海外文学読書録

書評と感想

キャサリン・ダン『異形の愛』(1989)

★★★★

小人で禿のオリンピア・ビネウスキは、サーカスを運営する両親によって奇形になるよう生み出された。他にも、兄はアザラシ少年、姉はシャム双子、弟は超能力者に生まれついている。サーカスでは兄アーティが権力を握り、遂には健常者を心服させてカルト宗教を形成するまでに至る。

「(……)あなたはきっと、これまで百万回も普通になりたいって願ったでしょ?」

「いいえ」

「え?」

「わたしは頭がふたつ欲しかった。それとも透明になりたかった。足のかわりに魚の尾がついてればって思った。もっとずっと特別なものになりたかった」(p.50)

ペヨトル工房版【Amazon】で読んだ。引用もそこから。

我々が「通常」や「普通」と考えているものとは違った、別の社会規範が堂々とまかり通っている、その独特の世界観がすごかった。ここでは健常者が「フツウ」と見下され、見世物としてより価値のあるフリークスが偉いものだとされている。特に長男アーティのプライドは高く、彼は介護なしで日常生活を送ることができないにもかかわらず、兄弟の間で王様のように振る舞っている。なぜならアザラシ少年である彼のショーは人気だからだ。この世界では人々の耳目を惹くことこそが正義であり、存在の拠り所になる。そして、人の目を向けさせるには奇形度が高ければ高いほどいい(乙武洋匡程度では駄目だろう)。生き抜くためには健常者の世界に適応できないほど重度の奇形、つまり「特別」である必要がある。まさに我々の世界とは価値の逆転が起こっており、『マクベス』【Amazon】の魔女が言っていた「きれいはきたない、きたないはきれい」は、ちょうどこのような状況を指しているのだと思う。

後半でアーティが健常者の一部から神格化され、カルト宗教みたいになっていくところがすごかった。オウム真理教もそうだったけれど、人は見た目が浮世離れしている者に何らかの聖性を感じるのだろう。あるいは無垢と言い換えてもいい。ともあれ、この集団の過激なところはその目的で、信者たちは己の四肢切断を望んでいるのだから半端ない。世の中には欠損フェチなる人がいるらしいけど、もはやそういうレベルではなく、完全に常軌を逸している。僕なんかはここまで来るとまったく理解不能だけど、世界は広いから、こういう人たちもひょっとしたら存在するのではないかと思ってしまう。何が普通で何が異常なのか分からない世界。本作は既存の価値観を揺さぶられたい人にお勧めである。

マヌエル・プイグ『天使の恥部』(1979)

★★★★

(1) 1936年。映画女優の女は、夫によって電流を流した鉄柵のなかに閉じ込められていた。彼女は死者との密約により、30歳になったら他人の心が読めるようになるという。女はスパイの男に恋をして一緒に脱出する。(2) 1975年。メキシコ。癌で闘病中のアンは日記をつけたり、友達や愛人と会話をしたりしている。(3) ポスト原子力時代。セックス治療部に所属するW218はLKJSという男と恋に落ちるも、彼は某国のスパイだった。

でも、世界は男の人たちのもの。法王だって男性、政治家も科学者も。そして、世界はそうしたもの。男の姿に、類似点に合わせて世界は作られている。どれもこれもひどくひどく非人間的で醜悪で荒っぽい。(p.257)

ペロリストとかペロニズムとか、アルゼンチンの政治についてやたらと会話を繰り広げているので、てっきりこれが主題なのかと思っていたら、案に相違して女性の恋の物語、さらには母と娘の物語だった。といってもまあ、そういった政治状況が創造の源になっているのだからまったく無関係とは言いきれない。強いて言うならば、ライトモチーフといったところだろう。本作は(2) があるからこそ、(1) と(3) もあるという構造で、その中に創造主の願望や欲望の破片を見出すところにささやかな楽しみがある。これこれこういう状況があるから、こういう物語が生まれたのだという感じ。人が物語を作るとはどういうことなのか。本作はその根源に迫った小説と言えるかもしれない。

スパイ小説風のメロドラマが意外と面白く、わくわくしながらページを捲っていったのだけど、それにしても、(1) のあっけない終わり方には面食らってしまった。このまま物語の最後まで引っ張っていくのかと思ったのでびっくり。その後を引き継いだ(3) はSFを取り入れながらもやっぱりスパイが絡んでいて、お前はどんだけスパイが好きなんだとツッコミを入れてしまった。たとえば007シリーズは男のハーレクインと呼ばれているけれど、実はこれって女性にも需要があるのかもしれない。ここから自分を連れ出していってくれる白馬の王子様として受容されている、というか。

それにしても、本作は終わり方が良かった。世の中にはラスト一行に余韻が乗る小説が多々ある。本作もその仲間に入るだろう。小説って終わり良ければ全て良しというところがある。

フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア』(1534)

★★★★

巨人族の王家に生まれたガルガンチュアは、長じてからパリに留学する。そこへ村人たちの些細ないざこざから祖国が攻め込まれて戦争になっているとの知らせが来た。帰国したガルガンチュアは兵を率いて敵を打ち破る。

先日、われ脱糞しつつ

わが尻に残りし借財を感ず

その香り、わが思いしものにあらずして

われ、その臭さに撃沈さる

 

嗚呼、誰か、

われが脱糞しつつ、待つ貴女を、

連れてきてくれぬものか。

さすれば、われ、女の小用の穴を、

がばっとふさぎて、

女は、脱糞しつつ、

その指にて、わが糞穴をふさがんものを。(pp.118-9)

これは面白かった。『ドン・キホーテ』【Amazon】の先駆けみたいな愉快な小説である。訳注や解説によると、本作は当時のカトリック社会におけるアクチュアルな問題を風刺したようだけど、そういうのを抜きにしても、ハチャメチャな騎士道物語といった感じで楽しめる。特に序盤は小学生が好むような下ネタ(糞尿やちんこ)が多くて、何で当代きってのインテリがこんなお下劣な要素を作中に取り入れたのか気になった。小便をしたら洪水が起きて人間が溺れるエピソードとか神話的でさえある。

本作はルネサンス期の小説だからか、ホメロスソクラテスプラトンといった古代ギリシャの文化が引き合いに出されているのが感動的だった。500年前の人も現代人と同じものを読んでいたのだなあという素朴な感慨。他にもカエサルキケロといった古代ローマ人にも触れていて、当時の知識人が何を拠り所にしていたのか分かって興味深い。ルネサンスというのは、キリスト教と古典文化の幸福な結婚だったのだなと思う。

当時はフランス語が書き言葉として認知されはじめた時期のようで、そのせいか作中にはフランス語で初出の言葉がいくつか出てきた。このように作家が言葉を創造するところは、夏目漱石に代表される明治文学に似ているかもしれない。それと、著者が医者であるせいか、解剖学的描写が妙に詳しいところも特徴的だった。

ところで、『ドン・キホーテ』を読んだときも気になったけれど、この時代のトリッパ(臓物料理)って味はどんなものだったのだろう? どうやら牛の胃腸の煮物らしいけど、たとえば現代のもつ煮込みみたいな感じだったのだろうか。昔の人が何を食べていたのかとても気になる。

ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『トランス=アトランティック』(1953)

★★★

1939年8月。ポーランドからアルゼンチンに渡航したゴンブローヴィッチは、遠い祖国で戦争が始まったことを聞く。アルゼンチンに残ることにした彼は当座の金を得ようと職探しをするも、その前に奇人変人が立ちはだかる。さらには公使から文豪と祭り上げられるのだった。その後、金持ちでホモのゴンサーロと盟友になり……。

小生は思わず大声を張り上げた。「だまれ。言わせておけば、いい気になりやがって。父親や祖国に小生を歯向かわせようなんて、冗談も休み休み言ってもらいたい。しかも、このような時局だのに!」奴さんはぶつぶつと、「父親だの祖国だの、そんなものくそくらえ! 息子、息子、そうか、やっとわかった! あんた、口癖のように祖国、祖国って言うけれど、それって何なの? それより、孫国の方がステキじゃない? 祖国の代わりに孫国と唱えたら、おもしろいかも!」(p.89)

荒削りでアッパー系な文章と戯画的な人間模様が絡み合った「奇書」とも言うべき小説だった。著者は本作で、「ポーランドとは何か?」を追求したようだけど、僕は彼の国には詳しくないのでその辺については何とも言えない。ただ、第二次世界大戦ポーランドは悲劇に見舞われたのに、そういった被害者意識を一切出すことなく、ここまで喜劇に徹したのはすごいことだ。ホモのゴンサーロはある青年に色目を使ったことから決闘するはめになったけれど、それは周囲のお膳立てで茶番に終わる。かと思えば、終盤では奇妙な暗殺計画が持ち上がってカーニヴァル的なドタバタになだれ込む。ゴンサーロは唇を赤く塗った変態で、そのキャラはどこかシャルリュス男爵(『失われた時を求めて』【Amazon】の登場人物)を彷彿とさせる。結局のところ、本作とポーランドとの間に何の関係があるのかいまいちよく分からない。けれども、そのアッパー系な熱狂にはインパクトがあって圧倒された。

著者のゴンブローヴィッチは、ポーランドからアルゼンチンに移住した作家である。そこで一つの疑問が生じる。果たしてこの作家はポーランド文学に分類すべきなのか、それともアルゼンチン文学に分類すべきなのか? こういった例は他にもあって、たとえば『ロリータ』【Amazon】で有名なウラジーミル・ナボコフはロシアからアメリカに亡命した作家だし、ノーベル賞作家のJ・M・クッツェー南アフリカからオーストラリアに移住した作家である。僕がこのブログでアメリカ文学やフランス文学といったカテゴリを設けてないのは、越境が容易な現代においてそういう括りが難しくなっているからだ。このままグローバル化が進んでいったらいつか無効になるんじゃないかとすら思っている。いつか我々は国民文学の伝統をゴミ箱に捨てる日がやって来るだろう。そのときの混乱が少し楽しみではある。

コラム・マッキャン『世界を回せ』(2009)

★★★★★

1970年代。ダブリンで生まれ育った「僕」は、修道士としてニューヨークに渡った弟コリガンを追うように渡米する。コリガンは売春婦への慈善活動と介護施設で老人介護をしていた。あるとき、コリガンは売春婦を乗せてバンを運転中に予期せぬ事故に見舞われる。

ニューヨークを訪れた当初、彼はこの街が気に入らなかったというーーゴミだらけの、せわしない街だとーーけれどもだんだん慣れてみると、ぜんぜん悪くなかった。この街にやってくるのは、トンネルに入るようなものなんだ。しばらくすると、大事なのは出口の光じゃないと分かって驚くことになる。時には、トンネルのおかげで出口の光に耐えられるんだと分かることもある。(上 p.237)

全米図書賞受賞作。

読み始めは退屈で正直凡作だろうと思っていた。ところが、無関係と思われたエピソード群がほのかに繋がってきたあたりから面白くなり、終盤は尻上がりに良くなっていって、最後には読んで得したと思わせる傑作になっていた。「純文学」とは本作のためにある言葉だろう。たいていの小説は序盤からある程度評価が固まって動かないものだけど、この小説は星3→星4→星5と読み進めるごとに評価が変わっていった珍しい例だった。

本作の中心には、1974年に世界貿易センターで綱渡りをしたフィリップ・プティのエピソードがあって、その周りを下界の人たちの暮らしがぐるぐるような回っているようなイメージになっている。修道士コリガンを皮切りに、ベトナム戦争で息子を亡くした母親、ニューヨークの芸術家カップル、地下鉄のトンネルでタグを撮影する男など、章ごとに焦点となる人物が変わっていくのだけど、前述の通りこれらが繋がっていくところに快感があり妙味がある。日本の作家だと伊坂幸太郎がこういう構成を用いそう。構成に一工夫あるところが本作に奥行きを与えていて、世界とはこのように繋がり回っているのだということを実感させる。

章ごとに文体を変えているところも良かった。売春婦視点のエピソードやハッカー視点のエピソードなど、よくこんな多彩に描けたものだと感心する。本作は『ならずものがやってくる』の上位互換と言えるかもしれない。巧みな構成によって世界をワイドスクリーンで捉えているところが共通している。日本ではあまり売れておらず、あまり読まれていないのが残念。いやホント、これは傑作だから読んだほうがいいと思う。21世紀の文学とはこういうものだということが分かる。

追記。コラム・マッキャンは他に『ゾリ』も翻訳されている。こちらも負けず劣らずの傑作だった。残りの著作も早く翻訳出版すべきである。