海外文学読書録

書評と感想

閻連科『硬きこと水のごとし』(2001)

★★★

文化大革命期。程崗鎮に住む農民・高愛軍は、村の有力者の娘婿になった後、軍に入隊して穴掘りをしていた。彼は除隊後に夏紅梅という若い女と運命的な出会いを果たす。夏紅梅は鎮の有力者の息子と結婚していた。高愛軍と夏紅梅は相思相愛になり、2人で革命の成就を目指す。高愛軍はある事件を機に村の支部書記になり、副鎮長にまで出世するのだった。彼は鎮長を追い落とそうと画策するが……。

そのとき、彼女は突然サッと彼女の両足の間を覆っていた服を投げ捨て、フウッと息をすると俺の前に全裸を曝した。彼女の顔は革命者としての固い信念と何者をも恐れない気概に満ち、何も眼中にない自信と傲慢さで輝いていた。「愛軍、見たいところを見て、見たいように見て、今から空が暗くなるまで、暗くなってから夜が明けるまで、明日まででも明後日まででも」彼女は続けた。「ここで瞬きもせずに三日三晩見てもかまわない、もし食べるものがあったら、一生この墓から出なくもいい、あたし夏紅梅は頭のてっぺんから足の先まで、髪の毛一本、産毛一本まで一人の革命者、あなた高愛軍に捧げるわ」(p.94)

革命と恋愛が渾然一体となった奇妙な小説だった。語り手の高愛軍は何かにつけて毛沢東の言葉を引用する生粋の革命家だけど、実は革命を立身出世の道具にもしていて、本音と建前の境界が曖昧である。農民からの下克上が目的のようにも思えるし、革命を本気で信じているようにも思えるし、その真意は測りかねる。あるいは、この2つは矛盾しないのかもしれない。既存の秩序をひっくり返しつつ、ちゃっかりおこぼれに与りたいのが人情だろう。古今東西の革命を思い返してもみても、そういう面は否定できない。

高愛軍のパートナーになるのが美女の夏紅梅で、彼女は愛人に対して驚くほど従順だ。中国文学と言えば、気の強い女性が連れ合い相手に罵声を浴びせたり悪態をついたり、そういうたくましさが前面に出ている場合が多いけれど、夏紅梅はその枠からはみ出している。何というか、「一生あなたの後を付いていきます」みたいな健気な性格。お互いの家と家を結ぶ地下道で逢瀬を重ねるところなんかとてもロマンティックで、僕の抱いていた中国人女性のイメージとはだいぶかけ離れていた。物語を通して2人がまったく喧嘩をしなかったのは特筆に値する。

18世紀イギリスの保守政治家エドマンド・バークは、『フランス革命省察』【Amazon】という著書のなかで、フランス革命のような急進的な改革を否定的に論じていたけれど、もし彼が文化大革命を目の当たりにしたら、自説の正しさをより強く確信したはずだ。およそ保守主義からは程遠い僕でさえ、社会は漸進的に良くしていくべきだという主張にはそれなりの説得力を感じる。たとえば、日本でも格差社会が問題になっていて、これは早急に解決すべき事案ではあるけれど、だからと言って階級闘争に仕立て上げて天地を逆さまにするのはやりすぎだと思うし。その一方、北朝鮮みたいに民衆が抑圧されている国では、武力による革命が必要だとも思う。結局、革命は否定すべきなのか、それとも必要悪として容認すべきなのか。それを判断するのはなかなか難しい。

毛沢東の個人崇拝を利用した監獄特殊拘置室にはぎょっとした。床に彼の肖像画が敷き詰められていて、それを踏むと罪になるという仕組み。およそ文明国とは思えないトチ狂った社会システムに驚かされる。そもそも高愛軍と夏紅梅がここに閉じ込められた理由もすごく下らなくて、まるでディストピア小説を読んでいるような気分になった。中国というのはつくづく深い闇を抱えた国だと思う。

ニック・ホワキン『二つのヘソを持った女』(1961)

★★★

香港。獣医師のペペは両親がフィリピン人だったものの、彼自身は一度も祖国の土を踏んだことがなかった。そんな彼の元にフィリピンから名門一族の娘コニーが訪ねてくる。彼女は自分のお腹にヘソが2つあるので手術してほしいとコニーに依頼する。その後、コニーの母コンチャがペペのもとを訪問、自分たちのことを語る。コニーは夫を捨てて香港に家出してきたのだった。

「人間の肉体ってなにかの印をつけられていることはないんでしょうか――どこからきたのかわからないなにか不思議な印を?」

「聖痕という意味ですか?」

「そんなことはないとお思いになる――」

「よろしいか、聖痕は聖痕だけに神が特別なお恵みとしておあたえになったものです。それに、われらの主が、そんな……そんな……奇妙なことをお許しになるようなあらっぽい方では決してないとわたくしは思います……えー……こともあろうに、そういう想像をするなんて!」(pp.150-151)

本作の中心にあるのは親子関係の悲劇で、コニーがいかにして救われるかに焦点が当たっている。その一方、サブプロットとしてフィリピンの歴史にも触れていて、同国に馴染みがない者としては刺激的だった。フィリピンは1565年から1898年までスペインの植民地で、以降1946年までアメリカの植民地になっている(太平洋戦争中は日本軍に占領された)。言葉もスペイン語から英語に切り替わっているし、アメリカの方針によって原住民のキリスト教化が推進された。現代では日本人がセブ島に英語の語学留学をすることから、フィリピンはアメリカ文化の国というイメージがある。しかし、実はその地層の下の部分にはスペインがあって、その上にアメリカが乗っているのが実態のようだ。本作の舞台は第二次世界大戦後だけれど、過去の話として1900年頃からの闘争が話題になっていて、この国が植民地だったことを否が応にも意識させる。太平洋戦争中も苦労があったようで、戦後に帰ってみたら家が滅茶苦茶になっていたというエピソードもある。戦禍に巻き込まれるのは金持ちも庶民も変わらない。フィリピンについてはあまり詳しくなかったので、歴史的なエピソードはなかなか新鮮だった。

コニーには本当にヘソが2つあるのか? というのが当面の謎になっていて、僕もそれが知りたくて知りたくて仕方がなかった。ある場面では、人生から目をそむけるための作り話ではないか? という疑惑が出てくる。しかし、誰もヘソを確認してないので真偽が分からない。また、コニーは小さい頃、ぬいぐるみを池に捨てて、泥棒に盗まれたと親に嘘をついたことがあった(それはビリケンを手に入れるためだった)。実は2つのヘソもその延長上ではないか? コニーには虚言癖があるのではないか? ……とまあ、そんなこんなで読んでいるこちらの好奇心が掻き立てられる。いずれにせよ、コニーには親子関係、さらには夫婦関係に問題があることは確かで、そのことを幻視的なヴィジョンで示すところは圧巻だった。異なる場面場面をシームレスに繋ぐ手法で、彼女の内的世界に迫っている。

自分が救われるためには、とことん利己的にならなければいけない。たとえモラルに反しても、誰かを傷つけることになっても。この部分を読んで、ヘンリク・イプセン『人形の家』【Amazon】を思い出した。同作ではノラという人妻が、家庭という檻から逃れるために子供を捨てて家を出ている。こういうのってキリスト教の一般的な考え方なのだろうか? 本作では、堕落すればするほど上昇して悔い改める可能性がある、みたいなことを神父が述べていて、随分と倒錯していると思った。

E・M・フォースター『天使も踏むを恐れるところ』(1905)

★★★

ソーストンの中産階級に嫁いだリリアは、娘アーマを産んでからしばらくして夫を亡くす。リリアとアーマは、夫の家族であるヘリトン家の干渉を受けながら2人で暮らしていた。そんなあるとき、リリアは年下のアボット嬢とイタリアへ旅行することになる。イタリアからヘリトン家にもたらされたのは、リリアが現地人と婚約したとの知らせだった。一家は急遽、長男のフィリップを派遣する。

母親はあまり論理的ではないとフィリップは思ったが、そんなことを言っても無駄だった。「『新しき人生ここに始まる』。覚えてますか? リリアを見送ったときにみんなで言った言葉です」

「覚えてますよ。でも、これがほんとうの『新しい人生』です。ヘリトン家がひとつになったんですもの。あのときは、おまえはまだイタリアに夢中でした。イタリアには美しい絵や教会がいっぱいあるかもしれませんが、国の価値は、そこに住む人間の価値によって決まるんです」(p.87)

著者のデビュー作。2つの異なる価値観をぶつけるというお得意のテンプレはデビュー作から確立していて、今回はイギリスの中産階級とイタリアの労働者階級をぶつけている。ヘリトン家の長女ハリエットは文化の違いに馴染もうとしない保守的なイギリス人だし、リリアと結婚したジーノは金目当ての結婚であることを隠さない享楽的なイタリア人である。唯一この2人の架け橋になりそうなのがヘリトン家の長男フィリップで、彼はイタリアかぶれの若き弁護士だ。現代文学では「何を書くか」よりも「どのようにして書くか」が重視されるけれど、本作の場合はちょうどその逆で、「どのようにして書くか」よりも「何を書くか」のほうに興味が向くようになっている。イギリス人とイタリア人、中産階級と労働者階級。この水と油のような両者が交わることでどのような化学変化を起こすのか。本作は単純なプロットでありながらも先が気になるような小説だった。

序盤で主要人物を唐突に殺すところもお得意のテンプレという感じ。こういうサプライズを盛り込んだ展開って、古き良き英国文学でもなかなか珍しいのではないかと思う。その一方、婚約を巡ってドッタンバッタン大騒ぎするところは、ジェイン・オースティンP・Gウッドハウスといった伝統的な英国文学を連想させる。E・M・フォースターって自分が作ったテンプレを後々まで頑なに踏襲しているけれど、彼が文学史の中でどのように位置づけられているのか、ちょっと気になってしまった。

強い信念がある人間ほど過ちを犯す。特にその信念が信仰心に裏打ちされている場合は。宗教というのは道徳心を育む反面、行き過ぎた正義感によって視野狭窄を起こすこともあって、これは一筋縄ではいかない劇薬ではないかと思った。終盤でハリエットがやったことは絶対に許されないことで、宗教が彼女をここまで歪ませたと考えると、まったくぞっとする話である。こういうのを読むと、コンスタンティヌス帝がミラノ勅令でキリスト教を公認したのは間違いだったのではと思ってしまう。実は同じことを、『ローマ人の物語』【Amazon】を読んだときも思ったのだった。今すぐタイムマシンに乗って歴史を修正しに行きたい気分だ。

本作の欠点は、キングクロフト氏の扱いだろう。彼は未亡人になったリリアと親密な関係を築いた紳士で、そのあらましを読む限りでは重要人物と言ってもいいほどである。リリアの良き理解者として、彼女と手紙のやりとりをするキングクロフト氏。しかし、そんな彼も序盤のサプライズの後に影を潜めてしまい、以降本筋にまったく関わってこないのだった。これじゃあ、いったい何のためにああいう人物を造形したのか分からない。本作はまだまだ習作という感じだった。

ジョージ・ソーンダーズ『短くて恐ろしいフィルの時代』(2005)

★★★

〈内ホーナー国〉は国民が一度に1人しか入れないほど小さく、残りの6人は、〈内ホーナー国〉を取り囲んでいる〈外ホーナー国〉内に設定された〈一時滞在ゾーン〉に身を寄せ合っていた。あるとき、〈内ホーナー国〉の土地が縮んでしまう。外ホーナー人のフィルは、自分たちの領土にはみ出してきた内ホーナー人から税を徴収することを提案、容赦なく金品を取り立てる。その後、彼は筋肉ムキムキの2人組を部下にして独裁権力を手に入れるのだった。

「わが民よ!」フィルは耳をつんざくほどの大音声で言った。「この者どもがこの世に存在するかぎり、彼らはわれわれに何度でも牙をむくであろう! よって、われわれが完全な平和を見るためには、彼らに完全に消えてもらうしかない! 完全に、永遠に、徹底的にだ! さあ、これよりわれわれは永遠の平和を実現しつつ、同時に卓越した経済観念も発揮しようではないか。すなわち向こう五日ぶんの税金を前倒しで徴収する、すなわち彼らの国の全資産を今この場で没収するのだ!」(p.115)

人間じゃないよく分からない機械生命体を用いた寓話。独裁権力を風刺した内容で、訳者あとがきでは『動物農場』【Amazon】が引き合いに出されている。

権力を得るにはまず周囲からの承認があって、さらにそれを維持・強化するには暴力が必要不可欠となる。マックス・ヴェーバーは『職業としての政治』【Amazon】の中で、ある主体が国家になるためには暴力の独占が必須の条件になる、みたいなことを述べていた。確かにその通りだと思う。北朝鮮や中国のような特殊な例を挙げるまでもなく、日本やアメリカといった現代の民主主義国家にも例外なく当てはまっている。地球上にあるどの国も、警察や軍隊を国家が独占しているから国家として成り立っている。我々が法律に従うのも背景に暴力があるからで、権力は暴力の独占によって維持されているわけだ。問題はどうすれば独裁になってしまうかだが、本作はそこのところを的確に捉えて風刺している。

僕が初めて権力について考えたのは小学3年生のときだった。ある日、全学年が校庭で運動会に向けて行進の練習をしていたのだが、その最中に後ろにいた人とふざけ合いをして教師に見つかり、群衆の輪から連れ出されて練習を見学させられる羽目になった。そのとき、教師に見学を強制されたことに驚いたし、さらには練習を外から眺めていて名状し難い違和感をおぼえた。同じ服装、同じ体操服を着た子供たちが、不自然な集団行動に従事している……。なぜ、我々はこんなことをさせられているのだろう? 整然と行進することに何の意味があるのだろう? 大人になった今だったらこれを北朝鮮マスゲームになぞらえているところだが、小学3年生の僕にはそんなこと思いもつかない。この気持ちの悪い秩序を支えているのはいったい何なのか。これが権力――当時は権力という言葉もろくに知らなかったが――を意識した初めての出来事だった。その背景に教師による暴力の独占、国家から承認された暴力の独占があることは、大人になった今だからこそ分かることである。学校とは国家の内側にある閉鎖的なプチ国家であるから。

というわけで、国家を支えているのは暴力であることを再認識させられたのだった。

マルカム・ブラドベリ『超哲学者マンソンジュ氏』(1987)

★★★★

無名の哲学者マンソンジュ。しかし、彼がいなかったらエーコも知られぬまま終わっていただろうし、デリダが生まれることもなかったと言われている。マンソンジュは自身を不在の神と称し、著書に自分の名が印刷されることも禁じていた。彼は性をテーマにした『フォルニカシオン』を刊行後に忽然と姿を消している。学者のブラドベリが、そんなマンソンジュのことを評伝形式で語っていく。

今日、世界の大都市で開かれる学会やカクテルパーティーにおいて、ラカンを受けてデリダで返すこともできぬとすれば、あるいはフーコーの一撃をクリステヴァでフォローすることもできぬとすれば、それはいささか間抜けな話、否、純然たる愚といわねばなるまい。(p.42)

これは面白かった。同時代の現代思想を題材にしているところがたまらなくレトロでいい。僕が哲学に興味を持っていた学生の頃は、ソーカル事件によって既に現代思想は死に体だったので、本作が構造主義脱構築を生き生きと語り、ソシュールデリダフーコーなどに喜々として言及するところに、幸福な時代の空気を感じて思わず涙が出そうになった(大嘘)。本作は一種の偽史というか、思想史にマンソンジュという架空の人物をねじ込んだ評伝で、虚構である彼の思想を存在するものとしてもっともらしく語っている。様々な思想家や哲学者の名前が飛び交うその衒学的な内容は、読む人が読めば懐かしさと同時に感動を呼び起こすこと間違いないだろう。僕は世代的にニュー・アカデミズムの栄光には浴さず、『構造と力』【Amazon】は既に時代遅れの古典に成り果てていた。義務的にレヴィ=ストロースフーコーは読んでいたものの、それらを引用するのは恥ずかしいという風潮があった。大学の哲学科は精神疾患者の溜まり場で、みんな哲学よりも薬物――向精神薬脱法ドラッグ――に詳しかった。僕は哲学科の人間ではなかったのでその闇については詳しくないけれど、文系の中でもっとも拗らせていたのが哲学科だったと記憶している。そして、本作はそんな知的病人が、あの時代は良かったと思いを馳せるための小説と言えるかもしれない。80年代、それは哲学にとって何て幸福な時代だったのだろう!

ロブ=グリエビュトール、サロートといった新しい作家たちの小説は、リアリズムの伝統に全面的異議を唱え、リアリズムとは外の世界に何かがあると思い込んでいる人々のでっち上げにすぎないことを暴こうとした。ヌーヴォー・ロマンサルトルカミュの悲劇的ヒューマニズムを退け、小説は悲劇にかかわるものでもヒューマニズムにかかわるものでもなく、ロブ=グリエの言を借りれば、ただ単に「世界ののっぺらぼうの、無意味、無精神、無道徳な表面」を提示するだけだと宣言する。ということはつまり、小説というものが、ただ単にそこにあって年中われわれを睨みつけている事物によって――〈ショーズ〉によって、と当時は言ったものである――成立するということになる。もっとも、さらにいえば、そもそもこの新しい小説は内面という異端を退けるものであるからして、そこにはもはや睨みつけられるべき「われわれ」もありはしない。実際、いまや小説は、思考し、物事の意味を構築する「人物」をもつことができなくなってしまった。その代わりに、家具とか虫の死骸とかが物語の責任を負わされるべく導入され、しばしば決して自分に向いてはいない役柄を演じる破目になった。ヌーヴォー・ロマンはまた、超越論的なものを退け、ロブ=グリエも言ったように「形而上学の彼岸への序曲」たることを拒んだ。かくして小説は大きく変容し、ポストモダン的状況のなかに置き去りにされた。小説がその状況のなかで茫然と立ちつくすのを、いまなおわれわれはしばしば目にするのである。(pp.97-98)

ところで、以上はヌーヴォー・ロマンについて要点を押さえた簡潔な説明であり、同時に僕がなぜヌーヴォー・ロマンが苦手なのかも明らかにされている。仏文科も哲学科に負けず劣らず拗らせた人間が集まっていたけれど、それについてはまた別の機会に語ることにしよう。ヌーヴォー・ロマンについてもおいおい語っていきたい。今回はメモとして上の文章を載せておく。

とりあえず、こういうメタフィクションってたまに読むとすごく面白いということが分かった。本作の語り手はいかにも学者らしく、ボルヘスナボコフベケットに関心を寄せている。読者もその3人が好きな人向けになりそう。また、現代思想が輝いていた時代を存分に味わいたい人にもお勧めである。こういうのは古びているからこそかえって新しいのだ。今後、一周回ってまたブームが来るかもしれない。