海外文学読書録

書評と感想

オルハン・パムク『僕の違和感』(2013)

★★★★

12歳のときに故郷の村からイスタンブルに移住したメヴルトは、学校に通いながらヨーグルトの呼び売りをしていた。成人後、いとこの結婚披露宴に出席した彼は、ある女の子に一目惚れする。3年間恋文を送り続け、いざ駆け落ちをするも、ついてきた相手は惚れた女の姉だった。

メヴルトはようやく、四十年間ずっと知っていながら、しかし明瞭にそれとは気づかないでいた真実を悟った。彼は自分の頭の中を巡り歩いているような気がするからこそ、夜の街を歩き続けてきたのだ。自分自身と話しているように思えるからこそ、壁や広告、影、あるいは暗闇の中にあって判別のつかない、不可思議で神秘的な事物たちと言葉を交わしてきたのだ。(下 p.365)

1960年代から2010年代まで、半世紀にわたる人生を追った大河小説である。全体としては語り口が飄々としていて親しみやすく、メヴルトに焦点を当てながらも様々な人物の語りが割り込んでくる。訳者が違うせいか、同時期に刊行された『黒い本』と比べて抜群に読みやすい。オルハン・パムクの小説は全部この人が翻訳するべきだと思った。

イスタンブルに住む庶民の生活が興味深い。みんな田舎から出てきて勝手に一夜建ての家を作り、各々商売をして生計を立てている。我らがメヴルトはボザというアルコール飲料の呼び売りを終生の職業とするのだけど、それ以外にも軽食スタンドの店員や駐車場の監視員、電気料金の徴収人など、時代に応じて様々な職についている。メヴルトは友達は多くない代わりに、いとことの付き合いが密で、なるほどこういう親族同士の助け合いがイスラム社会の肝のようである。やはりこういうマイナーな国の小説は、登場人物の生活を通して背後にある社会が透けて見えるところが魅力的なのだ。本作の場合、イスラム社会と言ってもわりと世俗的で、女性でも大学に進学できたり、人々が公然と飲酒をしていたり、こちらの偏見を覆してくれたのが新鮮だった。それと、クルド人が出てくるところも特筆しておきたい。

若き日のメヴルトはサミハという少女に恋をしたのだけど、手違いでその姉ライハと駆け落ちして結婚することになる。こういう状況だと、相手を愛せるのか、果たして幸せになれるのか、という疑問がわいてくるだろう。しかし、本作はその答えがふるっている。というのも彼は、中年になってライハと死別してからサミハと再婚し、当初の念願は叶いながらもラストで次のようなセリフを残す。

「ボーザ―」通りへ出るとメヴルトは声を張り上げた。金角湾へ向かって、まるで無窮へ続くかのような佇まいを見せる通りを下っていくと、スレイマンの部屋で見た景色が眼前に蘇った。都市に語るべき、その壁に書きつけるべき言葉をようやく思いついた。公的でもあり、また私的でもある思いを託され、心の意志と言葉の意志が込められた言葉を。メヴルトは自分自身にこう声を掛けたのである。

「僕はこの世でライハが一番、愛しいんだ」(下 p.371)

いやー、痺れた。この幕引きは今まで読んできた小説のなかでも指折りの美しさだった。読んでいるこちらも報われた気分になった。

鄭義『神樹』(1996)

★★★

山西省の山村。樹齢数千年の神樹が花を咲かせた。それを機に村にゆかりのある亡霊たちが次々と現れ、過去の出来事を呼び覚ましていく。やがて村には大勢の参拝客が訪れるようになった。そこへ共産党が迷信を打破するために戦車隊を送り込んでくる。

「お前だって共産党だ、党の言うことが政策だ、ってことぐらい知っとるだろう。毛主席もおっしゃった――政策と策略は党の命である。今日の名誉回復も政策、昨日の闘争鎮圧も政策だ。今日は今日の形勢あり、昨日は昨日の必要あり、今日の政策で昨日の政策を否定できるもんかね」(p.45)

亡命作家じゃないと書けないような内容でなかなか刺激的だった。共産党や解放軍、さらには血の日曜日事件天安門事件)が名指しで出てくるなんて、現代中国文学ではまずお目にかかれないような気がする(莫言の小説に出てきたかもしれないが記憶が曖昧)。それと、読んでいる最中は似ているとは思わなかったけど、最後まで読むと『百年の孤独』【Amazon】を参考にしていることが分かって感慨深い。終わり方がもろそんな感じだった。

現在と過去を自在に行き来しながら、抗日戦争、土地改革、文化大革命などといった半世紀にわたる村の歴史を掘り起こしている。こういう中国の大河小説を読む醍醐味って、時代に翻弄される民衆の生き様を体験することにあると思うので、その意味では満足のいく読書体験ができた。毛沢東の写真が載った新聞紙で煙草を巻いたら反革命分子にされたとか、文革のときにスローガンを間違えて「打倒毛主席!」と叫んだために失脚しただとか、冗談のようで現実にありそうな小ネタが笑いを誘う。

また、本作の舞台になった山村でも血みどろの権力闘争があって、容赦なく人が殺されているところが中国らしい。特に土地改革や文化大革命といった政治の節目が危なくて、中国に産まれると人生ベリーハードだなとつくづく思う。しかも、過去には権力をめぐって互いにしのぎを削っていた人たちが、現代では平和に共存しているところが何とも言えない。僕だったら一度受けた怨みは一生忘れないけど、中国で生きていくには過去を水に流す度量が必要なのだ。この辺、中国人のたくましさとおおらかさが感じられる。

村人たちと戦車隊の対決は、天安門事件の再現といったところだろう。神樹を守るべく命を懸ける村人と、それを踏みにじる人民解放軍。本作は文学好きの日本人よりも、情報統制された現代の中国人にこそ読んでもらいたい。

エドワード・P・ジョーンズ『地図になかった世界』(2003)

★★★★★

19世紀のヴァージニア州マンチェスター郡。黒人農場主のヘンリー・タウンゼントが31歳で急死する。彼は両親ともども白人農場主の元奴隷で、父親が貯めた金で自由になっていた。ヘンリーは自由になった後、自分も黒人の奴隷を持ったので、奴隷制に否定的な父親と折り合いが悪くなっている。

「ヘンリー・タウンゼントなら知っている。だから、死んだ奴隷の賠償が必要になれば必ず払ってやる」とロビンズは言った。彼はイライアスの顔から三センチのところに銃を構え、もう一度殴った。イライアスは倒れた。「百歳まで生きるつもりなら、白人と揉めないことを知るんだな」(p.95)

ピュリッツァー賞、全米批評家協会賞受賞作。

これは凄かった。当初は時系列が行き来して主要人物の過去と現在を語っていて、正直なところいまいち乗り切れなかったのだけど、様々な脇役にスポットを当てるようになってからは一気に世界が広がって、小説を読むことの幸福を味わったのだった。

南北戦争前、奴隷制が当たり前だった時代の空気に引き込まれる。そこには奴隷を所有する白人や自由黒人がいて、そんな彼らに使役される奴隷がいて、奴隷は奴隷で一癖も二癖もある人物が男女問わずひしめいている。さらには保安官とその部下たち、黒人を誘拐する転売屋、胡散臭い保険のセールスマンなど、彼らが織りなすエピソードがとても面白い。振り返ってみると、全体的には理不尽な出来事が多いのに、読んでいる最中はそれが普通の出来事としてすんなり頭のなかに入ってくるから不思議だ。奴隷制の是非を問うようなイデオロギーを声高に主張せず、ただストイックに当時の様相を構築していく。その姿勢には兜を脱ぐしかないという感じだった。

作中では、白人が黒人を一方的に支配しているわけではなく、時には白人が黒人を助けている。かと思えば、自由黒人が警らの人間から証書を奪われて奴隷の転売屋に売られる。さらに、持たざる白人が南部諸州を放浪して最後には客死する。他にもたくさんの興味深いエピソードがあって、それらすべてが寄り集まって世界の均衡をなしている。世界は善も悪もあるがままに並立しているのだ、という意思がひしひしと感じられた。

ミシェル・ウエルベック『服従』(2015)

★★★★

2022年。大学教授でユイスマンスの専門家であるフランソワは、愛人とセックスをする平穏な生活を送っていた。ところが、選挙でイスラーム同胞党が躍進したことで周囲が慌ただしくなる。その後、決選投票によってイスラーム政権が誕生するのだった。

「あなたはマッチョだ、って言ってもいいかしら」

「分からない、そうかもしれない、ぼくは多分いいかげんなマッチョなんだ。実際のところ、女性が投票できるとか、男性と同じ学問をし、同じ職業に就くことがそれほどいい考えだと心から思ったことはない。今はみんな慣れっこになってるけど、本当のところ、それっていい考えなのかな」(p.35)

ウエルベックらしい毒の効いた小説で面白かった。フランスでイスラームが政権をとるとしたらどのようなプロセスをたどり、政権をとった後はどのような社会改革をするのか? という思考実験がとてもスリリングで、どうなることかとわくわくしながら読んだ。フランス政治に疎い僕ですら面白く読んだのだから、フランス人が読んだらもっと面白いのだろう。

フランスでイスラームが政権をとるのって、日本だと共産党が政権をとるようなものと言えるだろうか。つまり、それくらい国民は当該政党に対してアレルギーを持っていて、政権をとったらドラスティックに社会が変わると予想されるということである(それも悪い方向に)。

本作の場合、まず街からミニスカートやホットパンツの女性がいなくなり、代わりにパンタロンを履いた女性が増えるという現象から始まって、遂には巧妙な政策で女性が労働市場から大量に脱落してまう。さらに、一夫多妻制が認められ、義務教育は小学校までで終わり、イスラーム教徒でないものは公職に就けなくなってしまう。政教分離という建前はなくなり、大っぴらにイスラームへの改宗が勧められるようになる。これは先進国に住んでいる者からしたら「退行」としか言えないし、もし自分がこの環境にいたらと思うとぞっとしてしまうけれど、本作の主人公であるフランソワはちゃっかり順応していて、ああこれはマッチョにとっては理想的な環境なんだなあと思う。冒頭に引用した会話文とイスラームの教えが見事に共鳴している。

オチは予想通りというか、フランソワが改宗者のユイスマンスを専門にしている時点で、この結末は必然だったのかもしれない。ウエルベックのちょっぴりやんちゃな作風は、どこか村上龍に通じるところがあって興味深い。

アンソニー・ドーア『すべての見えない光』(2014)

すべての見えない光 (新潮クレスト・ブックス)
 

★★★

(1) ナチス時代のドイツ。孤児の少年ヴェルナーが、才能を認められて国家政治教育学校に入学する。そこでは士官候補生たちが異様な生活を送っていた。(2) 同じ時代のフランス。盲目の少女マリー=ロールが、父に連れられてサン・マロへ疎開する。博物館員の父は、伝説のダイヤモンド〈炎の海〉の守秘にあたっていた。

ヴェルナーには、これまでになにが起きていようと、これからなにが起きようと、そのあいだの空間には目に見えない境界地帯が漂っていて、その片側にはもう知っているもの、反対側にはまだ知らないものがあるように思える。自分のうしろにある町にいるかもしれないし、いないかもしれない少女のことを考える。彼女が溝に沿って杖を走らせる姿を思い浮かべる。見ることのできない目、乱れた髪、輝く顔で、世界に立ち向かっている。(p.431)

ピュリッツァー賞受賞作。

新潮クレスト・ブックスらしい「美しい物語」だった。人間はどれだけに野蛮になれるか、そしてどれだけ善人になれるかの標本箱みたいというか。士官候補生の学校では教官主導のいじめが横行しており、弱い者を排除するという野蛮な教育が行われていた。その一方、ドイツ兵になったヴェルナーはとても善人で、本来だったら心を許していけないフランス人、すなわち盲目の少女マリー=ロールを助けることになる。その前に無線機を通じての「繋がり」が非常にロマンティックで、このシチュエーションを思いついた時点でアンソニー・ドーアは勝利を確信したと思う。

本作は断章形式で書かれているので、息継ぎがしやすくとても読みやすい。内容も「美しい物語」、かつほどほどにサスペンスフルなので、海外文学初心者にお勧めである。ただ、新潮クレスト・ブックスのヘヴィな読者はこういう小説を読み飽きているだろうから、その種の人たちはワンランク上の小説を読んだほうがいいかな。本作は良くも悪くもクレスト・ブックスらしい小説だった。