海外文学読書録

書評と感想

レアード・ハント『ネバーホーム』(2014)

ネバーホーム

ネバーホーム

 

★★★

南北戦争インディアナ州で夫と農場を経営するコンスタンス・トムソンは、夫のバーソロミューの体が弱いため、彼に代わってオハイオ州北軍に入隊する。コンスタンスはアッシュと名前を変え、男のふりをして兵隊生活を送ることになった。訓練の後、隊は南に向けて出発する。

「もう体の芯までくたびれています」このやりとりがあった日の晩、わたしは夫にあてて書いた。

「帰る気になったら帰っておいで」と夫は返事をよこした。「ぼくたちはまたやりなおせるよ」

「帰る気にならないの、まだ」とわたしは書いた。

「ぼくは待つよ、ずっと」と夫は書いてきた。

それから大佐が命令を発して、わたしたちは行軍をはじめ、キレイな水の帯をわたって、ひくいミドリの山をこえ、わたしの地獄のはじまりにはいっていったのだ。(p.91)

レアード・ハントの小説を読むのは『インディアナインディアナ』【Amazon】以来、およそ11年ぶりになる(こういうときブログに読書記録をつけておくと便利だ)。

本作はコンスタンス(アッシュ)の一人称で語られるのだけど、全体的にやたらと平仮名を多用していて、柴田元幸の翻訳も新たな境地に達したのだなと思った。この人は最近『ハックルベリー・フィンの冒けん』【Amazon*1も翻訳したから、その影響があるのかもしれない。Amazonで『ハックルベリー・フィン~』の訳文が一部抜粋されているけど、こちらも平仮名を多用した独特の翻訳だった。柴田元幸はいったいどこへ向かおうとしているのだろう? 翻訳小説ファンとしてはその動向に目が離せない。

コンスタンスの語りは無垢な田舎者という感じで、作中では相当酷い目に遭っているのに感情的にならない。何かにつけて夫に手紙を送ったり、死んだ母親のことに思いを馳せたりしている。その一方、セリフはけっこう荒っぽいし、行動に至っては容赦なく人を殺していて何とも粗暴だ。この小説は語りと言動のギャップがすごくて、無垢と粗暴、2つの相反する要素が同居しているところが面白い。一人称小説のマジックを見せられたような気分になった。

ストーリーは男装の麗人が戦場で活躍するのを予想していたけれど、そこはいい意味で裏切ってくれた。まあ、普通はそういう単純な話にならないよねって感じ。捕虜になって風癲院で過酷な仕打ちを受けるのはとても理不尽だったし、終盤では銃撃戦の末に悲しい出来事に直面していて、コンスタンスの人生は何なんだろうと思った。この小説、第3章からはロードノベル風になっていて、「ペネロペがいくさに行ってオデュッセウスが家にのこる」という作中人物のセリフの通り、どこか『オデュッセイア』【Amazon】を連想させる。ラストの悲劇はそこを逆手にとっているのだろう。『インディアナインディアナ』同様、文章に独特の味わいがあって心に残った。

*1:「冒険」が「冒けん」になっているところがポイント。

陳浩基『13・67』(2014)

13・67 上 (文春文庫)

13・67 上 (文春文庫)

 

★★★★★

連作短編集。「黒と白のあいだの真実」、「任侠のジレンマ」、「クワンのいちばん長い日」、「テミスの天秤」、「借りた場所に」、「借りた時間に」の6編。

――覚えておけ! 警察官たるものの真の任務は、市民を守ることだ。ならば、もし警察内部の硬直化した制度によって無辜の市民に害が及んだり、公正が脅かされるようなことがあるなら、我々にはそれに背く正当性があるはずだ。(p.78)

日本以外のアジアン・ミステリは今回初めて読んだけれど、これはとてつもない傑作だった。本書は香港を舞台にした警察小説であり、同時に本格ミステリと社会派ミステリを高いレベルで融合させた野心作でもある。一つ一つの短編の出来も去ることながら、クワンという「名探偵」を主軸に据え、だんだん年代を遡っていく構成がとても秀逸だ。最初の短編が2013年、最後の短編が1967年と、およそ半世紀の時をまたいでおり、その時々の香港を映し出している。同じ警察組織でも、中国人が主導権を握っていた時期とイギリス人が主導権を握っていた時期とでは雰囲気がまったく違っていて、事件も当時の世相が反映している。この辺の歴史を感じさせる部分が社会派ミステリとしての醍醐味で、香港の特殊性に否応なく直面させられたのだった。

本格ミステリとしては、安楽椅子探偵を極端な形にまで推し進めた「黒と白のあいだの真実」が出色である。推理におけるロジックの冴えと、安楽椅子探偵のモチーフを裏返したサプライズは強烈だった。「名探偵」として名高いクワン警視は末期がんで昏睡状態にあり、彼はコンピュータを介して「YES」「NO」でしか意思表示をできない。クワンの愛弟子のロー警部が質問することで事件の謎を解いていく。名探偵が昏睡状態だなんてリンカーン・ライムシリーズ*1もびっくりの設定だけど、ちゃんとミステリとして成立しているのだから素晴らしい。特に殺害の凶器に使われたスピアガンを巡る推理が光っていて、個人的には初めてエラリー・クイーンの国名シリーズを読んだときのような興奮を味わった。これぞザ・本格という感じ。他にもこの短編には巧緻な仕掛けが施されていて、たとえば警察が黒幕を引っ掛けるために作った壮絶な罠も見逃せない。安楽椅子探偵ものとしてはオールタイム・ベスト級だと思う。

「任侠のジレンマ」はマフィアの対立、「借りた場所に」は誘拐を扱っているけれども、どちらも額面通りにいかないところはさすがである。1989年を舞台にした「テミスの天秤」までは、クワンの他にローも登場していて、彼の成長が逆回しで確認できる。そして、極めつけは掉尾を飾る「借りた時間に」だろう。1967年を舞台にした本作は、クワンがいかにして警察官としてのポリシーを身に着けたのか、それが事件を通して分かるようになっていて感動的だった。実はこの短編だけ一人称で語られていたから、当然のことながら叙述トリックを警戒していたのだけど、本作はそこを軽々と超えていったので「してやられた!」と思った。この短編、連作の最後に位置するという意味ではエピローグであり、クワンのルーツを探りつつ最初の短編に繋がるという意味ではプロローグでもある。このダブル・ミーニング的な構図は実に見事と言うしかない。

というわけで、本作はミステリ好きなら必読だろう。さらに、香港の世相が程よく書き込まれているので、アジア文学に興味がある人にもお勧めである。最近はあまりミステリを読んでなかったけれど、これを機にまた比重を増やそうかなと思った*2。このレベルの傑作を1年に1作の割合で読めたら幸せである。

*1:このシリーズは、名探偵が四肢麻痺で指先しか動かせない。ハイテクな車椅子で生活している。

*2:ちなみに、僕が熱心なミステリ読者だった頃は、アントニイ・バークリーやジム・トンプソン、パトリシア・ハイスミスなどを好んで読んでいた。

コルム・トビーン『ノーラ・ウェブスター』(2014)

★★★★

ウェックスフォード州エニスコーシー。46歳のノーラ・ウェブスターは、教師だった夫モーリスを亡くて経済的に困窮し、クッシェにあるもう一つの家を売却する。ノーラには子供が4人いた。上の娘2人は家を離れており、まだ幼い息子2人とは同居している。やがてノーラは事務員に復職、元同僚のミス・カヴァナーに嫌われながらも彼女と互角に渡り合っていく。その後、ノーラは歌のレッスンを受けるようになるのだった。

四回か五回レッスンを受けた頃、ノーラは、音楽が彼女をモーリスから引き離しつつあるのを感じた。音楽は彼女を、彼と暮らした記憶や、子どもたちとの日常から離れた場所へ連れ去っていく。その感覚は、モーリスが音楽を聞く耳を持たなかったことや、夫婦で音楽を楽しむ習慣がなかったこととは関係がない。レッスンを受けているときの時間の密度がなせるわざだ。彼女はモーリスが――たとえ死後の世界にいてさえも――決してついてこられない場所に、ひとりでたどりついていた。(p.280)

丁寧に細部を積み上げた工芸品みたいな小説だった。登場人物の心理や立ち居振る舞いがきめ細やかで、本当にその人物が存在するのではと錯覚してしまう。最初から最後まで日常で起こり得ることしか書かれてないのに、それなりに起伏があって読ませるところもさすがだ。神は細部に宿るという格言の通り、徹底したリアリズムの筆致でミニマムな出来事を描いている。こういう普通の人の身近な人生を題材にするのは、現代文学の一つの潮流と言っていいだろう。堅実に作り上げられた小説世界は、まるで上質の映像作品を観ているかのようだ。ジョン・マクガハンといい、ウィリアム・トレヴァーといい、アイルランドの現代作家は、こちらの琴線に触れるような珠玉の作品を提供してくれる。

ノーラが職場でミス・カヴァナーというお局と対立するところが印象に残ってる。この女はノーラの元同僚で現在は上司にあたるのだけど、過去の因縁からノーラのことを敵視していて、問答無用の権柄ずくな態度で接している。当初は権力を笠に着たミス・カヴァナーが優勢だったものの、ノーラがそれに負けじと押し返していくところはなかなかの読みどころだ。この小説はノーラがただの受け身の女ではなく、必要に応じて喧嘩ができるところがポイントで、後に息子が学校で突然のクラス替えに遭ったときも大胆な手段で対抗している。さすが伊達に4人も子供を育ててねーなあと思った。可憐な女なんてこの世にはいないのだ。子供を持った女性は、ノーラに自分を重ねて喝采を送ること間違いなしだと思う。

この小説には70年頃にあったカトリックプロテスタントの摩擦や、当時のアイルランドの政治問題など、歴史的トピックが随所に織り込まれている。けれども、そういうのを知らなくても十分楽しめるので、丁寧に作られた工芸品みたいな小説を読みたい人にお勧めである。伝記という古典的な表現形式を洗練された筆致で磨き上げる。現代文学がどこに向かっているのか、その一つの方向性を確かめることができる。

フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』(1973)

★★★

第二次世界大戦の最中。大リーグにはアメリカン・リーグナショナル・リーグの他に愛国リーグが存在していた。そこに所属する球団マンディーズは、ホームスタジアムを持たない根無し草であり、酔っぱらいの一塁手や片脚の捕手など、癖のある選手を擁しながら全米野球史上の最低記録を樹立している。チームは精神病院の患者たちとエキシビジョンマッチをしたり、小人を入団させて一世を風靡したりするのだった。

「でも――あんたはアメリカを滅ぼすつもりじゃないか!」

アメリカだって?」とガメシュは微笑した。「ローランド、アメリカはきみの何なのだ? また、わたしや、客席にいる何万人もの人の何なのだ? アメリカというのは人をこき使うために使われる言葉だよ。アメリカは人びとの阿片なのさ。ローランド――わたしがきみのようなスターなら、そんなものは気にしないがね」(pp.480-481)

これはまたぶっ飛んだコメディだった。荒唐無稽な筋立てが特徴的で、障害者やユダヤ人、アフリカの原住民など、ポリティカル・コレクトネスに反するネタを織り交ぜつつ、最後には共産主義絡みのスパイ事件にまで話が飛躍している。本作といい、『ユニヴァーサル野球協会』【Amazon】といい、野球を題材にしたアメリカ文学は奇妙奇天烈という印象だ*1。本作の原題は「The Great American Novel」であり、プロローグでは『白鯨』【Amazon】と『緋文字』【Amazon】と『ハックルベリー・フィンの冒険』【Amazon】の3作を俎上に載せている。書き出しも『白鯨』のパロディだ。20世紀において「The Great American Novel」を書く――それは国技である野球を書くこととイコールになるのだろう。仮に日本文学において「The Great Japanese Novel」を書くとしたら、それはきっと相撲を題材にしたものになるはずだ。僕の知る限り、相撲を題材にした小説は『大相撲殺人事件』【Amazon】と『雷電本紀』【Amazon】の2作しかない(漫画はいっぱいあるんだけどね)。誰か書かないだろうか? こういう小説はもう時代遅れとはいえ、一読者としては日本版の「Great Novel」を読んでみたい気がする。

それにしても、障害者やユダヤ人、アフリカの原住民など、ここまで世間の倫理観を笑いのめした小説も珍しいのではなかろうか。現代社会だと、ポリティカル・コレクトネスは他人を叩くための棍棒に成り下がっているから、本作みたいな小説が出たら格好の標的にされそうだ。SNS時代になって顕著になったのは、被害者の皮を被りながら加害者と目した相手に言論の暴力を振るうことである。あいつは女性差別をしたと言っては棍棒で殴りつけ、あいつはマイノリティ差別をしたと言っては棍棒で殴りつける。それも寄ってたかって殴りつける。アメリカでトランプ政権が生まれたのも、こういう正義の暴走に嫌気が差したからだろう。結局のところ、言論にせよ肉体にせよ、暴力を振るう者には必ずその報いが返ってくる。トランプ政権は、ポリティカル・コレクトネスを濫用した人々に対する罰だと言えよう。世界が不寛容になっていってるのは、それを望まない人たちの不寛容な言論が原因であり、ポリティカル・コレクトネスを信奉する人たちはその辺を反省する必要がある。行き過ぎた正義は、その反動として巨大な悪を生む。巻き込まれるほうとしてはたまったものではない。

アメリカ文学は、様々な作家が様々な形でアメリカを表現しているから好きだ。今年翻訳出版された小説だと、『ビリー・リンの永遠の一日』『地下鉄道』がその代表例になる。通説の通り、アメリカの作家はアメリカのことを語りたがる。もっとアメリカのことを知りたい、もっとアメリカ文学を読んでみたいと思った。

*1:ちなみに、『ユニヴァーサル野球協会』は野球カードに熱中する男の話である。

コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』(2016)

★★★

ジョージアのランドル農園。そこで奴隷をしている15歳の黒人少女コーラは、母親の失踪によって周囲から孤立していた。そんななか、シーザーという新入りの奴隷から一緒に逃亡するよう誘われる。2人は白人の協力者の手引きにより地下鉄道で脱出、サウス・カロライナにたどり着く。一方、農園側はリッジウェイという奴隷狩り人に彼らを追わせていた。

目が覚めたときもまだ、鉄の馬は蹄を轟かせてトンネルを駆け抜けていた。ランブリーの言葉が思い出された――この国がどんなものか知りたいなら、わたしはつねに言うさ、鉄道に乗らなければならないと。列車が走るあいだ外を見ておくがいい。アメリカの真の顔がわかるだろう。それは最初から冗談だった。旅のあいだ窓の外には暗闇しかなかったし、これからもずっと暗闇だろう。(p.331)

ピュリッツァー賞、全米図書賞受賞作。

実は予備知識なしで読んだので、タイトルから『トレインスポッティング』【Amazon】みたいなのを想像していた……。黒人奴隷が題材の小説なら『地図になかった世界』という傑作*1があるのに今更どうするのだろうと思っていたら、歴史をSF的な手法*2で大胆に改変していて、こういうやり方もあるのかと感心したのだった。異世界風というか、パラレルワールド風というか、とにかく我々の知ってるアメリカとは微妙に細部が違っている。思うに、歴史小説の醍醐味は現実からどれだけ「ずれ」を作るか、その匙加減にあるのだろう。奴隷を逃がすための地下鉄道なんか明らかにオーバーテクノロジーだし*3。さらに、コーラはサウス・カロライナやノース・カロライナといった複数の州に滞在するのだけど、そこの土地の描き方がまるでディストピアで、歴史的事実とのずれによって奴隷制の理不尽さを炙り出すところが何とも言えない*4。白人たちはなぜここまで他者の権利を蹂躙することができるのだろう? ユートピアに見えたサウス・カロライナの本性が暴かれる場面を読んで、様々な国をアイロニカルに描いた『キノの旅』【Amazon】を連想した。19世紀になってもまだこんな悪どい制度を容認しているなんて、アメリカは狂ってるとしか思えない。

「おれの主人は言った。銃を持った黒んぼより危険なのは、本を読む黒んぼだと。そいつは積もり積もって黒い火薬になるんだ!」(p.343)

個人的にぐっときたのが、上に引用した御者(コーラがインディアナの図書館で出会う)のセリフである。本を読まない人間が支配者にとって都合がいいのは、古今東西変わらない事実だ。読書には既存の価値観を揺るがし、視野を広くする効果がある。もし僕も本を読んでいなかったら、現在の秩序に何の疑問も抱かず、奴隷として一生を終えていただろう。あるいは、上から押し付けられた価値観に押し潰されて自殺していたかもしれない。ブラック企業が幅を効かせてたり、社会がだんだん不寛容になっていったりするなか、読書は精神の自衛のために欠かせない行為だ。この世界を生き延びるための武器を本から得ている。社会に馴染めなくて困っている人、または見えないプレッシャーに追い詰められている人、そういう人たちにはぜひ図書館に行くことをお勧めしたい。そこには我々の蒙を啓かせてくれる様々な書物が待っている。僕もこれ以上不幸な人間を増やさないために、このブログで読書の大切さ、あるいはその楽しみを訴えていこうと思う。現代社会で生きづらさを抱える人たちが、少しでも楽になれるようにと祈っている。

*1:柴田元幸レアード・ハント『ネバーホーム』の訳者あとがきで、21世紀に書かれた最高のアメリカ小説に本作を挙げていた。僕もまったく同意見である。

*2:これをSFだとは認めたくないが、他に上手い表現がない。個人的には、『ガールズ&パンツァー』【Amazon】をSF扱いするのにも反対している。

*3:そういえば、作中に血液検査が出てきたが、この時代にそんなものがあったのだろうか? 軽く調べてみたが分からなかった。

*4:どうやらこれは『ガリヴァー旅行記』【Amazon】を参考にしているようだ。