海外文学読書録

書評と感想

ブレット・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』(1991)

★★★★

80年代。ウォール街で働く26歳のパトリック・ベイトマンは、ブランドものに身を包み、仲間たちとレストランで会食したり、女たちとセックスしたりする生活に明け暮れていた。その一方で、彼は殺人嗜癖を満たすべく、無差別に人を殺している。

いまラスティーズでチャールズ・マーフィーと酒を飲んでいて、これで勢いをつけてから、イヴリンのクリスマスパーティーに顔を出すところだ。私が着ているのは、四つボタンでダブルのウールとシルクのスーツ、ボタンダウンカラーをつけたヴァレンチノ・クチュールのコットンシャツ、連続模様の絹ネクタイがアルマーニ、キャップトウの革のスリップオンマフラー靴がアレン・エドモンズ。マーフィーが着ているのは、六つボタンでダブルのウールギャバジンのスーツで、これはクレージュのもの。タブカラーをつけたストライブのコットンシャツと、シルククレープのフラール織ネクタイが、どちらもヒューゴ・ボス。(p.214)

80年代の駄目な部分をこれでもかと突きつけていてインパクトがあった。本作を読むと、当時のアメリカも日本のバブル時代と変わらなかったのだと思う。ここでは不動産王ドナルド・トランプヒエラルキーの頂点にあり、どれだけいいブランド品を身に着け、どれだけ高級なレストランで食事をするかが至上の価値にある。人物が登場するとまず着ている服に注目し、上の引用のような描写が何度も出てくる。作中に氾濫するブランドの名前、有名人の名前。本作は物質文明の境地を極めている。

語り手のパトリック・ベイトマンはエリートビジネスマンなのだが、仕事の場面はほとんどなく、もっぱらプライベートの部分に焦点が当てられている。仲間たちとの会食、女たちとのセックス、フェイシャル(美顔術)、マニキュア(美爪術)、 ペディキュア(足の手入れ)、ジムでのトレーニング。そして、退屈な人生に一片の刺激を与えるかのように殺人がある。本作にはこれといった明確なストーリーはなく、『トレインスポッティング』【Amazon】のように生活の断片を積み重ねているのが特徴だ。ベイトマンの過去はほとんど謎で、分かっているのはハーヴァードのビジネススクールを出たことくらい。確かに高収入でいい生活は送っているのものの、その消費生活はどこか空虚に見える。本作の登場人物は何のために生きているのかさっぱり分からないのだ。ひたすら顕示的消費に明け暮れる人生。これの何が楽しいのだろう?

しかし翻って自分のことを考えると、彼らと大差ない不毛な人生を送っていると思う。朝起きて飯食って仕事して風呂入って寝るの繰り返し。回し車を走るハムスターのような生活。我々はいったい何のために生まれ、何のために生きるのか? 本作はそんな哲学的な問いを突きつけてくる。殺人描写が猟奇的でえぐいので、そういうのが好きな人にもお勧めできる。

エリートビジネスマンが無差別殺人に及ぶのは、弱者を収奪する資本主義社会とパラレルである。サイコパスは弱者を殺すことで己の嗜癖を満たし、資本主義エリートは弱者を殺すことで己の富を増やす。経営者にサイコパスが多いことは周知の事実だろう。本作は徹底して資本主義の寓話を書いている。

ベン・ファウンテン『ビリー・リンの永遠の一日』(2012)

★★★★

イラク戦争。19歳のビリー含む8人のブラボー分隊の兵士たちは、英雄としてテキサスのスタジアムに駆り出されていた。彼らはフットボールの試合で、芸能人たちと戦意高揚の見世物になっている。兵士たちはこれが終わったら中東に帰任することになっていた。

彼らの年齢がいくつであれ、人生での地位がどうであれ、同胞のアメリカ人たちのことをビリーは子供であると考えずにはいられない。彼らは大胆で、誇り高く、自信たっぷりだ。自尊心に恵まれすぎた賢い子供のようであり、どれだけ教え諭しても、戦争が向かう先の純然たる罪の状態に彼らの目を開かせることはできない。(……)アメリカ人は大人になるために――そしてときには死ぬために――よそに行かなければならない子供なのだ。(p.62)

全米批評家協会賞受賞作。

アメリカを皮肉の効いた筆致で描いていて面白かった。とある翻訳家が「アメリカの小説は無国籍化した」とどこかで書いていたけれど、それはとんでもない間違いなのではないか。また、別の翻訳家は「アメリカ文学アメリカを語らなくなった」と書いていたけれど、これもとんでもない間違いなのではないか。まあ、もしかしたら本作が例外なだけかもしれない。いずれにせよ、本作みたいな気の利いた小説を読むと、アメリカ文学もまだまだ捨てたものじゃないなと思う。

アメリカはフットボールとチアガールが大衆娯楽の華で、人々は祈ることがやたらと好き、資本家たちは兵士たちの英雄的行動を映画にしようと目論み、しかもその映画にはヒラリー・スワンクが主演したがっている(モデルになった兵士は男だというのに)。ブッシュ大統領を含む政権上層部は、ベトナム戦争のときに兵役逃れをしたにもかかわらず、若い世代には戦争を押し付けていた。同様にアメリカ国民も、自分は戦場に行きたくないくせに戦争を熱烈に支持している。この圧倒的歪みが、卑語や罵倒語で話す兵士たちと呼応し、さらにはショーの狂騒と同調することで、とんでもなくグロテスクな空間を作り出している。戦場を舞台にしていないのに戦争の本質を暴いたのが本作のすごいところで、ポスト9.11のアメリカを肌に感じたいのだったら本作は必読だと思う。

それにしても、何かと英雄を欲しがるアメリカの国民性って当のアメリカ人は無自覚だと思っていたけれど、実はそうでもなかったようだ。

ジェニファー・イーガン『ならずものがやってくる』(2010)

★★★★

盗癖を治すべく精神科医にかかっているサーシャは、かつて有名音楽プロデューサーであるベニーのもとで働いていた。ベニーは元パンクロッカーで、サーシャも彼に負けない数奇な人生を歩んでいる。物語は2人を軸に様々な人物に焦点を当てていく。

「お前にはやれる、スコッティ……やらねばならん」とベニーが言った。いつも通りの穏やかな声だが、その薄くなった白髪の隙から、頭皮が汗に光るのが見えた。「時間ってやつはならずものだ。そうだろ? そのならずものたちを、のさばらせておくつもりか?」(p.421)

ピュリッツァー賞、全米批評家協会賞受賞作。

本作は全部で13章あるのだけど、どれも主人公が違っていて、なおかつ語りの形式も変えてある野心的な内容だった。語りについては、一人称・二人称・三人称といった違いは序の口で、もっといくと芸能記事を模した形式やパワーポイントで作ったスライド形式の章まである。時系列も過去・現在・未来を章ごとに行き来するのだから、これはもう「一筋縄では語らないぞ」という著者の意気込みがひしひしと伝わってくる。ならずもの=時間を捉えるには、このようにワイドスクリーンかつ多面的に描かないといけないのだ。物語そのものは凡庸だったけれど、野心的な形式に惹かれるところがあったので評価は星4にした。やはり現代文学は、何を語るかではなく、どのようにして語るかが重要なのだろう。語るべきものが何もない時代において小説とはどうあるべきか? そのひとつの回答がここにある。

その場を壊したいという一種の破滅衝動が本作に通底している。ある人物は独裁者に余計なことを言って命を危険に晒しているし、ある人物はインタビュー相手の女性を突然強姦しようとしているし、ある人物は友達と一緒のときにわざと怒らせるようなことを言っている。そもそも、本作の主人公格であるサーシャが、盗癖のある問題人物だった。このように精神的自傷行為をする人物が多く登場するのが何とも不思議で、現代のアメリカ人はこんなに病んでいるのか、それとも著者にその傾向があるのか、何とも判然としない気持ちを抱きながら読んだのだった。

追記。全米図書賞を受賞したコラム・マッキャン『世界を回せ』は本作の上位互換である。両方を読み比べてみると面白い。アメリカ文学の進化の方向性が分かる。

ポール・オースター『冬の日誌』(2012)

★★★

自伝。主に肉体の出来事を軸に、時系列を錯綜させながら語っていく。野球に熱中した少年時代、女の子に熱をあげた思春期、生まれてから現在までの住所遍歴、母親の死、自分の結婚など。

自分はそんなふうにならない、そう君は思っている。そんなことが自分に起きるはずがない、自分は世界でただ一人そういったことが何ひとつ人間なのだと。それがやがて、一つまた一つ、すべてが君の身に起こりはじめる――ほかの誰もに起きるのと同じように。(p.3)

自伝なのに時系列を錯綜させるところと、自分に対して「君」と語りかけるところが特徴的だった。読み始めはだいぶとっつきにくさを感じるけど、途中からぐいぐい引き込まれるようになるので、序盤は我慢して読んでいくことをお勧めする。

とりあえず、色々なことを赤裸々に綴っているのでファンは必読だろうか。僕は特別ファンというわけでもないから、いまいち有り難みを感じなかったけど、それでも覗き見趣味的なものは十分満足させられた。他人の人生は最高のコンテンツだと思う。

序盤は生傷の絶えない少年時代が印象的だった。机の脚に刺さっていた釘で顔を突き破って何針も縫ったり、野球の一人フライキャッチをしていたら近くの子供に後ろからぶつかられて血まみれになったり(歯が後頭部に突き刺さった)、行方不明の友達を探していたらスズメバチだかクマンバチだかの巣を踏んづけて刺されまくったり。あと、落雷で友達が死んだという記述もあった。その後、大人になってからも死にかけ体験が2回あったようだし、ポール・オースターは常人よりよっぽど危険な目に遭っていたことが分かる。いや、もしかしたらこれが平均的なアメリカ人の人生なのかもしれないけど。

著者の初体験は16歳で、相手は黒人の娼婦。この娼婦とのやりとりがなかなか笑えるので、序盤がつまらないと思ってもここまでは読んだほうがいい。さらに、パリ滞在時に下の住人と揉めた話もこれに負けず劣らずといった感じかな。アメリカとフランスのカルチャーギャップを知ることができる。あと、本書を読んでポール・オースターユダヤ人だということを初めて知った。確かに改めて顔写真を見るとそれっぽいような気がする。他にも妹が統合失調症であることを明かしたり、従姉のことを酷く毛嫌いしてdisったり、やはり明け透けであることが本書の魅力だろう。僕はここまで自分を切り売りできないので、著者には尊敬の念をおぼえる。

本書のハイライトは母親の死で、自分もいつかこの日が来るのだと思うと何だか悲しくなった。

イアン・マキューアン『ソーラー』(2010)

★★★

ノーベル賞を受賞した科学者マイケル・ビアードは、これまで4回離婚し、現在の妻と結婚してからは11回浮気していた。その彼が様々なトラブルに見舞われつつ、同僚が残した新しい太陽光発電のアイディアを盗んで事業を立ち上げる。

人生のさまざまな苛立ちのなかのどれが不眠の原因になるかは、だれにも予測できない。日中の最適な条件の下でさえ、人はどんな問題について苛々するかを自由に選べるわけではないのだから。(p.236)

喜劇的な場面の描写がやたらと面白くて、「神は細部に宿る」という言葉がぴったりの小説だった。イアン・マキューアンっていつ頃からか緊密な細部を描くようになり、それが彼の売りになったと思う。特に昔読んだ『初夜』【Amazon】はすごかった。

主人公のマイケル・ビアードはノーベル物理学賞を受賞するほどの知性がありながら、女にだらしがなかったり、目先の利益に囚われたり、とにかく人間性が最低で面白いのだけど、それに輪をかけて面白いのが、彼に降りかかる数々の困難だったりする。北極でスノーモービルを運転していたら急に尿意をもよおし、上手く立ちションしたはいいものの、性器をジッパーに触れさせて凍りつかせてしまう。それだけに留まらず、すんでのところで白熊に襲われそうになる。妻の浮気相手のところに行ってそいつの脛を蹴ろうとしたら、逆に相手から平手打ちを食ってしまう。電車のなかでポテトチップスを食べていたら、相席の若者が無断で食べてきて一触即発の雰囲気になる(これは後に意外なオチがつく)。愛人から妊娠を告げられたとき、自分の精子オデュッセウスの冒険にたとえる――。小説というのはエピソードの積み重ね、ひいては言葉の積み重ねでできていることを強く意識させる内容だった。

本作は2010年の小説であるため、当然のことながら福島第一原発事故については触れられてない。もしこれが3.11後に書かれていたらどうなっていただろう、とつい空想してしまう。作中ではチェルノブイリには触れられていたから、原発が汚いエネルギーという認識は共有されている模様。大筋では変わらないにしても、脱原発の流れは確実にあるから、この業界も、そして主人公の身の振り方も、それなりに変化がありそうではある。どうせならイアン・マキューアンの筆によるポスト福島の状況を読んでみたかった。

ノーベル賞の科学者が出てくるところに言い知れぬ感興を催すのは、イアン・マキューアンノーベル文学賞の候補と目されているからだ。そこで読者はニヤリとしてしまう。この主人公は作者のオルターエゴであると同時に、作者はそう見られるのを意識しているな、と。これもまた世界文学の楽しみ方のひとつではなかろうか。