海外文学読書録

書評と感想

甘耀明『鬼殺し』(2009)

★★★

日本統治下の台湾。日本軍は真珠湾を奇襲して太平洋戦争に突入した。関牛窩に住む怪力の少年・帕(劉興帕)は、日本陸軍の鬼中佐・鹿野武雄に見初められてその養子になり、鹿野千抜と名乗るようになる。一方、帕の祖父・劉金福は、日本の支配に断固として抵抗していた。やがて戦争は終結、台湾は国民政府の統治下に入るが……。

帕は地面にひざまずいて、心の中で自分は日本鬼子ではない、自分は日本鬼子ではないと繰り返したが、しかし日本鬼子以外に、自分が何者になれるのか思いつかなかった。日本の天皇は自身の赤子をさっさと見捨て、国民政府もまた急いで旧帝の遺児を門外に締め出し、彼らには荒野以外に、何一つなかった。(下 p.251)

太平洋戦争からニ・ニ八事件までをマジックリアリズムの手法を用いながら描いていて読み応えがあった。ストーリーは要所要所まで劇的には動かず、主に戒厳下の奇妙な日常を積み重ねていくような感じになっている。これがまたえらい土俗的で迫力があって、鬼(死んだ人間)が闊歩したり、あるいはそれに匹敵する超現実的な逸話がいくつも語られたり、まさに物語の宝庫といった風情だった。また、取材も相当しているように見受けられる。征露丸・味の素・突撃一番といった戦時中の定番アイテムが出てきたときには「おおっ」と思った。

超現実的なエピソードでもっとも印象的だったのは、娘が父の腰を両足で挟み込んで離れなくなる「人間の鎖」である。なぜこうなったかというと、父が戦争に行こうとするのを娘が止めるために必死で組みついたから。しかも、周囲が引き離さそうとしてもまったく離れず、それどころか人体の組織が一体化してシャム双生児みたいになってしまう。結局は娘の目論見通り、父は戦場に行かず、2人はしばらく地元(関牛窩)の名物になったけれど、しかしその最後は悲しいものだった……。鬼中佐や劉金福といった主要人物に負けず劣らずの、強いインパクトを残す末路だと思う。

もうひとつ、この小説の悲しいところは、帕みたいな超人的な膂力を持った怪人でも、運命には抗えないところだ。片目は潰れるわ、片腕は切断されるわで、肉体的にも不具になってしまうし。本作には汽車が異様な存在感で何度も現れるけれど、ちょうど汽車が線路という決まった場所しか走れないように、帕も、ひいては台湾の民衆も、歴史の大きな流れには逆らえない。個人的には、日本統治時代と光復後で「国語」の意味が変わるところが象徴的に思えた。日本統治時代は日本語が国語だったのに対し、国民政府が統治するようになってからは中国語が国語になる。どちらの時代も、国語を使わないと官憲に締め上げられるところが共通している。この理不尽さが、平和ボケした僕の心に重くのしかかってきたのだった。

ジェイムズ・エルロイ『アンダーワールドUSA』(2009)

★★★

1968年。(1) 元刑事のウェイン・ジュニアは、中米にカジノを建設しようというマフィアの意向を受け、共和党大統領候補のリチャード・ニクソンに裏金を渡しに行く。(2) FBI捜査官のドワイト・ホリーは、フーヴァー長官の命令を受け、黒人運動の団体に工作を仕掛ける。(3) 新米探偵のクラッチは、女のバラバラ死体の発見を機に、ウェイン・ジュニアやドワイト・ホリーと関わることになる。

ラスヴェガスは黒ん坊という細菌の繁殖地だ。黒ん坊の白血球値は異常に高い。やつらと握手するな。やつらは指先から汚い膿を出している」(上 p.93)

アメリカン・タブロイド』(1995)【Amazon】、『アメリカン・デス・トリップ』(2001)【Amazon】に続くシリーズ完結編。

前作からおよそ15年ぶりに読んだ。なぜこんなに間が空いたのかというと、今年になってその存在に気づいたからである。原書は前作から8年、翻訳書は前作から10年経っての出版なので、もうすっかり忘れていた。

このシリーズは1958年から1972年までのアメリカの現代史を、マフィアや悪徳警官といった地下世界の視点から切り取ったもので、『アメリカン・タブロイド』ではジョン・F・ケネディの暗殺が、『アメリカン・デス・トリップ』ではマーティン・ルーサー・キングロバート・ケネディの暗殺が、それぞれ独自の史観で再構成されている。いずれも「悪い白人」が権力の命令で暗躍していて、その複雑な人間関係と綿密な計画にはリアリティがあった。

完結編の本作はどうかというと、前述した派手な歴史的事件がないぶん、ちょっとこじんまりとした印象を受けた。耄碌したエドガー・フーヴァーや、妄執に取り憑かれたハワード・ヒューズはいいキャラしていたのだが……。

相変わらずプロットは複雑で、どの人物が何を知っていて誰と関わっているのかを把握するのが困難である。しかし、それらが段々と整理されて一本に収斂されていくところは圧巻だ。FBIの捜査官や警察官がマフィアより悪どいところが本作の特徴で、自分の利益のために時には他人を拷問し、時には殺人を犯しては隠蔽工作している。今回は左翼や黒人が標的にされていて、現代からは想像もつかないような腐敗した雰囲気が病みつきになる。白人も黒人も、そして右翼も左翼も、みんなそれぞれの立場で犯罪なり非合法活動なりをしている。アメリカの現代史と最新の犯罪小説が幸福な結婚を果たしたという感じだった。

登場人物の「転向」には面食らった。一応、罪悪感がその源にあることは分かるのだが、それにしてはいまいち説得力がない。本作はあまり心理を深く掘り下げるような作風ではないので、この唐突な「転向」にはどうしても首を傾げてしまう。とはいえ、本作が発売された2009年に、オバマ政権が誕生したのには何か運命的なものを感じる。時代の節目が重なったというか。そしてこの時代、すなわちエドガー・フーヴァーが死んだ1972年までが、アメリカを神話として捉えることができるギリギリの年代なのだろう。本作でアメリカの神話に幕が閉じられたのだった。

20世紀中国文学お勧め100選(20世紀中文小說100強)

最近、現代中国文学に興味があって、Twitterでその旨をつぶやいたところ、当該分野に造詣が深い方から20世紀中文小說100強というページを教えて頂いた。香港の雑誌社によるランキングらしい。このエントリのタイトルは「20世紀中国文学お勧め100選」となっているが、正確には「中国文学」ではなく、「中国語小説」である(「お勧め」の文言も勝手に追加した)。従って、リストには台湾や香港、東南アジアの小説も含まれている。今回、これを読書の指針にするにあたって、どの作品に日本語訳があるかを調べてみた。結果をここにシェアするので、中国語小説をこれから読もうという方は是非参考にしてほしいと思う。

  1. 魯迅『吶喊』【Amazon
  2. 沈従文「辺境の町」【Amazon
  3. 老舍『駱駝祥子』【Amazon
  4. 張愛玲『傳奇』
  5. 銭鍾書『結婚狂詩曲―囲城』【Amazon
  6. 茅盾『子夜』【Amazon
  7. 白先勇台北人』【Amazon
  8. 巴金『家』【Amazon
  9. 蕭紅『呼蘭河傳』
  10. 劉鶚『老残遊記』【Amazon
  11. 巴金『寒い夜』【Amazon
  12. 魯迅『彷徨』
  13. 李伯元『官場現形記』【Amazon
  14. 路翎『財主的兒女們』
  15. 陳映真『將軍族』
  16. 郁達夫『沉淪』
  17. 李劼人『死水微瀾』
  18. 莫言『赤い高粱』【Amazon
  19. 趙樹理「小二黒の結婚」【Amazon
  20. 鍾阿城「棋王」【Amazon
  21. 王文興『家變』
  22. 韓少功『馬橋詞典』
  23. 呉濁流『アジアの孤児』【Amazon
  24. 張愛玲『半生緣』
  25. 老舍『四世同堂』【Amazon
  26. 高陽『胡雪巖』
  27. 張恨水『啼笑因縁』【Amazon
  28. 黃春明『兒子的大玩偶』
  29. 金庸 『射鵰英雄伝』【Amazon
  30. 丁玲『莎菲女士的日記』
  31. 金庸鹿鼎記』【Amazon
  32. 曾樸『孽海花』
  33. 賴和『惹事』
  34. 王禎和『嫁妝一牛車』
  35. 柏楊『異域』【Amazon
  36. 唐浩明『曾國藩』
  37. 鍾理和『原鄉人』
  38. 陳忠實『白鹿原』
  39. 王安憶『長恨歌
  40. 李永平『吉陵鎮ものがたり』【Amazon
  41. 王力雄『黄禍』【Amazon
  42. 司馬中原『狂風沙』
  43. 浩然『艷陽天』
  44. 穆時英『公墓』
  45. 李鋭『旧跡』【Amazon
  46. 徐速『星星·月亮·太陽』
  47. 鍾肇政『台灣人三部曲』
  48. 楊絳『風呂』【Amazon
  49. 姜貴『旋風』
  50. 孫犁『荷花澱』
  51. 西西『我城』
  52. 汪曾祺『受戒』
  53. 朱西甯『鐵漿』
  54. 朱天文『世紀末の華やぎ』【Amazon
  55. 還珠樓主『蜀山劍俠傳』
  56. 於梨華『又見棕櫚,又見棕櫚』
  57. 賈平凹『浮躁』
  58. 王蒙『組織部新來的年輕人』
  59. 徐枕亞『玉梨魂』
  60. 施叔青『香港三部曲』
  61. 林語堂『北京好日』【Amazon
  62. 葉聖陶『倪煥之』
  63. 許地山『春桃』
  64. 聶華苓『桑青與桃紅』
  65. 王藍『藍與黑』
  66. 柔石『二月』
  67. 徐訏『風蕭蕭』
  68. 古華『芙蓉鎮』【Amazon
  69. 臺靜農『地之子』
  70. 林海音『城南旧事』【Amazon
  71. 張煒『古船』
  72. 劉以鬯『酒徒』
  73. 鹿橋『未央歌』
  74. 張潔『沉重的翅膀』
  75. 師陀『果園城記』
  76. 戴厚英『ああ、人間よ』【Amazon
  77. 小波『黄金時代』【Amazon
  78. 劉恆『狗日的糧食』
  79. 張系國『棋王
  80. 黄凡「頼索氏の困惑」【Amazon
  81. 蘇童「離婚指南」【Amazon
  82. 李碧華『さらば、わが愛覇王別姫』【Amazon
  83. 李昂『夫殺し』【Amazon
  84. 古龍『楚留香』【Amazon
  85. 瓊瑤『窗外』
  86. 蘇偉貞『沈黙の島』【Amazon
  87. 梁羽生『白髮魔女傳』
  88. 朱天心『古都』【Amazon
  89. 陳若曦『尹縣長』
  90. 張大春『四喜憂國』
  91. 亦舒『喜寶』
  92. 張賢亮『男の半分は女』【Amazon
  93. 施蟄存『將軍底頭』
  94. 倪匡『藍血人』
  95. 吳趼人『二十年目睹之怪現狀』
  96. 余華『活きる』【Amazon
  97. 馬原『岡底斯的誘惑』
  98. 林斤瀾『十年十意』
  99. 無名氏『北極風情畫』
  100. 二月河『雍正皇帝』

個人的には、日本で有名な鄭義や残雪の名前がないのが意外だった。中国語小説にはそれだけ分厚い層があるということだろうか。

呉明益『歩道橋の魔術師』(2011)

★★★★

短編集。「歩道橋の魔術師」、「九十九階」、「石獅子は覚えている」、「ギラギラと太陽が照りつける道にゾウがいた」、「ギター弾きの恋」、「金魚」、「鳥を飼う」、「唐さんの仕立屋」、「光は流れる水のように」、「レインツリーの魔術師」の10編。

魔術師とますます仲良くなったので、誰もいないときを見計らって、ぼくは黒い小人の秘密を教えてくれと何度もせがんだ。魔術師は小人のときだけは厳しく言った。

「小僧、いいか。わたしのマジックはどれも嘘だ。でも、この黒い小人だけは本当だ。本当だから、言えない。本当だから、ほかのマジックと違って、秘密なんてないんだ」(p.21)

想像以上にモダンでシンプルな短編集で驚いた。どれも台北の中華商場に関係した連作で、歩道橋の魔術師が作中に出てきてはアクセントをつけている。この魔術師、歩道橋で手品をして見物に来ている子供たちに手品グッズを販売しているのだけど、歩道橋の欄干を透明にしたり、双子の片割れをノートに閉じ込めたり、どさくさに紛れて超現実的な魔術を披露している。こういうあり得ないことをしれっと書くところが小説の面白さで、フィクションとは元来「嘘」を表現するものなんだよなと思いを巡らせてしまう。しかもこの超魔術、連作の最後に意表を突いた転回を見せるのだから何とも言えない。全体として、子供時代の回想を通して詩情を感じさせる短編が多かったけれど、その反面、なかなか人を食ったところもあって、その混ざり具合がいかにも現代小説という感じがした。

台湾人の生活が垣間見えるところも興味深かった。今まで台湾を舞台にした小説は東山彰良『流』【Amazon】しか読んだことがなかったので、てっきり本作もバイタリティ溢れる荒々しい生活が活写されるものだと思っていた。ところが、案に相違して彼らの生活は穏やかで、そしてささやかで、先進国とあまり変わらないところに驚く。印象としては、中国よりも昭和の日本にちょっと近いかなという感じ。本書を読んで、新たな台湾人像が僕の脳内にインプットされた。

本書は飛び抜けて良い短編もなければ悪い短編もなく、平均値が高くて安心して楽しむことができる。訳文も平易ですらすら読めるのがいい。最近の台湾を肌で感じられたのが収穫だった。

カリンティ・フェレンツ『エペペ』(1970)

★★★★

言語学者のブダイはヘルシンキ行きの飛行機に乗ったつもりが、間違って別の便に乗ってしまい、見知らぬ土地で降ろされてしまう。そこはやたらと行列ができる人口密集都市で、ブダイの知らない謎の言語が使われていた。人々は外国語を理解せず、言葉が一切通じない。ブダイは都市を探索して何とか状況を打開しようとする。

彼は憤怒のあまり、ナイトスタンドのガラス製の笠を、力いっぱい床に叩きつけた。するとそれは床に飛びちり、彼は右手を切ってしまった。おびただしい出血だった。手の周りにハンカチを巻き、さらにタオルを巻きつけたが、そこからも血は滲み出てくるのだった。彼はこの都市を憎んだ。なぜなら、この都市はありとあらゆる角度から彼を痛めつけ、傷つけようとしているし、性格の変容を彼に迫ってくるからだった。なぜなら、この都市は彼の身柄を幽閉し、脱出させようとはしないからだった。なぜなら、この都市は彼の血と精魂とを吸い尽してしまったからだった……。(p.84)

硬派な不条理文学ですごかった。なぜ硬派なのかというと、言葉が通じないためほとんど会話文がなく、地の文がひたすら続くからである。意味のある会話文は全部合わせても10行以下だろうか。ブダイは言語学者だけあって、ヨーロッパの諸言語はもとより、トルコ語ペルシャ語古代ギリシャ語まで操ることができる。そのうえ、中国語や日本語の素養もあって、まさに言語のエキスパートといったところだ。しかし、そんな完璧超人でもこの都市では無力であり、現地の人たちが何を話しているのかさっぱり分からない。同様に、文字を見ても何を意味するのかさっぱり分からない。パスポートはホテルのフロントが預かったまま返してくれないうえ、空港へどうやって戻るかも見当がつかない。ブダイはあらゆる手段を駆使して言語の解読に奮闘する。本作は紙幅の大半がその様子に費やされていて、これからどうなるのか気になりながら読んだ。

ブダイが状況に抗う様が本作の読みどころだろう。売春婦と2人きりになって意思の疎通をはかるも失敗。警官に暴力をふるって連行されれば通訳がつくだろうと目論んで実行するも失敗。そうこうしているうちに時は過ぎて金もなくなっていく……。こんな八方塞がりな状況って滅多にないのではなかろうか? といっても、かすかに希望はあって、エレベーターガールと心を通わせたり、地下鉄で同国人を見かけたりはする。ところが、それらは根本的な解決には繋がらず、遂には予期せぬ動乱に巻き込まれてしまう。死線をくぐり抜けた先が実にさわやかで、たとえるなら春先に芽を出した植物を見つけたような気分になった。ブダイの決して諦めない態度が素晴らしい。不条理文学もたまには読んでみるものだと思った。