海外文学読書録

書評と感想

キルメン・ウリベ『ムシェ 小さな英雄の物語』(2012)

★★★

1937年。ベルギーの文学青年ロベール・ムシュの一家が、スペイン内戦下のバスクから疎開してきた少女カルメンチュを引き取る。ロベールは高校を卒業後、経済的な理由から大学には進学せず銀行に勤めていた。第二次世界大戦が勃発して間もなく、カルメンチュはバスクに帰還、ロベールは結婚して娘カルメンをもうける。レジスタンス活動に従事したロベールは、ナチスに捕まって強制収容所に送られるのだった。

「ロベール、世界を動かしているものは何だと思う?」と、あるときヘルマンが尋ねた。「ニーチェによれば、その隠れた力は権力だ。マルクスの考えでは経済。フロイトにとっては愛。誰が正しいと思う? 僕たちを生かしているのは何だ?」(p.32)

原書はバスク語で書かれている。

語り手が関係者に取材するというノンフィクション風の記述や、スペイン内戦が話の発端になっているところなど、読んでいて『サラミスの兵士たち』を思い出した。こういうのをオートフィクションと呼ぶらしいけど、スペイン圏ではこの手の小説が流行っているのだろうか。スランプに陥った作家が自らを再生するために、特定の人物を題材にして物を書くという点も共通している。同じスペイン圏のオートフィクションということで、『バートルビーと仲間たち』【Amazon】も本作の仲間と言えるかもしれない。こちらもスランプに陥った作家が語り手だった。

実在の人物であるロベールは教科書に載るような英雄ではないものの、愛と正義のために生きた市井の英雄であり、戦時中には彼みたいな人が大勢犠牲になったのだと思うと何だかやりきれなくなる。彼はあくまでナチスに抵抗した一般人であって、何らかの組織で指導的立場にあったわけではない。普通よりちょっと勇気があるというだけで、基本的には我々と同じ庶民である。時代が時代だけに、マルクス主義を信じているところが現代人とは決定的に異なっているけれど、それにしても戦時中の左派がやたらと格好いいのはどういうことなのか。僕なんかは怖くてレジスタンス活動なんてとても出来ないのに、彼らは平然とそういうのに従事して命を落としていく。平和時の左派がぱっとしないのとは対照的で、戦時中の彼らの行動には頭が下がる。

それにしても、敗戦が目に見えてるのに囚人を虐殺するナチスイカれている。合理的に考えれば、勝者に対して少しでも心証を良くしようと思って殺すのを控えるのが普通ではないか。それを証拠隠滅のために駆け込み的に殺しまくるのだから救いようがない。最近読んだ『慈しみの女神たち』でもそういう不合理な虐殺があったので、やはり戦争というのは完全に終わるまで気が抜けない。

ハン・ガン『ギリシャ語の時間』(2011)

★★★★

視力が失われつつある男は、カルチャースクールで古典ギリシャ語を教えていた。一方、言葉が話せなくなった女は、失われた言葉を取り戻すべく彼の講座に通っている。女は16歳のときにも言葉を話せなくなったが、フランス語がきっかけで回復したことがあった。複雑な過去を持つ2人は、やがてふとしたことで接触する。

この世の美しいものたちを信じながらも美そのものを信じない人は、夢を見ている状態にあるはずだとプラトンは考え、そのことは誰に対しても論証によって説得可能だと考えました。彼の世界ではそのようにすべてのものが逆転します。つまり彼は、自分はむしろすべての夢から覚醒した状態にあると信じていたのです。現実の中にある美しいものを信じる代わりに、美そのものだけを――現実には存在しえない絶対的な美しさだけを――信じている自分を。(pp.109-10)

散文と詩的言語が程よく混じり合っていてとても気持ちよく読めた。これは訳者を褒めるしかないって感じ。最初は視力を失いつつある男とボルヘスを重ねるのはベタすぎるのではないかと思ったけど、読んでいくうちにそういう懸念が吹き飛んでいたのだから不思議だ。同様に、女のほうも設定が作為的なのではと思ったけど、こちらも気がついたらそういう懸念が吹き飛んでいる。要は話に説得力があるんだよね。ギリシャ語講師の男と生徒の女、お互いに欠落を抱えた者同士の接触は、ともすればエモくなりがちなところを上手く抑制して、コミュニケーションの美しさを浮き彫りにしている。女は言葉が話せないから筆談するしかないのに対し、男は目が悪いから眼鏡がないと書かれた文字が読めない。従って、女が男の手のひらに文字を書くことで、つまりは触覚によって意思の疎通をする。この場面が何とも印象的で、人と人の関わりが無性に愛おしく思えた。個人的に、実生活でのコミュニケーションがろくでもないから尚更そう感じたのかもしれない。フィクションとは虫を閉じ込めた琥珀のようなもので、時々あっと驚くものが入っている。

パク・ミンギュ『ピンポン』の項で現代文学の無国籍化について書いたけれど、本作もあまり韓国であることを意識せずに読んだ。地名や料理なんかは韓国のものが出てくるのに、さほどご当地感がない。これは登場人物に名前がないからだろうか? 男はドイツに移住していたことがあるし、物語もギリシャ語やプラトンが中心にあるし、全体的に本作はとても国際的である。英語で書かれたアフリカ文学は、世界中で読まれることを想定してエキゾチックな部分を前面に出す傾向にあるけれど、本作にはそういうところがまったくなかった。無国籍化についてはまだまだサンプルが少ないので、これからたくさん現代文学を読んでいこうと思う。

ジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』(2006)

★★★★

ナチス・ドイツ時代に法律家・保安部の役人・SS将校を勤め、戦後はフランスでレース工場の支配人になったマクシミリアン・アウエ。その彼が戦時中を回想する。法学博士にしてSS中尉の彼は、独ソ戦開始時のウクライナユダヤ人虐殺の仕事に従事していた。始めは幕僚部で手伝い程度しかしていなかったが、後に自分でも1人ユダヤ人を殺すことになる。やがてヘマをしたアウエは、前線のあるスターリングラードに飛ばされるのだった。

(……)ロシア人にとってもわたしたちにとっても、人間はなんの値打ちもなく、〈民族〉、国家がすべてであり、その意味では、どちらも自分自身の像を互いに与え合っていた。ユダヤ人もまた、共同体、フォルクというこの強い感情を抱いていた。彼らは死者たちに涙し、可能であれば埋葬し、カディッシュを唱えたりする。しかし、たった一人が生き残っている限り、イスラエルは生きている。彼らがわたしたちの特権的な敵だったのは、おそらくこれが理由なのだ、つまり、彼らはあまりにわたしたちに似ていたのだ。(上 pp.107-8)

ゴンクール賞受賞作。

ボリュームたっぷりの力作だった。2段組みで900ページほどある。本作は1941年から45年までの出来事をSS将校の視点で描いていて、ナチス・ドイツが当時何をしていたのか、戦争がどのように推移していったのかを疑似体験できるところが良かった。こういうのはディテールがしっかりしたフィクションだからこそ味わえるもので、我ながら贅沢な楽しみだと思う。

本作を読んで強く感じたのは、人間は運に支配されているということだ。こうして僕がぬくぬくと平和を享受できているのは完全に運だし、また、ドイツ人としてユダヤ人を殺したり、ユダヤ人としてドイツ人に殺されたりするのも運で、その人がどういう立場になるのかは自分ではコントロールできない。どの時代のどの国に生まれたか、それは避け難い現実として我々の前に立ちはだかる。たとえば、ホロコーストを指揮したアイヒマンは、平時に生きていれば有能な官吏として地味に暮らしていただろうし、この時代のドイツに僕が生きていたら、それはもう恐ろしい出来事に関わっていたことだろう。人間は自分の人生を限られた幅でしか選択できない。そのことを強く実感したのだった。

語り手のアウエは叙事的に物事を語ることが多いので、彼がどういう考えでSS将校なんてやっているのかよく分からないところがあったけれど、時々自分の心情なり考察なりを述べることがあって、そういう部分がとても貴重に思えた。アウエはとにかく「立ち会う」ことが多い人物で、観察して何もしない立場を好んでいる。戦後から回想しているという形式のせいか、ナチスイデオロギーを狂信的に信じているようには見えない。ただ、人と話すときはこちらもぎょっとするようなイデオロギー的な発言をしていて、本心がどこにあるのかいまいち掴めないところがある。そういう割り切れないところが人間の複雑さなのだろう。彼は同性愛や近親相姦といったタブーを平然と犯しているし、最後の最後に意外な行動をとっている。一筋縄ではいかない人物像だった。

強制収容所をめぐる問題で、政治的使命と経済的要求のどちらを優先させるか? という議論はとてもおぞましかった。イデオロギーに従ってユダヤ人を殺すか、それとも戦争に役立てるために生かして働かせるかという問題である。また、ボリシェヴィキナチスの違いが、階級によってアプローチするか、人種によってアプローチするかの違いでしかないのも恐ろしく思えた。どちらの道も地獄しか待っていない。さらに、なぜユダヤ人を殺すのかという考察で、彼らがドイツ人と似ていて自分たちの中にあるその性質を殺すためというのは、随分と倒錯していると思った。ひとことで言えば、近親憎悪だろう。

これから絞首刑にするという女に対して、将校たちが次々とキスしていくエピソードが印象に残っている。それと、死んだ女の腹を帝王切開して赤ん坊を取り出すも、すぐに別の男がその赤ん坊を叩きつけて殺害するエピソードもすごい。戦時下における残酷な日常にぞっとした。

フラン・オブライエン『第三の警官』(1967)

★★★★

若くして両親を亡くした「ぼく」は、仕事を雇人であるジョン・ディヴィニィに任せて自分は研究生活を送っていた。2人は同じベッドで寝るほど親密になっている。ある日、「ぼく」はディヴィニィに誘われて強盗殺人に手を染めることに。それを機に「ぼく」は、3人の警官が管轄する奇妙な世界に入り込む。そこは自転車が中心の世界だった。

このとき自転車に乗った一人の男が長い燕尾服の裾を背後になびかせて急速に接近してきました。前方の丘からの下り坂をペダルを踏まずに優雅に滑走してきたとみるやぼくたちの傍らを走り抜けたのです。ぼくは六羽の鷲の眼差しを合わせたほどに鋭い眼を彼に向け、疾走しているのは果して人か自転車か、それにまた両肩に自転車をかついでいる男というのが真相なのではあるまいか、とひたすら目をこらしたのです。しかしながら、注目に値するもの、あるいは驚嘆するに足る珍現象は何も認められないようでした。(p.144)

何だこりゃあって感じの奇想天外な小説だった。本作は1940年に脱稿したものの、出版社から出版を拒否されたという。結局、著者の死後に公表されたとか。

本作は20世紀を代表する前衛小説であり、前衛的な割には読みやすくて面白いのだが、どこが面白いのかといえば、何となく波長が合うと答えるしかない。他人にその魅力を伝えづらいというか。『不思議のアリス』【Amazon】みたいなナンセンス、カフカ的な不条理、含意があるのだかないのだかよく分からない奇妙なシチュエーション。しかしそれでいて、地に足のついた平易な語り口で読みやすいという……。

語り手の「ぼく」は自分の名前を忘れていて、それがために法律の埒外に置かれたみたいなことを言われる。はたまた彼はド・セルビィなる哲学者兼物理学者にのめり込んでいて、その珍妙な学説(地球はソーセージ型だとか)に膨大な注釈がつけられている。警官たちは人間が自転車だと主張しているし、挙句の果てには「ぼく」を殺人犯に仕立てて絞首刑にしようとする。いや、殺してないじゃんって読んでいて一瞬思ったが、よく考えたら前の世界で強盗殺人をしていたので、これはこれで因果が巡っているのだ。被害者も同一人物だし。あと、たまたま出会って会話した相手が実は強盗で、「ぼく」は彼にナイフを突きつけられるのだが、同じ義足者(そう、「ぼく」は左足が義足なのだ)と分かってからは見逃してもらえるってエピソード、それが終盤に生きてくるのは意外だった。他にも本作にはサプライズがあって、ナンセンスな内容の割には普通の小説の枠組みを持っているところが堪らない。

なお、訳者あとがきではこのサプライズを警告なしで思いっきりバラしている。なので、これから読む人は注意されたい。決して訳者あとがきを先に読んではならない。

マーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』(2000)

★★★★

(1) 『紙葉の家』序文。盲目の老人ザンパノが急死する。彼の部屋にはドキュメンタリー映像『ネイヴィッドソン記録』についての原稿があった。ジョニー・トルーアントがそれに注釈をつける。(2) 『紙葉の家』本文。ピュリッツァー賞を受賞した報道写真家ウィル・ネイヴィッドソンは、家族と移り住んだ家の内部が外で測ったのよりも大きいことに気づく。ネイヴィッドソンは知人たちと家の中を探検するが……。

トムは大きなため息をつき、ようやく兄の手にすがった。今の今まで、彼はネイヴィッドソンの失踪に自分がどれだけ悲嘆に暮れていたか、また彼が無事に戻ってきたことに自分がどれほどほっとしているか、本当には理解していなかった。彼の目が潤んでくるのが分かる。

ネイヴィッドソンはその肩に腕を回した。

「来いよ」

「少なくとも酔っ払ってるときには」トムが急いで涙をぬぐいながら言う。「床はいつだって一番の友だちだ。なぜだかわかるかい?」

「いつもそこにいて支えてくれるからさ」答えるネイヴィッドソンの顔が、急に感極まったように紅潮した。彼はよろめく弟を支えてキッチンへと向かった。

「そのとおり」トムがささやく。「おまえと同じさ」(pp.380-381)

これはまた随分と刺激的な実験小説だった。レイアウトに恐ろしく手間がかかっていて、現代の印刷技術があればこそ達成可能な小説という感じがする。どこがどう手間がかかっているのかいまいち説明しづらいので、ページをスキャンして何枚か画像を貼り付けたいほど。たとえば、文字を片側に寄せたり反転させたり、斜めに走らせたり複雑な構成で配置したり……。本作にはたくさんの文字が印刷されているけれど、そのすべてを読むのは不可能だし、また読む意味もない。タイポグラフィ的な要素が大きいと言える。

注釈がやたらと多いところは、ニコルソン・ベイカーの『中二階』【Amazon】を連想させる。本作はザンパノによる注釈、トルーアントによる注釈、編集部による注釈の3つの注釈がついているのだけど、なかでもトルーアントの注釈がぶっ飛んでいて、本文を凌駕するほどの分量で自分語りを連ねている。そのため、ネイヴィッドソンについて語った本文とトルーアントが自分について語った注釈、事実上、2つの物語が並行して走っている。正直言って、最初は本文と注釈を行き来しながら読むのがとても面倒だった。注釈のフォントが小さくて目にやさしくなかったし。でも、慣れてくると文字を追っていくのが快感になってきて、次々と現れる印刷上の仕掛けを楽しみつつ、偽史ならぬ偽書を作ろうという熱気に引き込まれていく。ネイヴィッドソンの物語はホラー小説の要素を交えながらも家族の物語が中心だし、トルーアントの物語も最終的には母親とのせつない別れで終わっている。この辺はいかにもアメリカ文学だった。

今時の文学は、「何を語るか」よりも「どのようにして語るか」のほうが重視されている。本作は後者の極北と言っても過言ではないだろう。現代の印刷技術を使うとこんな表現が可能なのか、と驚いたのだった。どちらかと言うと、著者よりも印刷会社の人を褒めたい気分である。実験小説に興味がある人なら読んで損はしない。