海外文学読書録

書評と感想

ウーヴェ・ティム『ぼくの兄の場合』(2003)

★★★

ウーヴェよりも16歳年上の兄カール・ハインツは、ヒトラーユーゲントで教育を受け、武装親衛隊のエリート部隊である髑髏師団に入隊する。ところが、彼はロシア戦線で戦死するのだった。ウーヴェは兄の遺した日記や手紙を丹念に読み、彼がどういう思いで戦争に関わっていたのかを考察する。

兄の日記には、人殺しを正当化する記述や、親衛隊の世界観の授業で教えられたようなイデオロギーは出てこない。そこに出てくるのは戦争という日常における「普通の」まなざしだ。(p.109)

作者自身を主人公にしたオートフィクションが好きで、このブログで取り上げた本だと、『サラミスの兵士たち』『ムシェ 小さな英雄の物語』『ビルバオ-ニューヨーク-ビルバオ』が当てはまる。自伝とされている『愛するものたちへ、別れのとき』も、このジャンルに入れていいかもしれない。何でオートフィクションが好きかというと、作者の私生活を覗き見しているような感覚があって、どことなく親近感が湧くからだ。読んでいて作者の語る事実なり考察なりに引き込まれてしまう。

本作は戦死した兄を中心に、両親や姉といった家族全体を視野に収めているのだけど、やはり一番気になるのが武装親衛隊に入った兄のことで、いわゆる戦争犯罪人の遺族はどうやってあの過ちに向き合ったのか、僕はそのモデルケースとして読んだ。太平洋戦争の日本軍と同じく、戦場の末端にいた人たちは我々庶民と変わらない。故郷には自分の帰りを待つ家族がいる。時代が時代なので、当時の邪悪な価値観に染まっている部分も多少はあるけれど、戦争にさえ駆り出されなければおそらく善き生をまっとうしたことだろう。それだけにしんどいよなあと思う。戦場で何人も人を殺して、最後は重傷を負って戦死して……。こういうのを読むと、戦争に対する忌避感が否が応にも増していく。

日記に書かれた淡々とした文章から、兄がどういう人物だったのかをすくい上げていく作業はとてもスリリングだ。兄は決して無垢な人物というわけではない。日記には、「ドネツ川にかかる橋のたもと。七五メートル先でイワンがタバコを吸っている。俺の機関銃のえじき。」(p.18)という記述があって、これを読むと戦争に染まっているような印象を受ける。しかしその一方、捕虜については一切記述がないし、反ユダヤ的な文章もまったくない。そのうえ、最後は「ここで日記を終える。ときどき起こる残酷な事柄について記録するのは意味がないと思うから。」(p.144)というメモ書きで終わっている。兄はどういう思いで日記を終えたのだろう? ウーヴェはここで自分の願望を込めたポジティブな解釈をする。服従をやめようとする気持ちが芽生えている、と。それが当たっているかどうかはともかく、遺族としてはやっぱり兄を擁護したいし、その内面に分け入っていくのはさぞつらいことだったろう。自分の身内は決して悪人ではない。誰だってそう信じたいのだ。

我々はナチスといったら十把一絡げに「悪」と断罪してしまうけれど、大切なのは彼ら一人一人に焦点を当て、個々の人間性を見極めていくことかもしれない。集団のなかには善人もいれば悪人もいるし、普通の人だっている。望遠鏡から顕微鏡へ。そして、中心から末端へ。もっと人間に関心を持つべきだと思った。

甘耀明『冬将軍が来た夏』(2017)

★★★

セレブの幼稚園で教諭をしている「私」の元に、死んだはずの祖母からトランクや机といった大量の荷物が送られてきた。その3日後、「私」は飲んだ帰りに自宅で園長の息子にレイプされる。死んだはずの祖母はトランクの中に身を潜めており、レイプ現場に居合わせていた。「私」は母親に言われるがまま、刑事告訴の手続きを進めていく。その後、「私」は家を出て、祖母と5人の老女、さらに1匹の老犬と共同生活をする。

 「じゃあこう言えばいいかな、物語はそれがいちばん止まりたいところで止まるのよ。でも人生はそうじゃない。人生はどうやっても終わりまで行くものなの。今日は終わり、一週間が終わり、一生が終わるまで続く。人生には結末があるけど、どの結末もすべていいとは限らない。でも記憶はいちばん美しいところで止まることができるし、いちばん美しいところで止まったものは、みんないい物語よ」(p.267)

これはなかなかの変わり種で、何と表現したらいいかよく分からない小説だった。同じ著者の『鬼殺し』は明確にマジックリアリズム作品と言えそうだけど、本作の場合はその辺が微妙で、現実から少しずれたワンダーランドというべき世界観になっている。ひとことで言えば、リアリズムとマジックリアリズムの間くらいのポジションというか。ただ、そういう奇妙な現実になっているのは、「私」が老女たちと行動を共にしているときくらいで、レイプや裁判といった出来事は紛れもない現実として「私」の前に現れている。本作は傷ついた「私」が奇妙な現実を通り抜けて人生が変わる、回復の物語と言えるかもしれない。LINEやフェイスブックに代表されるありふれた日常から離れて、老女たちと共に往生互助会というマネーゲームに関わったり、それが元で馬西馬西というヤクザに追われたり、冒険的な日常を送るところが何ともふるっている。本作が人生ではなく物語であることは上の引用で示唆されているけれど、確かに美しいところで止まろうという意思は感じられた。一生分の奇妙な体験をしつつも、「私」の人生はこれからも続いていく。たとえ曾祖母が死んでも、祖母が死んでも、そして母が死んでも、「私」は家族の記憶を保持しながら生きていくのだろう。でも、物語は一生の終わりまで書かず、美しいところで終わっているわけで、その辺の塩梅がいいと思った。

台湾にはけっこう日本文化が入ってきているようで、本作にはTOSHIBAのパソコンだったり、日産のGT-Rだったり、暴力ビデオ*1だったりが出てくる。また、「私」は日本旅行に夢中のようだし、レイプ犯もよく銀座に行ってるみたいだ。特筆すべきは、男の子がアニメの『HUNTER×HUNTER』【Amazon*2を見ているところで、なるほどアニメは世界共通語なんだなと思った。僕もわりと熱心にアニメを見ているほうだけど、確かにコミュニケーションツールとして大いに役立っている。Twitterで外国人とアニメの話をしたことが何度かあった。アニメは現代人の基礎教養と言えるだろう。あと、本作にはカップ麺を食べる場面があるのだけど、音を立てて麺をすすっているのが意外だった。そういう食べ方をするのは日本人だけだと思ってたよ。

翻訳には工夫が凝らされていて、客家語や閩南語の単語を原文で表記し、そこにルビを振るような形をとっている。本作は北京語をベースに、客家語や閩南語が多用されているという次第。これで思い出したのが最近読んだ『海上花列伝』で、この小説は会話文に呉語(蘇州語)が使われていることが売りになっていた。呉語文学の最高作品とまで言われている。ところが、翻訳では会話文が地の文と同じく標準語に訳されていて、原文の持ち味が発揮されていなかった。約50年前の翻訳である。仮にこれが現代で翻訳されていたら、会話文には何らかの工夫が凝らされていただろう。この辺に昔と今の翻訳観の違いが表れていて興味深い。昔はただ日本語で読めれば良かったけれど、今はそれだけじゃ駄目で、原文の味わいが重視される。現代の翻訳家は大変だなと思った。

*1:陵辱系アダルトビデオ。個人的にこういうのは苦手である。

*2:Amazonレビューは荒れているが、キメラアント編【Amazon】は傑作なので最後まで見るべきである。

エドウィージ・ダンティカ『愛するものたちへ、別れのとき』(2007)

★★★★

2004年。35歳のエドウィージ・ダンティカは妊娠していた。一方、彼女の父親は69歳、肺病に罹って死にかけている。エドウィージは幼少期に伯父と祖国のハイチで暮らしており、当時両親は先にアメリカに渡ってハイチに仕送りをしていた。やがてエドウィージもアメリカに渡ることになり、伯父はハイチに残るが……。本作は自伝という形式を取りながら、父親と伯父、2人の父について物語る。

「医者に何が判るのよ?」と彼女は叫んだ。

「医者は検査をしたわ」と私は言った。「それに、父も知っているわ」

「あのねえ」と話をさえぎって彼女は言った。「医者なんてくそくらえよ。私たちはみんなこれから死ぬのよ。だれかがシャワー中に転んで頭を打つかもしれない。バスに轢かれるかもしれない。雷に打たれる人だっているかもしれない。だれだってみんな死ぬのよ」(p.66)

全米批評家協会賞(自伝部門)受賞作。

これはなかなか凄まじい話で、読んでいてこの不公平な世界を呪いたくなった。最初はわりと普通の自伝というか、幸せそうな移民の物語が語られるのだけど、終盤になってハイチの治安が悪化してからは、現地に住む伯父がとんでもなく理不尽な目に遭わされている。彼の受ける仕打ちはまったくもって悲惨で、普段物語に感情移入しない僕でもつい憤激にかられたのだった。本作は大国の都合に翻弄される庶民の物語であり、アメリカのハイチに対する横暴、さらには移民に対する横暴を暴露した告発の書でもある。もちろん本作の底流には家族愛があって、それが救いになっている部分もあるのだけど、それ以上に世界の理不尽さのほうが勝っていて、この状況はちょっとしんどいなと感じたのだった。

伯父さんと同じように、レオーンは、権力者らがその強力な力を振るうのを見ながら生きてきた。それは、彼女が生まれたとき既にハイチを占領していたアメリカ海軍であり、アメリカ軍の撤退後は、彼らが訓練していった残忍なハイチ軍だった。このハイチ軍にアメリカは、自らが作った傀儡政権を支えさせ、次には転覆させたのだった。そして、政権が次々に倒れると、最後にいわゆる平和維持軍という国連の兵士たちが介入してきて、罪のない人びとの命を犠牲にしてまで、秩序の回復を企てた。(p.175)

ソ連崩壊後のアメリカは世界の警察を気取って、ユーゴスラビアイラクといった外国に武力で介入してきた。また、それ以前にも冷戦期から中南米に傀儡政権を作って、自分たちの都合のいいように政治をコントロールしている。その中にはハイチも含まれていて、そこに住む庶民に苦しみを与えていた。僕はあまりハイチの政治については詳しくないのだけど、政権が代わって内戦状態になり、伯父が誤解から地元のギャングに目をつけられる様子は本当に可哀想だった。伯父はこちら側の人間なのに、あちら側と目されて地元民から敵視されてしまう。平和だった日常が脅かされ、命の危機に晒されてしまう。さらに、その後伯父は何とかしてアメリカに逃れるものの、アメリカの移民当局はハイチからの難民に対して必要以上に厳しく、伯父は高齢にもかかわらず収監されてしまう。キューバ人やホンジュラス人、ニカラグア人などは手厚い保護を受けているのに、ハイチ人だけはなぜか歴史的に酷い仕打ちを受けている*1。この理不尽さはいったい何なのだろう? 死神は金持ちにも貧乏人にも平等に死を与えているのに、神は人を金持ちの家に生まれさせたり貧乏人の家に生まれさせたりして、最初から格差を与えている。この世は不公平であることを思い知らされたのだった。

最後は伯父も父も病気で死んでしまうのだけど、エドウィージは妊娠して新たな命を育もうとしている。この生と死が交差する部分、命は続いていくのだという部分に希望を見出したいと思った。じゃないと救いがなさすぎるから。我々は次の世代のために、今よりも少しはマシな世界を作っていくべきだろう。

*1:228頁を参照。

ジョージ・ソーンダーズ『リンカーンとさまよえる霊魂たち』(2017)

★★★★

1862年南北戦争の最中、リンカーン大統領の息子ウィリーが急逝する。ウィリーは防腐処理を施されて墓地に葬られたが、そこには自分の死を受け入れられない霊魂たちが屯しており、ウィリーも霊魂としてそこに留まっていた。大統領が追憶に浸るために墓地を訪れると……。

みんなにこう言ってくれ、と牧師さんが言った。私たちは無の存在でいることが嫌になった。何もせず、誰にとっても何も価値もなく、いつでも恐れおののいて生きていることに疲れたんだ。(p.335)

ブッカー賞受賞作。

これはまた野心的な語り口で面白かった。本作はおおまかに言うと二つの形式で語っている。一つは当時生きていた人たちの日記や回想録からの引用で、多数の視点からリンカーン周辺で起きた出来事を立ち上げている。そして、もう一つは様々な霊魂たちによる語りで、こちらも多数の視点からそれぞれ思いのままに好きなことを語っている。つまり、普通の小説みたいに、語り手による地の文があって鍵括弧で括られたセリフがあって、みたいな語り方をしていない。細切れのセリフが連なるところは戯曲のようでもあるし、セリフのポリフォニックな響きは詩のようでもある。こういう戯曲と詩のハイブリッドみたいな語り口はかなり珍しいのではないか。このブログで何度も書いている通り、現代文学は「何を語るか」よりも「どのようにして語るか」に重点が置かれている。本作もそれを意識した作品と言えるだろう。特にこの小説、リンカーンを題材にしながらも、リンカーンの視点から書くのを徹底的に避けているところがいい。絶対に普通の語り方では語らないぞ、という強い意気込みが伝わってくる。

霊魂たちは当初自分が死んだことを認めておらず、棺桶のことを「病箱」と言ったり、死体のことを「病体」と言ったりしている。そんな霊魂たちが、「物質が光となって花開く現象」によって次々と成仏していくところは本作の読みどころの一つだけれども、個人的にもっとも心に残ったのはそこではなく、リンカーンが墓地に来てウィリーの死体を抱きしめ、やさしい言葉を耳に囁いた場面だった。霊魂たちはそれを見て衝撃を受ける。そんなことをした人は今までにいなかった、自分たちもされたことがない、と。そして、彼らはこうも思う。「我々は愛されない存在なのだと信じるようになっていたが、実はそうでもないかもしれない」(p.88)と。

当然のことながら、人は死んでしまったら遺族がどういう言動をするのか確認できない。果たして自分は愛されていたのか、遺族は悲しんでくれるのか、彼らにとって自分はどういう存在だったのか。死んでしまったら永遠に謎のままだ。僕は子供の頃、そういうことを気にしていたことがあった。自分は家族から必要とされていないのではないか。そういう心配をしていた。大人になった今ではすっかり諦めがついたけれど、それでもまあ、自分がどれだけ愛されていたか多少は気になるところではある。この部分を読んで、幼かったあの日を思い出して懐かしくなった。

ところで、これは個人的な見解だけれども、21世紀に入ってからはアメリカ文学が世界文学の最先端を走っているような気がする。僕が読んだ限りでは、「どのようにして語るか」という部分で工夫を凝らした作品が多い。21世紀初頭は、創作科出身の移民3世による小説*1ばかりで食傷気味だった。ところが、最近のアメリカ文学は掛け値なしに素晴らしい。どうしてこうなったのか、専門家のしっかりした解説が欲しいと思った。

*1:勉強しただけあって技術的にはレベルが高いのだけど、その反面、技術だけで書いてるような小説が多い。読んでいて「いかにも創作科だなあ」と思うことが多かった。

エイモス・チュツオーラ『文無し男と絶叫女と罵り男の物語』(1987)

★★★

二千年前のナイジェリア西部に存在したラケツ・タウン。そこの王は予言によって宮殿から息子を追い出し、息子は文無し男と渾名される。さらに、副王は予言によって家から娘を追い出し、娘は絶叫女と渾名される。また、王の片腕は予言によって家から息子を追い出し、息子は罵り男と渾名される。文無し男と絶叫女と罵り男は、程なくして町から追放され、それぞれの運命に従って生きていく。

「ぼくは自分が創造主から引きあてたのが貧乏と悲惨という運命だとはちっとも思わない。することなすこと何もかもうまくゆかないのだったら、前よりもっと一生懸命に努力して働くべきなんだ」。

文無し男は、運命があるかもしれないとふと疑いながらも、このように自分に言い聞かせるのだった。(p.194)

例によって昔話風のプリミティブな物語だけど、デビュー作の『やし酒飲み』に比べてかなり洗練されている*1。既存の文学に近づいて親しみやすくなった反面、初めて読んだときのような衝撃がなくなっていてちょっと寂しかった。 小説って単に上手ければいいというわけでもないみたい。難しいね。

運命というのが小説全体を貫いている。文無し男は創造主から貧乏と悲惨という運命を背負わされ、さらに絶叫女は絶叫を、罵り男は邪な心根を、それぞれ創造主から背負わされている。文無し男は当初、運命があるのを信じていなかったものの、話が進むにつれて揺らいでいき、最終的にはその存在を認めることになる。一方、罵り男は最初から自分に課せられた運命――すわなち邪な心根――を受け入れており、その性格に沿った性悪な行動によってたびたび問題を起こしている。言い換えれば、自分に割り当てられた性格を自覚的に演じているわけだ。罵り男のキャラクターはどこかメタフィクションの匂いがするけれど、たぶん著者はそんなことをまったく意識してなくて、おそらく天然でやっているのだろう。文無し男と罵り男の関係もなかなか愉快で、文無し男は罵り男から何度も酷い目に遭わされているのに、再会したときはまたしれっと友達になってしまう。かと思えば、文無し男が罵り男に強烈な仕返しをしたりしていて、2人の関係は訳が分からない。天然のメタフィクションといい、2人の理解し難い関係といい、こういう大雑把なところが独特の味わいになっている。

独特と言えば、「ぐらぐらするのは踊りのときだけ」とか、「賢い男は雄牛から用心深く逃げる」とか、アフリカの諺が随所に盛り込まれているところも特徴的だ。それと、文無し男たちがラケツ・タウンから追放される際、王の呪いによってなぜか不死の者にされるところもアフリカっぽい。罪人に罰を与えるのに何で不死の者にしてしまうのだろう? 現し世は地獄という価値観なのだろうか? いずれにせよ、先進国の尺度では測れない、我が道を行っているところがこの著者の魅力だと言える。

*1:とは言うものの、町に入っては追い出され、町に入っては追い出されの繰り返しにはいくぶん辟易させられた。