海外文学読書録

書評と感想

ジュリアン・バーンズ『太陽をみつめて』(1986)

★★★

1941年6月。戦闘機パイロットのトマス・プロッサーが、ドーヴァーの上空で太陽が2度昇るのを目撃する。そのことを本人から聞かされた17歳のジーン・サージャントは、空への憧れを募らせる。やがて警察官と結婚するジーン。20年の結婚生活を経てようやく妊娠するも、それを機に家を出るのだった。彼女は色々な場所を旅する。

リンドバーグが大西洋を横断したときは」とレズリーが数フィート離れたところから解説した「サンドイッチを五つもっていったんだ。彼が食べたのはひとつと半分だけだったがね」

「あとはどうなったの?」

「あとのなにがだい?」

「あとの三つと半分よ」

レズリーおじさんは立ちあがったが、むっつりした顔をしていた。そこはフェアウェイではなかったけれど、たぶん彼女はしゃべってはいけなかったのだ。橅の実のあいだを、こんどはボールをさがしながら足をひきずって歩いていると、おじさんがとうとう、いらたただしげにつぶやいた「おそらく、サンドイッチ博物館にでも行ってるんだろうさ」(pp.18-19)

なぜミンクは生命力が強いのか? なぜリンドバーグは大西洋横断飛行のとき、サンドイッチを5つ持っていったのに、ひとつと半分しか食べなかったのか? どちらの問いも、現代だったらWikipediaYahoo!知恵袋が答えてくれたかもしれない。この小説はジーンと彼女の息子グレゴリーが、世界と人生についての問いを抱きながら生きていくという内容だ。終盤では21世紀を舞台にしている。21世紀では対話型のコンピュータが問いに答えてくれるものの、人間とコンピュータは満足にコミュニケーションがとれない。質問の仕方がおかしい、みたいな指摘をしばしばされてしまう。この辺のSF要素は今読むといくぶん古さを感じるけれど、西洋人が人生についてどういう点を気にしているのか分かってなかなか興味深い。たとえば、神が存在するかどうか丹念に考察するところは西洋人らしいと言えるだろう。僕は存在しないんじゃないかと思っているけれど、そんなことはどうやっても証明することは出来ないし、永遠に謎のままだ。加えて、本作では自殺についても考察がされている。僕は社会が自殺を禁じている理由は、マクロ的には労働力や納税者が減ってしまうから、ミクロ的には家族や共同体に迷惑がかかるからだと思っている。神が禁じているからという宗教的な理由や、命は尊いからという人道的な理由は、どちらも後付けではないか。ともあれ、本当の質問とは訊かれた人間が既に答えを知っているような問いに限られている、という本作の定義は刺激的で、これは一種の哲学でさえあると思った。

登場人物で印象に残っているのは、レイチェルというレズビアンだ。彼女はレズビアンであると同時に、ミサンドリストでもあるのだった。実はTwitterではミソジニストとミサンドリストバチバチ火花を散らしており、僕はその世界を垣間見たことがある。男がミソジニーになるのは女と関わらな過ぎるからで、女がミサンドリーになるのは男と関わり過ぎるから、というのが専ら言われていることだ。原理的には、ミソジニストは女が嫌いなのだからホモセクシャルでなければおかしいし、ミサンドリストは男が嫌いなのだからレズビアンでなければおかしい。僕はそう思っていたので、レイチェルがレズビアンにしてミサンドリストであることは、その説を裏付けられたような気がした。それと、男性全体、もしくは女性全体を憎むのって、ユダヤ人全体を憎んだナチス・ドイツにそっくりだと思う。いつかこれにまつわる犯罪が起きるのではないかと危惧している。

ジャネット・ウィンターソン『さくらんぼの性は』(1989)

★★★★

17世紀半ばのロンドン。象を吹き飛ばし、オレンジを12個頬張ることができる巨漢の犬女が、テムズ川の泥の中で赤ん坊を拾い、ジョーダンと名付けて育てる。成長したジョーダンは船乗りになって犬女の元を離れ、一方の犬女は清教徒革命で殺された王の復讐のためにピューリタンを殺戮する。

あらゆる旅は、その行間にもう一つの旅を隠している。歩かれなかった道、忘れ去られた曲がり角。そういう旅のことを僕は書いておこうと思う。僕が実際にした旅ではなく、したかもしれない旅。あるいは別の時、別の場所でした旅。僕はそれを日記や地図や航海日誌のような正確さで書き記す。僕が目にし、耳にした出来事を洩らさず記録した見聞録を綴る。そうすればあなたはそれを読む、僕のたどった道のりを指でなぞり、僕の行った場所に赤い旗を立てていくことができる。(p.8)

単行本で読んだ。引用もそこから。

いかにも現代文学らしい変わり種だった。全体のまとまったストーリーというよりは、個々のエピソードを楽しむような感じで、どちらかといったらエピソード集に近いかもしれない。少なくとも、よくある一本道の物語ではない。また、普通のリアリズム小説ですらなく、所々に超現実的な逸話なり描写なりがある。時系列も通常とは異なっていて、話は17世紀に留まらず、終盤では1990年に飛んだりもする。犬女とジョーダンは未来で別の人生を生き直しているのだ。本作の犬女は、象を吹き飛ばし、オレンジを12個頬張ることができるうえに、銃で胸を撃たれても平気でいる。つまり、現代文学によくいる規格外の人物だ。そして、本作も負けず劣らず規格外の小説で印象深い。実を言うと、途中までは傑作に違いないと思いながら読んでいた。

その夜、教会の鉛ぶきの天蓋の屋根裏で愛をささやきあっていた一組の男女が、自らの熱い言葉のために命を落とした。彼らの口からとめどなくあふれ出た言葉たちが、堅固な鉛にはばまれて行き場を失い、屋根裏部屋に充満したために空気がなくなってしまったのだ。恋人たちは呼吸ができなくなって死んでしまったが、翌日番人が小さな扉を開けると、言葉たちは彼をなぎ倒してわれ先にと外に飛び出し、幾千幾万の鳩に姿を変えて街のかなたへ飛び去っていったという。(p.22)

愛というのがテーマの一つになっている。「十二人の踊る王女たちの物語」という挿話では、様々な形の夫婦関係が描かれているけれど、どれも不幸なものばかりで、愛とはいったい何なのかと首を傾げてしまう。また、犬女も「愛とは何だろう?」という哲学的な疑問を抱いており、彼女の知る愛が語られている。そこでもやはり満足のいく愛――この場合は性愛――はなく、結果的にはジョーダンと犬たちへの愛が残るのみである。本作は幻想的でありながらも性愛に対しては懐疑的で、女性から見た男性はこうなのだという視点のあり方が身につまされる。特に男性の特徴を箇条書きにした虎の巻には苦笑してしまった。これは確かに的を射ている。

本作を読んで思ったのは、小説とは自由に書いていいということだ。絵画で例えるなら、白いキャンパスに白の絵の具を塗ってもいいし、レモンの汁を塗ってもいい。世の中には小説の講師がごまんと溢れているけれど、結局のところ彼らの教えはエンターテイメントを書くための方法であって、最先端の主流文学には当てはまらないのではないか。芥川賞の選評にピンと来ないのも、既存のルールに縛られた偏見で作品を評しているからであって、ストーリーがどうだとかテーマがどうだとか、些末なことに囚われ過ぎである*1。数人の選考委員によって賞が決められてしまうのも納得いかない。自分の手に負えない作品に出会ったらどうするのか疑問に思う。みんな言うほど大した読み手ではないだろう*2

というわけで、本作は普通の小説の枠に収まらない、規格外の小説を読みたい人にお勧めだ。終盤があまり盛り上がらないので、人によってはつまらないと感じるかもしれないけれど、それでも読んで損はしない。

*1:ストーリーもテーマも小説の表層に過ぎず、そんなところにケチをつけても意味がない。

*2:芥川賞とは関係ないが、だいたい口を極めて作品を罵る奴って、単に読解力が追いついてないというパターンが多い。自分の能力を過大評価し過ぎである。

ロレンス・ダレル『セルビアの白鷲』(1957)

★★

ユーゴスラビア南東部の山中で、英国大使館の職員が何者かに殺された。現地ではセルビア王党派の白鷲隊が、チトー政権を転覆させようと画策している。英国諜報員のメシュインは単身で現場に乗り込み、大好きな鱒釣りをしつつスパイ活動をすることに。やがて彼は白鷲隊と行動を共にし、ある重要な情報を掴むのだった。

彼はその日の踏査の模様を簡単にまとめ、さらに滞在をのばすつもりであると書き添えたが――もっともいつまでとは書かなかったけれど――これには大して時間はかからなかった。彼はドンビーに宛てて、報告書の他に短かい手紙を書き、元気でいることと、釣りがすばらしいことを知らせた。それから、この退屈な仕事を片づけてしまうと、ピストルの手入れをし、装備の点検をすませてから、三〇分ばかり『ウォールデン』をひもといて、そのなぞめいた滑らかな散文を心ゆくまで楽しんだ。いつ読んでもあきることのない文章だった。なかに神のお告げのようなものが含まれているような気がしたが、それが何であるかは、わかるようでいて一向につかめなかった。(p.131)

ユーゴスラビア大自然を舞台にした異色のスパイ小説だった。ユーゴスラビア社会主義国家なのにソ連の衛星国じゃなかったことで有名だけど、作中ではまだソ連とは対立しておらず、革命政府と反革命勢力(王党派)の間で火種が燻っている。冷戦時代のスパイ小説と言ったらだいたいはソ連絡みなので、ユーゴスラビアを舞台にしていたのは率直に言って珍しかった。僕はこの国のことについてはよく知らないのだけど、王党派はパリに亡命政府を構えていて、共産主義者と同じくらいイギリスを憎んでいるらしい。イギリスは共産主義者のことを助けていたとか。で、ユーゴスラビアの山奥には王党派の白鷲隊が潜んでいて、政権の転覆を企んでいる。白鷲はセルビア王党派の記章なのだった。ユーゴスラビアにしても白鷲隊にしても、スパイ小説としては珍しい題材だと思う。けれども、その割にはありきたりなつまらないアクションが展開されていて、スパイ小説というよりは冒険小説に近い内容になっていた。正直、期待はずれの感は否めない。

そういうわけで、本作の読みどころは英国諜報員メシュインが大自然の中でサバイバルをするところだろう。『ウォールデン』【Amazon】を愛読する彼は、大好きな鱒釣りに興じつつ、山奥の洞窟で一人孤独な生活を送ることになる。現代日本に住む我々は、登山もキャンプも管理された安全な場所でやることが当たり前になっている。たとえば、『ゆるキャン△』【Amazon】というアニメは、女子高生が休日に様々なキャンプ場でキャンプをするというまったりした内容だ。そこには危険な要素は一切ない。キャンプ場にお金を払ってキャンプをする。そういう安全なアウトドア生活が描かれている。翻って本作はどうかというと、ガチのサバイバル生活が描かれており、だからこそ興味を引くものになっている*1。こういうのは実際にはやりたくないけど、活字で読むぶんには冒険心が刺激されるので、虚構の中の大自然はいいなあと素直に思う。

本作はユーゴスラビアという珍しい題材を扱っているので、ミステリマニアを自認する人は必読かもしれない。たぶん、読んでる人は少ないんじゃないかな。

*1:こう書くとガチじゃない『ゆるキャン△』がつまらないと思われそうだが、作品としては『ゆるキャン△』のほうが圧倒的に面白い。キャンプを題材にした高品質な日常ものである。

ブルース・チャトウィン『ウッツ男爵』(1988)

★★★

1967年――プラハの春の前年――、語り手の「私」が取材のために一週間プラハに滞在する。彼はそこでマイセン磁器の蒐集家カスパール・ヨアヒム・ウッツと会う。ウッツはユダヤ人だったが、ナチスによる占領や共産主義による支配など、激動の時代を抜け目なく乗り越えてきた。ウッツは西側への亡命も考えていたが……。

週に二度、神妙な顔つきでソヴィエト映画を鑑賞する。友人のオルリークが二人して西側に逃げないかともちかけたとき、ウッツは棚にぎっしりと並んだマイセン製の人形を指さした。

「これと別れるわけにはいかないね」(pp.28-9)

何かをコレクションするのって、男だったら人生のなかで一度は経験すると思う。僕も小学生の頃、おもちゃとして販売されていたカードを集めていた。周囲の友人たちも集めていて、だぶったカードを交換したり小遣いで売買したりしていた。そこには小さいながらも市場が成立していて、今思えばなかなか興味深かった。ただ、コレクションに熱中していたのはおよそ2~3年で、あるとき急激に熱が冷めて全てを手放してしまった。以降、大人になった現在まで何かを蒐集したことは一度もない。小学生だったそのときに気づいたのだ。こんな役に立たない物を集めても仕方がない、と。

そんなわけで、大人になっても蒐集家でいる人たちは、子供の心を持ったある意味で純粋な人なのだと思う。作家のウラジミール・ナボコフと政治家の鳩山邦夫は、蝶の採集をしていることで有名だった。この2人からは何となく高等的な匂いがする。一方、大昭和製紙(現・日本製紙)名誉会長・齊藤了英は、ゴッホルノアールの絵画を巨額の金で購入し、「死んだら棺桶にいれて焼いてくれ」と言って世間の顰蹙を買った。こいつからは邪悪さしか感じない。

では、本作のウッツはどうかと言ったら、高等的でありつつ邪悪さも兼ね備えていて、これぞ蒐集家という人物像だった。彼は暴力は好まないものの、騒乱は歓迎している。なぜなら、そのおかげで世に隠れていた美術品が市場に現れるから。実際、ウッツは水晶の夜にユダヤ人から、大戦末期には赤軍に追われていた貴族から、それぞれ美術品を購入している。まあ、これくらいなら抜け目ない商人といった感じで特に問題はないだろう。問題は自分の寿命が尽きようとしていたときの行動で、蒐集家でない僕には理解不能な取り返しのつかないことをしていた。世間の顰蹙を買った齊藤了英もこんな心理だったのだろうか。残念ながら僕にはよく分からない。

本作の見どころのひとつに、文学的観光名所としてのプラハが挙げられる。言うまでもなく、プラハはあのフランツ・カフカで有名な町だ。ウッツは亡命しようと西側へ下見に行くも、審美眼が高すぎてそこの文化とそりが合わない。ウッツから見たら西側の文化は俗悪極まりなかった。おまけに現地人の民度も低く、旅の途中の列車のなかで女から嫌がらせを受けている。ウッツにとってプラハはメランコリックな気持ちを包みとってくれる町であり、コレクションを国外に持ち出せないという事情も相俟って、結局は亡命を思いとどまるのだった。ミハル・アイヴァス『もうひとつの街』プラハを舞台にしていたけれど、やはりこの町には特別な何かがあると思う。「文学のなかのプラハ」というテーマで論文が一本書けるくらいに町が息づいている。僕も一度でいいからプラハを訪れたいと思う。

馮夢竜『平妖伝』(1620)

★★★

宋の仁宗の時代。老婆の姿をした狐の聖姑姑が、滞在先の華陰県で蛋子和尚と出会う。和尚は卵から生まれた僧侶で、白雲洞の石壁から秘冊『如意冊』を写し取っていた。『如意冊』は春秋時代に白猿の化身・袁公が天上から盗み出して下界に持ち込んだ代物。秘冊を解読した聖姑姑は妖術を習得、さらに彼女の弟子になった蛋子和尚も同じく妖術を習得する。やがて聖姑姑たちは貝州で則天武后の生まれ変わりである王則と出会い……。

「天后さまがご在位の時には、仏像を鋳たり、塔を造ったり、広く仏事をおこされた功徳は少なくなかったと聞き及びます。それを、なにゆえにまだ冥土にお迷いでございますか」

「およそ人はまず清浄の心を発し、後に布施の福を得る。朕は心構えが不浄で、魔道を修めた。当時、女としての福はことごとく受けたが、ただ男になれぬのが恨めしかった。仏をあがめ祈願したのは、そのためにほかならない。いまや因縁はめぐり来らんとし、すでに上帝より、男子として生まれかわらせるとの命令がでているのだ」(p.54)

当時の中国人がどういう物語に親しんでいたのか、という意味で興味深かった。九天玄女と袁公が出てくるところは『西遊記』を連想させるし、天罡星と地煞星が出てくるところは『水滸伝』【Amazon】を連想させる。本作は『西遊記』と同じく仏教(及び道教)の影響が強い。たとえば、貝州の軍人で後に反乱を起こす王則は則天武后の生まれ変わりだし、聖姑姑の娘の胡媚児は則天武后の愛人だった張六郎の生まれ変わりである。この転生という概念は明らかに仏教が由来だろう。面白いのは、王則も胡媚児*1も自分の前世を自覚してないところだ。この辺が仏教的リアリズムというのか、転生にもそれなりのルールがあるのが垣間見える。転生すると前世の記憶を忘れるのって、物語としては広がりがなくて不便だけど、大枠である仏教がそういう設定なのだから仕方がないのだろう。ともあれ、こうやって宗教が庶民の生活に根付いているなんて、今の中国からは想像がつかない。

西洋にはキリスト教があって、中国には仏教と道教がある。中国文学は比較的最近まで神話を取り入れていたようで、本作では天上界の九天玄女が当たり前のように下界に介入してきたりする。同時代の西洋文学が素朴な神話から離れていたのに対し、中国文学はそうではないところが興味深い。神々と人間が関わり合うところはギリシャ神話のようであり、妖人が人間社会を騒がせるところはいかにも前近代的といった感じだ。本作は王則の乱という歴史的事実を土台に、妖術やら転生やらで味付けしていて、当時の中国人はこういう物語を好んでいたのかと感慨深くなった。同時代を題材にせず、舞台を過去に設定するのは、政治的に問題があるからだろうか。下手したらお上に首を斬られかねないし。いずれにせよ、中国には長い歴史があるから題材には事欠かない。

本作を読んで思ったのは、完璧な人間は存在しないし、完璧な社会も存在しないということだ。王則が反乱を起こしたきっかけは、貝州の知事が兵士たちに俸禄を支給しなかったため、彼が代わりに米と銭を与えたことによるのだけど、じゃあ王則が掛け値なしの善人かと言えばそうでもなく、権力を握った後は民草に酷い仕打ちをしている。結局は皇帝になって好き勝手したいだけなのだ。そこに正義なんて欠片もない。この俗物ぶりがおよそ則天武后の生まれ変わりとは思えなくて、何のためにわざわざ転生してきたのか分からない。皇帝の生まれ変わりという設定は、単に妖人たちを彼のもとに集結させるための餌でしかなくなっている。

「王則のあの法術は仏道で金剛禅とよび、道教では左道術とよんでおります。もし両方ともできるならば、それは二会子とよぶのですが、みな邪法で、ただ豚と羊の血および馬の尿、犬の糞、にんにくを恐れます。もしその一滴をかやつの体の上にたらせば、鬼神に変ずることもできず、妖術も使えなくなるのです」(p.355)

官軍との戦いでは、妖人たちが妖術を使って活躍するのだけど、実はその妖術を破る方法があって、しかもそれが単純な方法だったのは予想外だった。それまであまりにやりたい放題やっていたから、てっきり無敵だと思っていたのだ。しかも、彼らの妖術は天上界の秘冊が由来だし。だから上の引用を読んだときはびっくりしてしまった。神々の術を打ち破る方法があるんだなあ、と。まあ、物語を勧善懲悪で終わらせるには、妖術が無敵であっては困るわけで、落とし所としてはこんなものなのだろう。仮に妖術が無敵だったら、天下は妖人たちのものになっていて、史実と整合性がとれないから。

というわけで、本作は昔の中国人がどういう物語に親しんでいたか知りたい人にお勧め。順番としては、四大奇書*2と『紅楼夢』【Amazon】を読んだ後の落ち穂拾いにでも。

*1:後に胡浩の娘・胡永児として転生する。

*2:三国志演義』【Amazon】、『水滸伝』【Amazon】、『西遊記』【Amazon】、『金瓶梅』【Amazon】。