海外文学読書録

書評と感想

グレアム・グリーン『情事の終り』(1951)

情事の終り (新潮文庫)

情事の終り (新潮文庫)

 

★★★

1946年。高級官吏のヘンリは、妻のサラァが他の男と不倫しているかもしれないと疑う。作家のベンドリクスは、ヘンリの代わりにサラァの監視を私立探偵に依頼するのだった。しかし、実はベンドリクスとサラァは戦時中に不倫関係にあって、ヘンリはその事実を知らないでいる。やがてベンドリクスは第三の男の存在を知る。

わたしは最初、これは憎しみの記録だと書いた。いまヘンリと並んで宵のビールの杯を求めて歩きながら、わたしの心に、この冬ざれのムードにふさわしく思える一つの祈りがうかんだ――おお神よ、あなたはもはや充分に成しとげられました、あなたは私から充分にお奪いになりました、私はすでに倦み疲れ、愛を学ぶには老い過ぎました、永久に私をお見限り下さい。(p.367)

旧訳(田中西二郎訳)で読んだ。引用もそこから。

戦時中の不倫というと、レーモン・ラディゲ『肉体の悪魔』【Amazon】を思い出すけれど、あちらが少年による純粋な姦通小説だったのに対し、こちらは信仰の問題が密接に絡んでいて、読み味は全然違っていた。おまけに、本作は謎で引っ張っていくミステリ小説のような構成にもなっている。途中で思わぬ急展開があるところは、さすがスパイ小説の書き手といった感じだった(と言いつつ、最近読んだ『ハワーズ・エンド』にも似たような展開があったので、これはイギリス文学の伝統なのかもしれない)。

一人の人間がいかにしてカトリックに回心するか? という個人的にいまいち乗り切れないテーマだったけれど、前述のように謎で引っ張る構成だったので、それなりに興味深く読めた。サラァはかつて、「愛は終わるものではない」と言いつつベンドリクスの元から去っていた。ところが、その矛盾した行動には彼女なりに理由があったことが判明する。この小説はちょっとした皮肉が効いていて、たとえば、それまで不信心で歳をとってから信仰に目覚めたサラァが、実は2歳のときに母親の意向で洗礼を受けていたことが分かる。さらには、手をかざしただけで子供の腹痛が治ったり、無神論者の男にあった顔のあざが消えたりと、あり得えない奇蹟も起きる。不倫と信仰という相反するものが結びつくところも皮肉的で、神が死んだ20世紀において信仰を語るには、こうしたアイロニーを交えるしかなかったのか、と思いを巡らせてしまう。

愛憎とはよく言ったもので、愛することと憎むことは対極的なものではなく、時には同じものとして重なり合う。そこには人に対する愛憎だけではなく、神に対する愛憎も含まれる。本作はその辺の機微をしっかり捉えているところが印象に残った。

E・M・フォースター『ハワーズ・エンド』(1910)

★★★

シュレーゲル家の長女マーガレットは、妹ヘレンがウィルコックス家に出入りしたことをきっかけに、ウィルコックス夫人と懇意になる。ところが、間もなく夫人が病死してしまう。遺言にはハワーズ・エンドの邸宅をマーガレットに遺したいと書いてあった。遺族はそれを読んで反発するも、両家はその後も交流を続ける。やがてウィルコックス氏とマーガレットに転機が訪れるのだった。

われわれはこの話では、非常に貧乏な人たちには用がない。そういう人たちについて考えてみようとしたところで無駄であって、それは統計学者か、あるいは詩人の領分である。この話は紳士と淑女、あるいは紳士や淑女であるふりをすることを強いられている人たちのことに限られている。(p.62)

落ち着いた佇まいの古き良き英国小説だった(「イギリス」ではなく「英国」なのがポイント)。翻訳が吉田健一だからそう感じたのかもしれない。この人の翻訳は大昔にパトリシア・ハイスミス『変身の恐怖』【Amazon】を読んで以来だけど、吉田の古めかしい日本語は古典にこそふさわしいんじゃないかと思った。正直、『変身の恐怖』はシェイクスピア福田恆存訳みたいに読みづらいだけだったし。

物語としては有閑階級のマーガレット・シュレーゲルと実業家のヘンリー・ウィルコックスが軸で、2人を代表とした一家同士の価値観のせめぎ合いがの読みどころだろう。シュレーゲル家の姉妹は教養があって貧乏人にやさしい。一方、ウィルコックス家の当主ヘンリーは保守的で貧乏人に冷たい。とりわけ、マーガレットの妹ヘレンが度を越した博愛主義者で、彼女とヘンリーの価値観は真っ向からぶつかり合う。未だ婦人参政権がなかった時代の話。帝国主義時代の英国がどういうものなのか、その一端に触れられたような気がした。

登場人物のなかでもっとも鮮烈な印象を残すのが、レオナードという若い貧乏人である。保険会社で事務員をしている彼は、金持ちに追いつこうとたくさん本を読んでいて、話をするとき何かと本のタイトルや内容を引き合いに出す。この辺のキャラの立て方がまるでディケンズのようで、一人だけ別世界から来たような印象を受けた。そんなレオナードも物語ではたびたび重要な役割を果たしており、様々な人たちを刺激するカンフル剤になっている。貧乏人は助けるべきか? それとも、運命に任せて放っておくべきか? お金の問題がライトモチーフとして俎上に載せられるのも、彼がいればこそだろう。まあ、その割には終盤の扱いが酷くて面食らったけど。

イーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド』【Amazon】では、ブライズヘッドが終始物語の中心地だったのに対し、同じく邸宅の名前をタイトルに冠した本作では、ハワーズ・エンドは中心から離れている時期が長い。借家として人に貸していたり、物置きとして空き家のまま放置していたりする。もちろん、重要な場面ではハワーズ・エンドが舞台になるし、そもそもこれはマーガレットがハワーズ・エンドを手に入れるまでの物語だ。とはいえ、邸宅の扱いがこんなに違うのは興味深く、古き良き英国小説にも多様性があるのだなと思った。

遅子建『アルグン川の右岸』(2006)

★★★★

90歳の「私」はアルグン川の右岸に住むエヴェンキ族の女で、エヴェンキ族最後の酋長の妻だった。その彼女が一族の過去を物語る。エヴェンキ族はトナカイと共に暮らす狩猟民族だったが、中華民国、日本、中華人民共和国と支配者が変わっていく。彼らは森の中で伝統的な生活を営むも、森林は伐採され、さらには国策によって定住生活を余儀なくされる。

トナカイはきっと神様がわれわれに与えたものだ。彼らがいなければ、われわれもいないだろう。トナカイがかつて私の家族を連れ去ったこともあったが、それでも私は大好きだ。彼らの目を見ることができないと、昼の太陽、夜の星を見ることができないようなもので、心の底からため息が洩れる。(p.29)

文学のいいところは、自分と異なる文化や生活を覗き見することができるところだ。エヴェンキ族については名前だけは知っていたものの、具体的に彼らがどういう民族なのかは全然知らなくて、本作を読んでその習俗や生活様式を知れたのが良かった。タイトルにもなっているアルグン川は、内モンゴル自治区ソ連の間を流れる国境線で、エヴェンキ族は清の時代にまで遡る歴史的経緯によって、その右岸で暮らしている。本作は一族の人物相関図が作られるくらいたくさんの人物が出てくるけど、みんな感情豊かに描かれているところが魅力的で、中国の現代文学はレベルが高いと感心したのだった。

印象に残ったエピソードを挙げていくとキリがないけれど、オオカミに片足を食いちぎられたダシーの物語は序盤のハイライトといった感じで鮮烈だった。彼はオオカミに復讐するためにタカを訓練しており、一族のなかでもちょっと異彩を放っていて、読んでるほうとしてもその挙動に注目していた。そんなダシーが突然姿を消し、ある意味で理に適った最後を迎える。これがまた何とも言えない因果を感じさせて、自然と生きることの本質みたいなものを目の当たりにしたのだった。

他にも、意に沿わぬ結婚をした男が式を挙げた日に自殺したり、妊娠した女が岩から身を投げてわざと流産したり、妙なあだ名の男がある理由で自分の睾丸を潰したり、語るべきエピソードに事欠かない。とりわけ神秘的なのが、サマン(シャーマン)と呼ばれる者の存在で、その神通力はマジックリアリズムかと思われるほど超現実的だった。人間や動物の命を代償にして、他人の傷を治したり、死にかけた人物を救ったりしている。自然と暮らすというのは、こういう超現実が現実になることではないか。そう思わせるほど不思議なリアリティがあった。

私はすでにあまりに多くの死の物語を語ってきた。これは仕方のないことだ。誰であれみな死ぬのだから。人は生まれるときにはあまり差がないが、死ぬときは一人ひとりの旅立ち方がある。(p.321)

この小説は数々の生が語られると同時に、同じくらい多くの死が語られる。上の引用文なんか『アンナ・カレーニナ』【Amazon】の有名な書き出しを想起させて、長生きした人間ならではの透徹した眼差しを感じさせる。苦楽を共にした者たちが次々と死んでいくところは、滅びゆく一族の悲しみを残酷なまでに浮き彫りにしていて、今の生活はいつまでも続くものではないのかと考え込んでしまう。これは決して他人事ではない。

グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』(1978)

ヒューマン・ファクター―グレアム・グリーン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

ヒューマン・ファクター―グレアム・グリーン・セレクション (ハヤカワepi文庫)

 

★★★

イギリス秘密情報部六課Aに勤めるモーリス・カールスは、南アフリカ在勤時代に知り合ったサラという黒人の連絡員と結婚し、彼女の連れ子と3人で平和に暮らしていた。そんな折り、六課から内部情報が漏洩していることが発覚する。上層部はカールスの同僚デイヴィスを疑い、彼の暗殺を目論むが……。

老貴族はそれには答えず、友人たちに向かって、「大佐とはハーグリーヴズの邸で会った。現在はこのひと、例の内緒内緒の役所に勤めておられる。ジェイムズ・ボンドのお仲間だよ」

友人のひとりがいった。「わしはまだイアン・フレミングの小説を読む幸運に俗しておらんのだ」

すると、もう一人のほうも、「あれはわしにはセクシーすぎる」といった。「はったりも強いし……スパイ小説に目のないわしだが、むりして読むほどのものとは思わんな。閑つぶしなら別だが」(pp.200-201)

旧訳(宇野利泰訳)で読んだ。引用もそこから。

やはり冷戦期のスパイ小説は、資本主義国VS共産主義国と対立軸がはっきり分かれているから面白い。現代人の観点からすると、アメリカやイギリスを裏切ってソ連の二重スパイになる連中の気が知れないけど、当時のスパイ小説を読むと、それなりに納得できる動機があったんだなあと感慨深くなる。本作の場合、ごく個人的な恩義というのがベースにあって、そこにはアパルトヘイトという巨大な社会悪が背景にある。さらに、本作の二重スパイは共産主義者でないところがポイントで、人は何に忠誠を誓うのか、どういった価値観に重きを置いて生きていくのか、そういう人としての生き様を明るみに出している。思うに、西側から二重スパイに転向する人間には正義漢が多いのではなかろうか。祖国に忠誠を誓うと言えば聞こえはいいけれど、実は人間にはもっと身近に大切なものがあって、それを守るためにはあっさりと国を裏切る。スパイみたいな極端な現実主義者になると、国家という虚構にはもはや騙されないのだろう(この辺はユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』【Amazon】を参照のこと)。家族でも義憤でもとにかく何でもいいけど、みんな自分のなかにある大切なもの――国家を超える何か――を守るために生きている。実に人間臭い話ではないか。

本作は終わり方が良かった。え? ここで終わりなのかよ? というブツ切れ感があるけど、それがかえって余韻を醸し出している。こういう文学的なスパイ小説をもっと読みたいと思った。

フィリップ・ロス『乳房になった男』(1972)

★★★

38歳の文学教授デイヴィッド・ケペシュは、体に些細な症状が出た後、全身が女性の乳房になってしまう。彼は目が見えず、物が食べられず、匂いを嗅ぐことができない。入院して静脈注射で栄養を摂り、チューブで排泄することに。ケペシュは全身性感帯になっていた。

そこでぼくが《究極的願望》を申し出たのはクレアにではなくて、ぼくの係りの看護婦にたいしてであった。僕は言った。「あなたがそんなふうにぼくを洗っているとき、ぼくがどういうことを考えているか分りますか? ぼくがいま考えていることを、あなたに言っていいでしょうか?」

「どういうことなんです? ミスター・ケペシュ」

「ぼくはこの乳首であなたをファックしたいんです、ミス・クラーク」

「おっしゃることが聞こえません、ミスター・ケペシュ」

「ぼくはいまとても興奮しているんです。あなたをファックしたいんです。あなたにぼくの乳首のうえに坐ってもらいたいんです――あなたのあそこに入れてもらいたいんです!」(p.58)

これは何とも奇妙なシチュエーションだった。作中で『変身』【Amazon】や『鼻』【Amazon】、『ガリヴァー旅行記』【Amazon】などに言及しているので、それらを踏まえた新たな変身譚と言えそう。ただ、本作が特異なのは、乳房になった男が病院でケアされ、社会的に保護されているところだろう。衣食住は保障されているし、恋人との関係も悪くなっていない。デイヴィッドは乳房になった全身を看護婦に洗ってもらい、その後はご丁寧にもオイルを刷り込んでもらっている。まったく、甲虫に変身したグレゴール・ザムザの苦労は何だったのか。至れり尽くせりではないか。ともあれ、面白いのはこのオイルマッサージで、デイヴィッドは乳首をマッサージされることで絶大な性的快感を覚えている。そして、快感に抗しきれないデイヴィッドは、看護婦に上の引用のような《究極的願望》を告白している。これを読んで僕はナースもののAVを思い出した。おそらく70年代のアメリカにそんなAVは存在しないはずなので(あるとすればポルノ映画か)、本作は現代人の欲望を先取りした画期的な作品と言えるかもしれない。欲情の文化史を研究するうえでの貴重なサンプルではなかろうか。

とまあ、何ともぶっ飛んだ内容の本作だけど、話はここでは終わらず、後半では性的快感を克服して新たなステージに突入している。それがどういう内容なのかは措くとして、本作は変身譚の一つのバリエーションとして興味深い。なので、カフカの『変身』が好きな人は読み比べてみるといいだろう。長さも中編程度だからすぐに読み終わる。僕は70年代のアメリカにこんな小説があったのかと驚いたのだった。