海外文学読書録

書評と感想

ハ・ジン『待ち暮らし』(1999)

★★★★

軍医の孔林は妻の淑玉と離婚すべく、毎年夏に帰省して妻と人民法院に通っていた。ところが、当初は離婚に同意していた妻も土壇場で考えを翻して離婚できない。林は早く妻と別れて看護婦の呉曼娜と結婚したかった。軍規によると、別居が18年続けば相手の同意がなくても離婚が成立するため、林と曼娜はひたすら待ち暮らしをする。文革期に出会った2人は、改革開放期になってようやくその日を迎えるのだった。

墓から戻って一日じゅう、林は自分の置かれた苦境について考えた。村人から淑玉について尋ねられたら、自分はきっと淑玉を完璧な妻と認めるにちがいない。たぶん、淑玉とある程度の歳月を共に暮らしたらならば、彼女を愛することもできたのだろう。互いを知らないまま結婚し、そのあと歳月をかけて完璧な夫婦になっていく男女がいくらでもいるように、自分たちだって幸せな人生を送ることができたのかもしれない。けれど、淑玉と充分に理解しあえるほど長い時間を一緒に過ごすことなど、どうして可能だっただろう? それは、林が軍隊をやめて家に戻らないかぎり不可能だった。そんなことは考えられない。林の仕事場は、その都会なのだから。

理想的な解決策は、妻を二人持つことかもしれない。都会では曼娜を、田舎では淑玉を。だが、重婚は違法だし問題外だ。こんな絵空事を想像しても仕方ない。曼娜に会わなければ自分の人生はどんなだっただろう、と、林は考えずにはいられなかった。このジレンマから、いま抜け出すことができたら……。(pp.105-106)

全米図書賞受賞作。

『アメリカーナ』を読んだとき、僕はこう確信したのだった。一流の作家がメロドラマを書くと極上の読み物になるのだ、と。つまり、小説というのはストーリーで良し悪しを判断すべきではなく、あらすじからこぼれ落ちるディテールが肝心なのだ。通俗的なプロットを採用しているからといって、頭から馬鹿にしたものではない。注意深く読み込めば、そこには思わぬ鉱脈が眠っている。本作は『アメリカーナ』に比べれば一段落ちるものの、中国ならではの背景なり制約なりが面白く、表面的はありきたりなメロドラマであるにもかかわらず、読んでいて満足度が高かった。これは舞台が中国であることが大きい。莫言や閻連科が描くようなディープな中国とは違い、やや脱臭された薄口の中国ではあるけれど、それでも欧米とは違う異国趣味が抜群で読ませる。本作が全米図書賞を受賞したのも何となく分かる。英文の良し悪しはともかく、内容はアメリカ人からしたらさぞ新鮮だったことだろう。

本作を読んで、男の身勝手さは救いようがないと思った。林の妻である淑玉は纏足をした醜女ではあるけれど、情愛は深くて何の落ち度もない。むしろ、家庭をしっかり守る良妻賢母といった感じである。ただ、親が勝手に決めた結婚であるうえ、前述のように醜女であることから、林は彼女を愛せないでいる。愛のない夫婦なんてごまんといるから、それだけなら特に問題はないだろう。問題は林がその感情にかこつけて不倫しているところだ。勤務先で曼娜という若い看護婦のことを愛し、紆余曲折あった末に彼女との結婚を望むようになる。しかし、林と曼娜の間にも問題があって、それは曼娜が享受すべき女盛りの時期を無為に過ごさせているところだ。曼娜は自分のことをオールドミスだと嘆き、自身が高齢の処女であることについて林を責めている。林は淑玉のことも曼娜のことも傷つけたくないから煮え切らない。そのやさしさがかえって曼娜のことを傷つけている。このシチュエーションはまるで『寒い夜』みたいだ。自分はあくまでいい人であろうとする身勝手さ。それだったら初めから不倫しなければいいのに……。男というのは本当にどうしようもない生き物である。

本作の小ネタで面白かったのは、林が曼娜に代わって『草の葉』【Amazon】の感想文を書くところ。林にはこの詩集に込められたアメリカ的な価値観が理解できず、労働者階級を賛美する作品として、すなわち共産主義イデオロギーで読み替えて感想文を書いている。この辺のユーモアもアメリカの読者に受けたのではなかろうか。共産主義はギャグみたいなことを本気でやっていて面白い。

セース・ノーテボーム『儀式』(1980)

★★★★

舞台はアムステルダム。1963年。30歳のインニ・ウィントロップは、愛する女ジータに逃げられ首吊り自殺を図る。しかし、彼の自殺は未遂に終わるのだった。1953年。インニは叔母の元恋人であるアーノルト・ターズと出会う。彼は儀式的に日常を送る無神論者だった。1973年。インニは美術商の店で、偶然にもアーノルトの息子フィリップと出会う。彼は日本文化の愛好家だった。

「長いことアジアにいたんですか?」

「どうして?」

「ここはすべてがほんの少し……日本的なんです」

「ぼくは日本に行ったことはありません。現代の日本は通俗的ですよ。我々が汚してしまったんです。日本に行ったら、僕の夢は壊れてしまうでしょう」(p.184)

要約すると、儀式と自殺を巡る話といったところだろうか。主要人物の3人がこれらに関わっている。主人公のインニは物語の主体であると同時に傍観者でもあって、アーノルト・ターズとフィリップ・ターズの両者*1と時を経て関わり、彼らの人生の最終局面を見届ける役割だ。本作は1963年を舞台にした幕間、1953年を舞台にした第一部、1973年を舞台にした第二部と構成がはっきりしていて、分かりやすい時事ネタを織り込みつつ、ターズ親子をインニとの関わりにおいて描いている。無神論キリスト教、さらに日本趣味が絡まり合うところは複雑で、これらを解きほぐすのはなかなか骨が折れるけれど、読んでいる最中は登場人物の美学や哲学が面白く、総じて実りのある読書だったと思う。

信仰を持っていなくても、カトリックの演劇的な儀式に惹かれるのはよく分かる。「聖歌や香煙、儀式の色彩などがひどく気に入って、信仰もないのに修道院に入りたいと思ったほどだ」という述懐は、たとえ無神論者でも西洋に住んでいたら一度は感じるのではなかろうか。日本に住んでいる僕だと、ちょうど仏教にそれを感じる。葬式には毎度毎度うんざりしながらも、その儀式的な部分には何らかの威厳があることを認めているし。さらに僕は相撲が好きなので、そこに散見される神道の儀式にも見るべきところがあると思っている。もちろん、僕は仏教や神道の信者ではない。無神論者と言っていいだろう。儀式には門外漢さえも感心させる何かが潜んでいるわけで、だからこそ人間社会で欠かせない存在になっている。

日本趣味が全開の第二部はけっこうなサプライズだった。西洋人らしいと思ったのは、茶道でお茶を飲む儀式をキリスト教のワインを飲む儀式と重ねているところ。こういうのは僕みたいな不信心者だと想像の埒外で、指摘されて思わず目から鱗が落ちた。あと日本趣味と言えば、昔の日本は浮世絵と茶道の国だったけれど、今は漫画とアニメの国になっている。年季の入った日本文化愛好家は、この体たらくを見てどう思っていることだろう?

*1:あらすじで書いた通り、この2人は親子である。

李永平『吉陵鎮ものがたり』(1986)

★★★

連作短編集。「万福巷」、「天気雨」、「赤天謡」、「人生風情」、「灯り」、「十一のおっかさん」、「蛇の呪い」、「降りしきる春雨」、「荒城の夜」、「大水」、「思慕」、「地に降りそそぐ花雨」の12編。

この日劉老実は店を開けると、朝早くからいつもどおり両足で棺桶板をまたいで、シャーッシャーッと木材にカンナをかけていた。口に煙草をくわえ、うつむいたまま、ひとこともしゃべらない。劉ばあさんは朝早くからひとり路地口へ行き、白髪まじりの頭を振りたてて、腰を曲げ、目を細めて、通る人に指を突きつけながらわめいた。

「雷に打たれてしまえ!」

「雷に打たれてしまえ!」

一日中、呪いつづけた。(p.44)

本書を読むまで台湾文学に馬華文学というサブジャンルがあるとは知らなかった。馬華文学とは、マレーシア出身の華人による文学らしい。一ジャンルを成すほどだから、マレーシアから台湾に移住する人が多いのだろう。ただ、本作にマレーシア要素が見られるかと言えばそんなことはなく、むしろ土俗的な中国、外国文化に毒されていない純粋な中国が表象されていたと思う*1。異国的な要素は、「荒城の夜」に『アイヴァンホー』【Amazon】が、「大水」にキリスト教七つの大罪がちらっと出てきたことくらい。ここに描かれた吉陵鎮は幻想の中国と言えそうだけど、しかしそれを言ったら、フィクションによく出てくるロンドンやニューヨーク、東京なども、文字によって表現された幻想の都市である。

本作は連作という形で庶民の人間模様をワイドスクリーンで捉えている。最初の短編「万福巷」で、ならず者が人妻を強姦して自殺させ、寡夫になった男が発狂して殺人を犯すというエピソードが描かれている。これが通奏低音として連作全体に流れつつ、微妙に連関する人々の営みを描いて吉陵鎮という一つの町を形作っている。町というのは人間がいるから成り立っているのであって、町の物語とはすなわちそこに住む人間の物語だということなのだろう*2。人々はいかにも中国文化圏といった感じの原始的な所作をしていて、道端に痰を吐いたり、かんざしで歯をほじったり、祭りで爆竹を鳴らしたり、同じ台湾文学の『歩道橋の魔術師』とは隔世の感がある。前時代的というか、大陸から脈々と受け継がれてきた古き良き世界がありありと表現されている。

他には3つの短編を1つのユニットとして区分けし、それぞれのユニットに通奏低音とは別のライトモチーフを入れていたり、観音祭りのある6月19日に始まって別の年の6月19日に終わる構成にしていたり、連作として工夫されているところが目を惹いた。普通の台湾文学との違いが気になるので、これを足がかりにして他の馬華文学も読んでみたい。

*1:あるいは、単に僕がマレーシア要素を見落としているだけかもしれない。

*2:ジョジョの奇妙な冒険』【Amazon】の杜王町みたいな。

P・G・ウッドハウス『感謝だ、ジーヴス』(1971)

★★★

バーティーの親友ジンジャーがダリア叔母さんの住むマーケット・スノッズベリーで下院補欠選挙に出馬したため、バーティージーヴスが彼に協力すべく本拠地のブリンクレイ・コートに赴く。そこにはバーティーのかつての婚約者だった2人の女性フローレンスとバセット、さらに天敵のスポードがいた。家主のダリア叔母さんは選挙の支援のほか、大金持ちのランクルから金を引き出したがっており……。

「君は彼を知っているのかの?」カメラ男が言った。

「残念ながらそうだと言わねばなりません」モリアーティ教授を知っているかと訊かれたシャーロック・ホームズみたいに、スポードが言った。「彼とはどういう会い方をされたのですか?」

「あいつがわしのカメラを持って歩いて行こうとするところを捕まえたんじゃ」

「ハッ!」

「当然ながらわしはそいつがカメラを盗もうとしているのだと思った。だが彼が本当にトラヴァース夫人の甥御さんだというなら、わしの間違いだったんじゃろう」(p.60)

ウッドハウス・コレクション第13弾。

人物が再登場するのは毎度のことだけど、ここまで勢揃いしたのもなかなかないし、またシリーズにおける数々のエピソードを振り返っていて、まるでジーヴスものの集大成みたいだった。本作はウッドハウスが89歳のときに書いた作品だという(出版されたのは90歳の誕生日)。いやー、これには驚いたね。僕の祖母は当時のウッドハウスよりも年下だけど、もう介護なしでは生活できない体になっているよ。人間ってそんなに歳をとっても小説が書けるのか……。

今回は選挙を題材にしているけれど、もちろんいつも通り男女関係の緊張があったり、バーティーが危機に陥ったりしていて、安心と安全のジーヴスものだった。勘違いによって錯綜するプロットは、例によってシェイクスピアの喜劇を思わせる。今回ツボだったのは、ジュニア・ガニュメデス・クラブに所蔵された紳士の秘密記録が持ち出されて、バーティーを震え上がらせているところだ。ジーヴスは紳士様お側付き紳士(ヴァレット)という身分*1でバーティーに仕えていて、その職業組合がジュニア・ガニュメデス・クラブ。そこには雇用主の善行なり悪行なりが書き連ねられたクラブ・ブックが存在しており、ヴァレットたちはそれを読むことで次の就職先を決めるという。そのクラブ・ブックが重要な役割を果たしているところが可笑しかった。序盤でバーティーが自分の都合の悪い記述を削除するようジーヴスに迫るも、ジーヴスが徹底したプロ意識からそれを撥ねつけているところが微笑ましい。それだけに事の顛末は意外だった。

本作は終盤で4つの問題が出来するのだけど、それらをラスト30頁で全て解決する手際は見事だった。往年のキレが戻っているような気がする。やはりこのシリーズは、こじれた難問をジーヴスが鮮やかに解決するところが肝だし。カントリーハウスやそれに付随する文化、英国小説らしいユーモアが好きな人は、このシリーズを読むべきだと思う。まずは『比類なきジーヴス』【Amazon】から。

*1:ちなみに、カズオ・イシグロ日の名残り』【Amazon】に出てくるスティーヴンスはバトラーである。

アンジェラ・カーター『新しきイヴの受難』(1977)

★★★★

就職のためにロンドンからニューヨークに渡ったイヴリンだったが、勤務予定の大学が爆破されたために計画がご破産になる。アメリカは政情が不安定で、市街地でゲリラが銃撃戦を繰り広げていた。イヴリンは黒人娼婦のレイラに取り返しのつかない後遺症を残した後、車で砂漠に逃避する。そこで武装した女性に拉致され、女だけの地下世界ベウラに連行されるのだった。イヴリンは外科手術を受け、女性の体を持ったイヴになる。

男性性、女性性は、互いが携わる相互依存。それは確かだしーーある特質とその否定は、必然性の中に結びついている。けど、男性性の本質、女性性の本質って何? そこに男や女は含まれるの? それはトリステッサの長い間無視されてきた器官や、あたしの出来立てほやほやの人工のワレメや飾りの乳房とかと関係あるの? 何も解らない。男と女の両方であるあたしにさえ、これらの問いの答えは解らない。途方に暮れるばかり。(pp.196-197)

あらすじと引用を読めば分かる通り、本作はごりごりのフェミニスト文学なのだけど、荒廃したアメリカと聖書の世界観を融合させたヴィジョンが強烈で、とても印象深い内容だった。人によっては『地下鉄道』みたいにSFに分類するかもしれない(特に何でもかんでもSFにしたがるSF者と呼ばれる人たちは)。作中に漂う終末感が何ともたまらないのである。アンジェラ・カーターの小説は『ワイズ・チルドレン』【Amazon】が傑作で、『夜ごとのサーカス』【Amazon】がいまいちという評価だけど、本作は『ワイズ・チルドレン』に次ぐくらいの出来だと思う。

僕はフェミニストじゃないのに、なぜかフェミニスト文学は好きだ。価値観を揺さぶられるからだろうか。僕は男性に生まれてきたことで幾ばくかのメリットを享受し、同じくらいのデメリットも引き受けてきた。男性に生まれて良かったというよりは、女性に生まれなくて良かったと思っているクチである。現状、女性の権利は男性に比べて制限されているから。ただその一方、専業主婦が羨ましいとも思っていて、男性として生きることのプレッシャーから解放されたいと願っている(要は「働きたくないでござる」ってことだ)。こういう人ってけっこう多いのではなか。現代日本において、男性であること、女性であることは果たしてどちらがマシなのか? みんなの意見を聞いてみたいところである。

他のフェミニスト文学同様、本作もこちらの価値観を揺さぶってくるような小説で、たとえば上の引用のように、男性性と女性性の本質が何なのか分からなくなってしまった。イヴリンは性転換して男性と女性の両方を経験する。男性のときは女性を暴力的に蹂躙し、女性になってからは男性から同じように蹂躙される。一方、イヴリンと関わるトリステッサは、当初は女性だと思われていたものの、実は男性で、男性であるがゆえに完璧な女性に、つまり自分自身の欲望を具現化する存在になった。「もしも女の本当の美しさが男の秘密の熱望を最も完璧に具現化することにあるなら、トリステッサが世界で最も美しい女、人間離れした永遠の女になることができたとしても何の不思議もない。」(p.170)とは言い得て妙である。このように性別を行き来している2人を見ていると、男性性と女性性は生物学的な意味でしか違いはなく、しかしその違いがゆえに生き方を規定されているんじゃないかと思う。およそ文明化された社会であるのなら、こういう違いを取っ払ってフラットにすることも可能なのではないか。人間は高度に発達した文明を持っているのだから、その方面に知恵と労力を使ってもいい。

ところで、僕は次のセリフを読んでぎょっとした。

「神話は歴史より教訓的なんだ、イヴリン。<マザー>は単為生殖の元型を復活させようとしている、新たな方式を利用して。彼女はお前を去勢するよ、イヴリン。それからお前の内側に穴を開けて、『結実の女性空間』と読んでるものを創り、完全な女性性の標本にするだろう。それから、お前の準備ができ次第、お前自身の精子でお前を妊娠させる。お前が彼女と番った後に私が採取したものを、集めて冷凍してあるのよ」。(pp.91-92)

主語が大きくて恐縮だけど、男性というのはみな去勢されることに対して恐怖を抱いている。そして、自分が妊娠することに対しても恐怖を抱いている。そういう覚悟が出来てないというか。この部分を読んで、村田沙耶香の『殺人出産』【Amazon】と『消滅世界』【Amazon】を思い出した。この2つの小説で描かれた社会では、男性も人工子宮を取り付けて妊娠できるようになっていて、読んだときはぎょっとしたものだった。男性にとって妊娠とは、自分とは縁遠いことで、当事者意識が芽生えていない。去勢も妊娠も同じように忌避すべき対象になっている。

というわけで、読んでいて価値観を揺さぶられまくりだった。