだったが、彼女は彼女で……という筋。宗教が深く絡んでいていかにも海外文学らしかった。キリスト教ユダヤ教イスラム教と色々出てくる。

レアード・ハント『優しい鬼』(2012)

優しい鬼

優しい鬼

 

★★★★

インディアナ州に住む14歳のジニーが、親戚のライナス・ランカスターの口車に乗って彼と結婚、ケンタッキー州シャーロット郡にある「楽園」に移住する。ライナスは独裁的な人物であり、奴隷だけでなく妻のジニーにも暴力を振るって従わせていた。ところが、そんな生活に変化が訪れる。

むかしわたしは鬼たちの住む場所にくらしていた。わたしも鬼のひとりだった。わたしはいまは年よりでそのころは若かったけれど、じつはそんなにすごくまえの話ではなく、単にわたしにはめていた枷を時が手にとってねじっただけのこと。いまわたしはインディアナで生きている――この家でわたしがすごす日々を生きると言えるなら。これなら足が不自由でろくにうごけなくてもおなじこと。よたよたと地をあゆむ生き物。ある晴ればれとあかるい朝わたしはケンタッキーにいた。なにもかもおぼえている。わたしはもうすでにこのジゴクの輪にじぶんの旗を立てた。ここの住民たちはなにひとつ忘れない。(p.19)

イノセントな語り口でぞっとするような出来事を語っていて、なかなか味わい深い小説だった。本作は同じ奴隷制度下を舞台にした『地図になかった世界』を参考にしているようで、世界は善悪を超越してあるがままに存在しているのだという冷徹さを感じさせる。だいたいこの時代が舞台だと、奴隷制度に対して批判的な色彩になってしまうからね。人間の営みを善悪抜きに公平に眺めた小説ってなかなか珍しいのではなかろうか。しかも、イノセントな語り口が作品をフェアリーテイルにまで昇華している。著者の小説はこれで邦訳されているぶんすべて読んだけれど、本作は『インディアナインディアナ』【Amazon】の次に気に入った。

構成としては、ひとつの大きな物語というよりも、比較的短い区切りのエピソード集みたいな趣きだ。特に心に残っているのが、ジニーの両親がインディアナ州から馬車で5日かけて「楽園」にやってきたときのエピソード。ジニーの父親は実際に現地を見ることで、ライナスが娘を奪うために嘘を吐いていたことを知る。豪華な屋敷なんて影も形も存在しないことを知る。けれども、そこは表立って非難しない。1週間滞在していざ帰るというとき、父はジニーに一緒に帰るよう耳打ちする。ところが、ジニーはそれを断ってしまう。以後、ジニーは両親と2度と会うことはなかったというのがせつなかった。

途中からは家庭内の権力関係が逆転してジニーが酷い目に遭わされる。この辺は語り口のせいか、白昼夢みたいな独特の肌触りだった。起きていることはいつ終わるか分からない悪夢的シチュエーションなのに、そこは語り口で脱臭されていて、善悪を超越したあるがままの出来事として語られている。我々が住む世界には勧善懲悪なんてないし、人間は暴力の前には為す術がない。そこには国が定めた法や秩序から離れた丸裸の世界がある。こういう雰囲気はなかなか味わえないので貴重かもしれない。

本作は白人女性であるジニーのほかに、黒人女性も語り手を務めている。訳者あとがきによると、アメリカでは「白人男性作家がマイノリティの人物を語り手に起用することはほとんどタブーに近い」という。これを読んで、少し前にニュースで目にした「文化の盗用(cultural appropriation)」を思い出した。白人が日本の着物を来たら文化の盗用だと非難された事件である。正直、僕にはまったく意味が分からなかった。どこが問題なのか見当もつかなかった。アメリカは人権意識が高すぎるがゆえに時々こういう頓珍漢なことをやらかす。彼らには「過ぎたるは及ばざるが如し」という言葉を教えてやりたい。

ジョイス・キャロル・オーツ『ジャック・オブ・スペード』(2015)

★★★

売れっ子ミステリ作家のアンドリュー・J・ラッシュは、ジャック・オブ・スペードという別の名義を使ってノワール小説を発表していた。ジャック・オブ・スペードは覆面作家であり、その正体を巡って様々な憶測が飛び交っている。ある日、アンドリューは気の狂った老女から盗作の濡れ衣を着せられて告発される。

悪を打ち倒すには、悪が巣くうものを打ち倒す、たとえそれが自分自身であろうと。(p.236)

本作は明らかにスティーヴン・キングのオマージュなのだけど、個人的な印象としてはパトリシア・ハイスミス風のニューロティック・スリラーといった感じだった。神経症的なアンドリューに対して、別人格であるジャック・オブ・スペードが悪魔のように囁きかけ、とにかく余計な行動をさせる。せっかく告発を免れて一件落着したのに、なぜか老女の家に行って本を盗むとか馬鹿じゃねーのと思ったし、その後は盗んだ本を返しにこっそり不法侵入していて、こいつ救いようがねーなと思った。こういう登場人物の愚行によって読者をハラハラさせるのって、ニューロティック・スリラーの定番のような気がする。それと、アンドリューが別人格の声に従って老女を殺すのではないかと早い段階で危惧していたけれど、そこはまあ、なるべくしてなるような結果になっている。

アンドリューを告発した老女は、過去にスティーヴン・キングジョン・アップダイクのことも盗作で訴えていた。これだけ見ると妄想に取り憑かれた精神異常者という感じだけど、アンドリューが老女の家を訪問することで、その見方が覆されるところが何とも皮肉だった。というのも、老女は『シャイニング』【Amazon】が世に出る数年前に同じ着想の小説を書いていたし、それは『ダーク・ハーフ』【Amazon】についても同様だった。さらに、ジョン・アップダイクやピーター・ストラウブの小説についても、先行する着想の小説を書いている。この事実をどう捉えるべきだろう? さすがにキングやアップダイクやストラウブが盗作したとは考えづらい。だとすると、これは偶然であり、自分の思いついたアイデアはたいてい誰かが思いついている、そういう一般論で片付く話と解釈すべきなのだろう。老女はある種の天才だったのかもしれない。実のところ、この件については最後まで謎のまま終わっており、喉に引っ掛かった魚の小骨のように居心地が悪かった。

本作は取り立てて優れたところはないけれど、スティーヴン・キングを絡めた作家の内幕ネタが地味に面白いので、箸休み的な読書にちょうどいいかもしれない。たとえば終盤、アンドリューがスティーヴン・キングにメッセージ付きで本を送って、それに対して意外な返信が来たのは可笑しかった。

エドウィージ・ダンティカ『骨狩りのとき』(1998)

★★★★

1937年のドミニカ共和国。ハイチ移民のアマベルは、祖国で両親を亡くしてからドミニカに来てバレンシアという女性に仕えていた。バレンシアの夫ピコは軍人をしている。あるとき、ピコの運転していた車が、サトウキビ労働者を撥ねて死なせてしまう。その後、アマベルの周囲では、独裁者ラファエル・トルヒーヨが国内のハイチ人を虐殺するという噂が流れる。

彼らがモルタルの山から離れていくときに、男は全員がまだ彼の話についてきていることを確かめるために、グループの人々の顔を探った。「名を成した者たちは、決して本当に死ぬことはありません」と彼は加えて言った。「煙のように早朝の空気に消えていくのは、名もなく顔もない者たちだけなのです」(p.290)

この小説は1937年に起きたハイチ人虐殺を、アマベルという個人の体験に落とし込んだ話で、どっしりと地に足の着いた臨場感のある内容になっていた。上の引用のように、「煙のように早朝の空気に消えていくのは、名もなく顔もない者たちだけ」である。本作の狙いは、そういう人たちを小説のなかに蘇らせることにあったのだろう。歴史的事件をミクロの視点から、すなわち庶民の視点から再構築する。作中の人物は実際には存在しなかったとはいえ、個々の生活、個々の感情、個々の苦しみは紛れもなく紙上に存在する。文学とは現実をトレースするものではなく、現実を新たに作り上げるものだということを実感した。想像力と創造力の交差するところに文学の醍醐味がある。

虐殺の背景については小説を読んだだけでは掴みきれなかったので、訳者あとがきやネットの情報を参考にした。この虐殺は俗に「パセリの虐殺」と呼ばれているようで、パセリがハイチ移民を見分けるためのシボレスとして用いられた。なぜパセリなのかは作中に仮説として語られている。数日のうちに2~3万人が殺されたとか。こういう虐殺って、いかにも20世紀的野蛮といった感じでやりきれなくなる。ミシェル・フーコーによれば、近代以前の権力=人を殺す権力、近代の権力=人の生を管理する権力らしいけど、ここで振るわれているのは紛れもなく近代以前の権力で、あれ? 20世紀は近代じゃないの? と思った。それくらい野蛮でどん引きしてしまう。

たくさんの人が死ぬ本作だけど、唯一の救いは前半で描かれたパピとコンゴの関係だろう。ドミニカ人のパピは支配層で、ハイチ人のコンゴは被支配層である。序盤でパピの娘婿であるピコが、コンゴの息子を車で撥ねて死なせてしまう。コンゴの知人は「公平にするためにはやつを殺すしかない」とけしかけるも、コンゴは「物事が公平であることなどない」「もし公平だったら、彼の人生と私の人生は同じもののはずだった」と返す。このコンゴという人物は市井の賢者でなかなか興味深いのだけど、何より良かったのが、そんなコンゴにパピが会いに行ったことだ。娘婿がやったことに対して贖罪しようというのである。話し合いの後、パピが十字架を背負って歩くところが象徴的で、支配層と被支配層でも分かり合えるのだという希望があった。

ハイチ人虐殺って日本人には馴染みの薄い出来事だけど、だからこそ知っておくべきではないかと思う。僕も本書を手に取らなかったら詳しく知ることはなかった。支配層と被支配層。殺す側と殺される側。世界は公平には作られていないということがよく分かる。